[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
いまからでは、前夜祭も切符(DINNER付き)売りきれているのではと思いながら、TEL入れる。案に相違してまだ当日申し込み受け付けますとの返事。それが午後1時30分頃のこと。すぐ弘子ちゃんに出動スクランブルをかける。
この神戸JAZZSTREETは今や神戸の名物となっていて、今年で27回を迎える。1981年からもう27回。
神戸JAZZ界のドン・末廣光夫神戸デキシーランド協会会長が主宰する誠にユニークなJAZZフェスチバル。
たぶん末廣さんは神戸の町に一日ニューオーリンズを再現しようとしているに違いない。2日間にわたって神戸の町にJAZZが溢れかえる。海外のゲストも含めて160人を下らないMUSICIANが集う。
会場のクラウンホテルはかのダイエーの総師・中内功が弟・中内力に対抗して創った新神戸オリエンタルホテルのこと。中内功氏が神戸商科大学OB会の淡水会会長であったことから、何度か同窓会の招集でおじゃましている。近くでは高知県人土陽会公文康名誉会長の適寿リハビリ病院創立20周年パーティーに招かれた。
前夜祭の会場はこの時と同じ10Fの大ホールであります。いったいどんな雰囲気の会なのか知りたくて少々速い目に会場前ロビーに入る。だいたい今まではいつも演奏する側にいて聞くがわの気持ちがサッパリ分からない。・・ロビーを見渡すと、北村英治の見事な白髪の頭が揺れていた。
3日午前新聞を読んでいると、右近雅夫「凱旋の音色神戸に」という記事が目にとまった。右近雅夫は1954年(昭和29年)12月2日、関西学院の学生バンド、KGハートウオーマーズを率いて一枚のレコードを録音した翌年9月一家をあげてブラジルへ移民した人物が神戸での演奏会に里帰りするとのこと。神戸在住のミュウジシャンで右近雅夫の名前を知らないものはいない。伝説中の人物である。
(以下、神戸JAZZSTREETの末広光夫JAZZエッセイより無断引用)
「右近雅夫?誰のこと?」そういう方もあるでしょうね。「聖者の行進」を日本で最初に演奏したのは、プロのバンドではなく、アマチュアのしかも関西の学生バンドでした。K・Gハートウオーマーズ、そう今のオリジナル・デキシーランド・ハートウオーマーズの前身です。そのリーダーが右近雅夫でした。
その彼を有名にしたエピソードがあります。昭和28年12月19日のこと、この日はジャズの神様と言われたルイ・アームストロングが神戸の聚楽館にやってきて神戸のジャズフアンに本場のジャズを聴かせてくれた、忘れることの出来ない日です。(おやじ・清志さんもいそいそと聚楽館に出かけた。)
昼間の公演が終わって、興奮冷めやらぬ僕のところへ、右近雅夫がレコードを小脇にはさんでやってきました。「新しいレコードが出来たので、プレゼントします。」と言う。彼の言葉を聞いて、傍らにいたジャズ評論家の油井正一さんが即座に言いました。「末廣君、これをルイに聴かせてみようよ。どこかに蓄音器を貸してくれるところはないかな。このレコードを持ってルイを訪ねるんだ。」 運よく近くに知り合いの楽器店があったので、僕は事情を話して手回しのポータブル蓄音器を借り受け、さっそく3人でルイの楽屋を訪ねました。
アームストロングは冬だというのに、上半身裸でくつろいでいましたが、我々を快く楽屋に入れてくれました。
早速、右近雅夫が持参したレコード、ハートウオーマーズの〈Tin Roof Blues〉に針を落としました。
出来上がったばかりですから、僕たちも初めて聴くわけで、アームストロングがどんな表情を見せるのか、右近だけでなく、その場にいる全員が本当に緊張しました。
時間にして3分そこそこの演奏の間、アームストロングはあの大きな目を凝らして真剣に聞き入っていましたが、「もう一度聞かせてくれ。」とのレクエストです。再び、まるで御前演奏といった感じの緊張の3分が過ぎた後、「これはマグシー・スパニアか?」、「ノー、ここにいる青年、右近雅夫の演奏です。」
するとその途端、立ちあがったルイ・アームストロングは、”OH MY BOY”という力強い言葉とともに、右近雅夫を引きよせて大きな体でシッカリ抱き締めました。日本の若者、右近雅夫が、ジャズの神様に祝福された、まさに世紀の瞬間でした。このレコードは早速次の日曜日にラジオ神戸のジャズ番組で、その時の興奮そのままの詳しい解説とともに放送されました。また、このニュースは東京にも伝えられ、神戸に右近雅夫という名手ありと、一躍全国的に知られるようになったのです。・・・その右近雅夫が里帰り演奏を神戸JAZZSTREET前夜祭で披露するという。これを聴き逃すわけにはいかない。
種子賢婦人に完全コントロールされておられ、吾輩は一穴主義であるなどと公言する。実に純情可憐な(今振り返れば)先生でした。その先生が私の卒論審査ではかなり頭をひねったらしい。いったい何が言いたいのか。卒論面接をもう一方、加地教授の同席で受けたが、加地先生ももうひとつガテンがいかないような顔つきでした。
実はこれは無理もないことで、書きなぐって本人もさて何が言いたかったのか、卒論作成の途中で分からなくなっておりました。
曰く、営利追及自体が自己目的そのものとなった現代社会。化石化した社会を救う新しい経営原理というより社会倫理(エートス)として『価値合理性』をもってしなければならないとの主張。ここで言う「価値合理性」とは
例えばブランド物のモンブランの万年筆よりも、息子がお小遣いを貯めてプレゼントしてくれた極普通の万年筆の方が自分にとって値打ちがある、大事なんだとする価値観そのもの。各人がこぞって、同質・大量を良しとし、数を頼んだ多数決ですべての物事を片付けてゆく社会。多数決あるいはそう導かれて出した結論で果たして今までに正解であったものがありましたか。個々人が、それぞれの価値判断により、より良いと考えた上での判断を求めてゆく社会倫理を持つようにならないと、この社会の行き詰まりは解消されることがない。
何のことか分かりますか。これを書いたのが昭和40年11月リーグ戦終了から12月25日午後4時締切まで。
提出時、卒論の要約書を添付せよとの注意を見逃していて、その作成に大汗をかいてなんとか提出時間に滑り込んだ。
あれから20年後、著名な社会学者・堺屋太一が『知価革命』という著書を世に問うた。その時はまさに俺が言いたかったことをやっと言ってくれたと一人ガテンして悦に入っておりましたが、今この項を書く上で改めて読んでみるにチョイト違っているようです。
引用『ところで知価はそうではない。例えばあるデザインのネクタイが去年は流行で2万円でもよく売れた。それが今年は流行遅れになって今年は4千円でバーゲンセールに出ている。この現象を知価を失ったと考える。」・・・私の主張とどちらが納得がゆきますか。
生まれてすぐにはお宮参り、七五三.毎年の誕生日はバースデーケーキを欠かさない。クリスマスには俄かクリスチャンと変身。毎朝家の仏壇に手を合わせる人も、神社の前を通る際は、深ぶかと一礼を捧げる。神仏キリスト混交の生活に何も不思議さを感じない大和民族にとって一番理解しがたいのがGOD BLESS MEの信仰の世界。まず神ありきの世界であります。神が存在することを前提とういうか、それが当たり前の世界と、神の存在を突き詰めて考えない世界。この彼岸と比岸が同居する現実。比岸にいる我々にはこの救われてあることの確信の重要さが理解できないが、カルバン派に代表されるプロテスタントにとっては永遠の命を与えられるか否かの瀬戸際ギリギリの関心事であります。ストイック(禁欲的)な生活、すなわち適正な利潤追求(社会生活そのもの)で当然蓄積される財は浪費されることなく富へと積み上がってゆく。この行為の総和が資本主義の精神を生みだしたというのがマックスウエーバーの云わんとするところです。中世の鍛冶屋の子は鍛冶屋、王の子は王となる封建調和の世界では考えられなかった個人・自己の覚醒が宗教的個人主義からもたらされ、ストイックな経済活動をより駆り立ているうちは社会のエートスとして確立されて、それはそれは理性・抑制の利いた秩序ある社会を生みだしておりましたが、世界が格段に広がり、民族・地域の経済競争の様相を帯びてきますと、手段であったはずの営利追求が自己目的化してしまうことになった。かくして現在社会は営利追求が全てを支配する化石化した社会と変貌してしまった。
そこで、この現実社会を救うための新しい経営理念を提案しようというのが我が卒論でありました。、
ところで先に申し上げたマックスウエーバーが唱えるところの「資本主義の精神」とは何かといえば、近代社会に初めて現れた、適正利潤を守り、企業の存続を最優先して、日々営業活動に励むという行為そのものを現す言葉であります。考えてみれば、新大陸発見により世界の全容が解り、物産をある地点から遠くの地点に運びもたらすことひとつをとっても、そこには冒険的あるいは海賊的儲けを嫁しても十分商品価値を損なわない時代に、かなり控えめな一定の利潤を乗せるに止める動きがどうして起こってきたのだろうかという疑問。
マックスウエーバーはこれをプロテスタンティズムの倫理に求めました。カルバンを提唱者とするプロテスタンの教えでもっとも厳しい教えは「運命予定説」と言えます。このカルバンの予定説では、救済される人間は予め決定されており、旧教の説くように、人間の意思や努力、善行の有無などで変更することは出来ない。ましてや免罪符を購えば天国に行けるわけではない。だから自分が救われてあることの確信は、自分のみで確かめるしか道はなく、親兄弟といえども救いについては何の関わりも無い。出家して救いを求めたところで、予定されていなければ意味が無い。かくして、現世で禁欲的労働に身を任せ(世俗内禁欲)、社会に貢献し、この世に神の栄光をあらわすことによってのみ、自分が救われていることを確信できる。まことに凄まじい宗教的個人自覚作用であります。
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)