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3日午前新聞を読んでいると、右近雅夫「凱旋の音色神戸に」という記事が目にとまった。右近雅夫は1954年(昭和29年)12月2日、関西学院の学生バンド、KGハートウオーマーズを率いて一枚のレコードを録音した翌年9月一家をあげてブラジルへ移民した人物が神戸での演奏会に里帰りするとのこと。神戸在住のミュウジシャンで右近雅夫の名前を知らないものはいない。伝説中の人物である。
(以下、神戸JAZZSTREETの末広光夫JAZZエッセイより無断引用)
「右近雅夫?誰のこと?」そういう方もあるでしょうね。「聖者の行進」を日本で最初に演奏したのは、プロのバンドではなく、アマチュアのしかも関西の学生バンドでした。K・Gハートウオーマーズ、そう今のオリジナル・デキシーランド・ハートウオーマーズの前身です。そのリーダーが右近雅夫でした。
その彼を有名にしたエピソードがあります。昭和28年12月19日のこと、この日はジャズの神様と言われたルイ・アームストロングが神戸の聚楽館にやってきて神戸のジャズフアンに本場のジャズを聴かせてくれた、忘れることの出来ない日です。(おやじ・清志さんもいそいそと聚楽館に出かけた。)
昼間の公演が終わって、興奮冷めやらぬ僕のところへ、右近雅夫がレコードを小脇にはさんでやってきました。「新しいレコードが出来たので、プレゼントします。」と言う。彼の言葉を聞いて、傍らにいたジャズ評論家の油井正一さんが即座に言いました。「末廣君、これをルイに聴かせてみようよ。どこかに蓄音器を貸してくれるところはないかな。このレコードを持ってルイを訪ねるんだ。」 運よく近くに知り合いの楽器店があったので、僕は事情を話して手回しのポータブル蓄音器を借り受け、さっそく3人でルイの楽屋を訪ねました。
アームストロングは冬だというのに、上半身裸でくつろいでいましたが、我々を快く楽屋に入れてくれました。
早速、右近雅夫が持参したレコード、ハートウオーマーズの〈Tin Roof Blues〉に針を落としました。
出来上がったばかりですから、僕たちも初めて聴くわけで、アームストロングがどんな表情を見せるのか、右近だけでなく、その場にいる全員が本当に緊張しました。
時間にして3分そこそこの演奏の間、アームストロングはあの大きな目を凝らして真剣に聞き入っていましたが、「もう一度聞かせてくれ。」とのレクエストです。再び、まるで御前演奏といった感じの緊張の3分が過ぎた後、「これはマグシー・スパニアか?」、「ノー、ここにいる青年、右近雅夫の演奏です。」
するとその途端、立ちあがったルイ・アームストロングは、”OH MY BOY”という力強い言葉とともに、右近雅夫を引きよせて大きな体でシッカリ抱き締めました。日本の若者、右近雅夫が、ジャズの神様に祝福された、まさに世紀の瞬間でした。このレコードは早速次の日曜日にラジオ神戸のジャズ番組で、その時の興奮そのままの詳しい解説とともに放送されました。また、このニュースは東京にも伝えられ、神戸に右近雅夫という名手ありと、一躍全国的に知られるようになったのです。・・・その右近雅夫が里帰り演奏を神戸JAZZSTREET前夜祭で披露するという。これを聴き逃すわけにはいかない。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)