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昨日仕事も一段落したことから、今一番きがかりな三男の第1子を授かるようお参りしようとなってしまった。
こうなれば、さっそくかねてより弘子ちゃんが、ここは先に行っとかないとが口癖だった天橋立・成相寺と舞鶴・松尾寺へと出発・緊急スクランブルはいつものこと。たいがいの旅装は車のトランクに放り込んであります。
神戸北線を北上、神戸三田経由で舞鶴若狭自動車道をかっとばす。まあ車の少ないこと。それでも西紀のPAは相変わらず人気で、レストランも満杯で3組待たされた。女店員さんの心地良い案内でそれも気にならず、食事は猪ハンバーグときた。御約束の特大黒豆パンも買い込んで一路舞鶴へ。松尾寺へは舞鶴東ICを降りるところが、話に夢中で通過してしまった。つぎのICまでは15キロの表示。これはしまったしくじったと考える間もなく、対面交通をいいことに、戻り車線にUターンしておりました。弘子ちゃんからは、またそんなルール違反をすると大ブーイング。出口ETC表示が割引1250円となっていたのはどういうことなんだろう。それにしても安すぎる。
弘田龍太郎は明治25年(1892年)土居村西木戸(現在の安芸市土居)に生まれる。父は教育者で、明治初期に高知県議会議長を務めた弘田正郎。母・総野(房)は一弦琴の名手で、龍太郎の音楽的才能は母譲りのものでしょう。3歳の時高知を離れ、千葉師範学校付属小学校、三重県立第一中学校卒業。同43年、東京音楽学校(現東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学した。後に珠玉のような童謡を生み出す彼が、器学部からとは意外な気もする。在学中に歌曲『昼」を作曲するなど、多彩な音楽活動を繰り広げるが、ここは童謡に絞って紹介すると、文部省唱歌「鯉のぼり」も最近の研究で龍太郎の学生時代の作曲であることが判明したとか。
童謡にいたるきっかけは、北原白秋を中心とした童謡運動「赤い鳥運動」に参加。『靴が鳴る』・『浜千鳥』・『叱られて』・『雀の学校』・『春よ来い』などの名曲を次々発表し、童謡・歌曲作家としての地位を確立した。
歌曲『千曲川旅情の歌』や仏教音楽『仏陀三部作』オペラ『西浦の神』など。昭和27年『1952年)11月17日東京本郷弥生町の自宅で永眠。時に60歳。
他に山雀太夫・ねぎ坊主・貝がらの夢・金魚のひるね・村祭・おやまのお猿・おうち忘れて・雪うさぎ・ほうほう蛍・今夜のお月様・とおせんぼ・おしくらまんじゅう・薔薇と花子(与謝野晶子詞)。
私のかなわぬ願いは、万人の心に残る童謡を一曲残すこと。龍太郎さんに肖って、この際頑張ってみようかな。
その申しつけは龍馬さんを語れとのこと。かねてより、私が龍馬検定・神戸編に夢中になっていたことを知ってのこと。時間は2時間ほどの予定とか。とりあえず持参する資料を用意しなければと、萌咲さんの労作小誌「龍馬が歩いた維新神戸」と検定問題集および土居晴夫先生が講演で使われる龍馬年表を揃えた。
ところで何からお話すれば良いのか、10人ほどの面々は、昭和6年生まれのツワモノ揃い。下手なことを言えばたちまちやりこめられかねない。案の定その中でも理論家のI氏は手元に色々と資料を取りそろえて待ち受けの状態。一方私といえば、平成19年4月15日検定実施の頃であればまだ、問題作成ホヤホヤで、語り尽くせぬ程のお話で満ち満ちておりましたが、1年半近く時が過ぎての今となっては少々お話の固有名詞がスラスラでてくるか心もとない。お話を始めると案の定登場人物の名前が出てこない。傍らのK氏に聞きながら話を進める始末となった。
時間稼ぎもあって我が先祖・津野氏の事績から話を始め、長曽我部が土佐一国を見事に取り上げられた経緯とそれがもたらした260年にわたる土佐の上士と郷士の軋轢。その結果としての幕末草莽の決起にまで話を及ばす。かなりの時間稼ぎだ。・・私の心中を見透かしたのかK氏が早く龍馬さんの話に入れと目で合図を送ってくる。おもむろに検定問題に取り掛かり、ほぼ2年前、問題作成のためだけの一夜漬けのおぼろな記憶を辿って説明を始める。・・それから約一時間、いったい何を話したのかと聞かれれば、取りとめもなくとしか答えられないなか、それでも皆さんは辛抱して御付き合い下さった。
もちろん、ただ事実だけをお話すればいいわけはなくて、私自身が龍馬さんの何処に惹かれて龍馬検定をするまでのめり込んだかということ。いったい龍馬さんを語って何を伝えたいのか。いろんな思いが頭をよぎり、さぞや聞きにくい話しぶりになっていたのに違いない。胸の中にあるイメージを言葉として伝える・現す難しさを、冷や汗を掻きながら改めて感じる。私こそ龍馬甲子園を目指してもう一度勉強のやり直しが必要だ。
思いを言葉に出来なければ、伝えられなければ、何事も始まらない。
龍馬甲子園・テーマは『龍馬さんを語る』参加者年齢不問。しかし出来るだけ少年少女の多数参加を望む。
開催 2009年4月 第6回龍馬IN神戸の事業として。
そんな出会いもあって、大学1年はサッカー部入部とOB楽団の練習へと、いそいそ通う誠に健全な生活を過ごすようになりました。
サッカーでは三大学(神戸商大・岡山・広島)定期戦があり、地獄の夏合宿があって、あっという間に、秋のリーグ戦をむかえる頃となりました。ポジションもRWの定位置を貰い、授業には出なくとも、練習は欠かさないという模範的なサッカーマンへと変身。ラッパのほうは腕に覚えありで、余裕のよっちゃんであります。しかしここで大問題が発生。このままOB楽団がコンクール(このころ兵庫県大会・関西大会・全日本大会)と勝ち進めば、今年の全国大会は北海道・室蘭とのこと。もろ試合とバッテングとなります。いま思い出すに、結局全日本まで勝ち進んで、事実2度目の全国優勝を飾っていることから、小林主将に泣きついて一試合抜けさせて貰ったに違いない。この大会の写真・プログラムが手元になくて、弘子ちゃんのアルバムから写真二枚拝借した。女性五人で写っている前列左が彼女。そう登別の温泉浴場で裸を見そこなったうちの五人です。
1月15日を期して受験勉強再開。ただちに明石高校3年時担任の住田圭司先生にどっさり内申書を書いていただかねば。特にこの年は、記念受験を兼ねて慶応経・商、早稲田政経・商も受けるつもりで、地元の関西学院経・商(なんのこっちゃ)をいれると10通はお願いしたかな。年が明けると恒例のように内申書を頼みにくる、大変迷惑を掛けたもんです。さすがに、3年目ともなると、受かっても落ちてもこれが最後の内申書になることは先生も私も心得ている。後に余った内申書を開けて見てみると、かなり下駄を履かして下さっていた。むろん内申点などなんの足しにもならないことを承知で、馬鹿な生徒ほど可愛いわけはないが、慮って下さっていた。
関学経・商の受験を終えて、東京へ。そのlころの東京行きは専ら国鉄で、たしか行きは「急行 いこま」に乗ったと思う。新橋の第一ホテルに宿をとり、慶応ー早稲田の順に、ピーカン(たばこピースの缶入り)片手に受験行脚。もちろん合格は望むべくもない。宿もそうそう第一ホテルというわけにいかず、安宿にかえてすごしたのかな。東京にいる間に関学の発表があって、経済学部合格。この時は嬉しかったね。なにしろ行く先が出来たんだから。もちろん親父に入学金振込を頼んだことだ。帰りは夜行急行・銀河だったか、舞子駅に降り立つと両親が車で出迎えてくれっていて、サンドイッチと熱いコーヒーの用意がしてありました。やっと行先もあり、かなり気分も軽くなって商大・高丸へと向かった。
ここからのことは、2008.8.5案内文小文復刻⑥に書いた。思いがけず受験の際、国語・英語・数学でかなりの手ごたえがあり、母親にだけは、もしかしたら通っているかも等ともらしていた期待が現実となりました。
関学に払い込んだ入学金もフイになったがそれも仕方がない。関学とはトコトン御縁がなかったんだ。最近では関学を滑って商大にくる生徒が多いとか。どうなってしまったんだろう。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)