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img287.jpg                                  今日、全国高校野球選手権大会第90回記念大会開幕。新装なった甲子園での華やかな入場式が繰り広げられている。真黒に日焼けした選手の表情はいつの時代も屈託なく、瑞々しい。
昭和32年明石高校に入学と同時に、音楽部にも入部した。数少ない経験者として歓迎される。さっそく夏休みとなっても、コンクール関西予選を目指す音楽部に休みはない。連日朝練・昼練・合同練習で絞られる。音楽をやっているのに絞られるとは奇妙だけれど、吹けないフレーズを吹けるようになるまで、繰り返し繰り返し練習するのは、むしろ体育会系の乗りで臨まないと、続かない。
そんなとき、田中英夫部長が「甲子園へいこか」と声をかけて下さった。開会式の楽隊として連れていってくれるとのことらしい。当時、朝日新聞主催の夏の甲子園の開会式は、同じく朝日新聞がスポンサーの関西吹奏楽連盟所属の高校ブラスバンドが担当することになっていて、それは未だに変わっておりません。我が部の顧問・有永正人先生は、関西吹奏楽連盟の有力理事であり、毎年何人かは参加ささねばならなかったらしい。ほんとなにも分からずついていった訳ですが、その規模のでかいことに驚いた。総勢300人は下らない人数が集まってきた。中には女学校の部員もいて、驚いたことに女学生がトロンボーンを担いでいる。我が部では、女性は少なく、吹いてもクラリネットかフルート、せいぜいアルトサックスぐらいのことで、ペット・ボーンは野郎の仕事と決めつけていたのに。それもかなり可愛い女学生。そんなことで、気もそぞろに開会式を迎える。入場は休場のライト側、外野入口から。予行演習では、そうは感じなかったのに、実際観客で満員の球場に一歩踏み込んでみると、まるで天から、人が降ってきかねない程に、頭上に覆いかぶさってくる。ウヲーという歓声で楽隊の音も十分に聴きとれない。自分が吹いている音も危ういもんだ。無我夢中に過ごした開会式。それでも自分のいた位置だけは覚えていて、朝刊一面に出た開会式の写真に、豆粒いかに写っている白黒の点にしっかり赤鉛筆でマークすることは忘れない。当分大事にとっておいたのに。
2年ともなると、もう慣れたもので、顔見しりと挨拶を交わすようになり、相手の力量もほぼ予想がつく。
そして迎えた3年生の甲子園。かのスコアーボードの上で毎年行われる開会のファンファーレ役が兵庫県の高校の番に回ってきた。責任者は有永先生であります。そのことは一年まえからわかっていたらしく、明石高校のメンバーだけで編成されることになっていた。レベル的には、兵庫県加盟の高校内ではTOPを引いている自負があります。忘れもしません昭和34年(1959年)8月8日第41回大会時あたかも、皇太子殿下を御迎えしての大会であります。本番では、同級生の西江頌夫(旭ガラス役員)が指揮者に回り、総勢7名の編成となりました。
開会宣言と同時に、あくまでも青い空に向けて、渾身の力を込めて吹く音は、かすかに銀傘に反響して聞こえてくるのみ。はたしてうまく吹けたかどうかなどは二の次で無事に終わったことだけで嬉しかったことを思い出す。
親とほ、有難いもので、たったそれだけのことに、朝日新聞社がくれた入場券一枚を母親は握りしめ、初めての甲子園に駆け付けた。皇太子さまの御顔を拝することができたこともあって、あれはよかったと当分喜んでくれました。
添付の写真は、このファンファーレに気を良くしたのか、有永先生の指導で、秋の母校の体育大会でもファンファーレを披露した際の写真であります。左から藤岡・富田・山下・津野・西江の面々。
よく鳴っておりましたよ。
*3日、人数の確認のため山下健三郎君にTEL入れる。元気な声での返事は、「明高のメンバーだけで吹いたと思うよ、他のメンバーのことを覚えていないもの」とのこと。

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ちなみに、恵林寺の開山は夢窓疎石で、絶海中津は貞和4年・正平3年(1348年)に上洛して天竜寺に入った。観応元年・正平5年(1350年)に剃髪し、翌年に師匠である夢窓疎石が死去するまで、その側近として常に侍った。絶海は夢窓疎石の死後の応安元年・正平23年(1368年)2月には明に渡海し、洪武9年(1376年)には明の太祖である洪武帝(朱元璋)から謁見を許されている。帰国後、足利義満・足利義持二代の将軍の帰依を受け、同じく津野の人である、義堂周信とともに、臨済宗夢窓派の発展に寄与した。
永禄7年(1582年)には武田晴信(信玄)が寺領を寄進し、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に信玄の葬儀がおこなわれた。
天正10年(1582年)4月3日天目山の戦いで武田氏が滅亡したあとに、恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠軍による焼き討ちにあった際、快川紹喜が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して焼死したのは有名な話。
NHKの大河ドラマ「篤姫」の中で、島津斉彬が篤姫を近衛忠熙の養女としてから、将軍家定に嫁した。忠熙の正室島津興子は薩摩藩主島津斉興の娘(実は前藩主・島津斉宣の娘)であったことからとの説明があったが、近衛・島津の関係は恐ろしく古くからももので、この近衛前久が島津に頼ったのも平安時代からの密接な関係があったからに違いない。
薩摩・大隈・日向の三ヶ国にまたがる島津荘は、平安時代以来近衛家の荘園だった。ところが、鎌倉時代になると、源頼朝の庶子惟宗忠久が島津荘下司職に任じられて薩摩に下向した。島津家の始祖となった忠久は、以後地頭職に任じられ、近衛家の荘園を次々と侵蝕していくが、建久8年(1197年)に薩摩・大隈の守護職に補された頃から、近衛家との関係を修復していく。広大な島津荘に割拠する旧勢力を支配下に組み込むためには、近衛家ならびに朝廷の権威を借りたほうが得策であることを悟ったためで、以後島津家は近衛家を領家ちあおぎ、密接な関係を保つていくことになったとか。
・・・以上、安部龍太郎先生からの受け売りでした。

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今、安部龍太郎が面白い。勿論その取り上げるジャンルにまず興味があり、書き様が好みであります。司馬遼太郎の本題はさておきと横道にそれて薀蓄を語るのも面白いし、津本陽のように歴史の教科書を読んでいるような生硬さも捨てがたいが、今安部龍太郎にはまっている。
キッカケは神戸新聞・夕刊に連載中の、「下天を謀る」を読み出したこと。その主人公が藤堂高虎であったこと。もう我が祖と呼ぶことを自分勝手に許している、津野親忠公が豊臣秀吉への人質として大阪城にあった際、国が土佐と宇和島と隣りあわせであったこともあって、入魂の仲であったとか。弟・盛親に謀殺された際に、家康にいち早く通報したのが、高虎であったこと。それでいて、案外高虎を主人公にした歴史小説は珍しいことからであります。
連載は163回・第5章 消えた百万石(九)が本日。時あたかも、朝鮮征伐前夜。無謀な大陸進攻という作戦を推し進めようとする、秀吉と三成。対して何とかこれを止めなければ、人民を苦しめるばかりとなると諌める秀永と高虎そして利休。結局、我が子ならずの秀頼に天下を継がす為の中央集権強化の為の戦を止めようとしたばかりに死を賜った利休の姿も描かれていくのでしょう。
歴史小説を書く上で、一番求められるのが、事実・考証の深く正しいこと。オリジナルな歴史理解、そして程よい虚構を無い混ぜて、荒唐無稽にはしることがない。この節度をこの作品では、かなり堅苦しいほど守っておられる。毎日切り抜いておりますが、一日分の文章を読むのに3分とは懸からない。しかしこの作家には歯ごたえを感じて、少々欲求不満になっていたところ、播磨町の図書館で「戦国秘譚 神々に告ぐ」を見つけて、一気に読み込んだ。
後奈良天皇が崩御して正親町天皇が即位の式を挙げるまでを物語る。主人公は若くして関白となった近衛前嗣(前久)を中心に、朝廷側からみた戦国の有様がなまなましくえがかれている。たぶんに伝奇的書きぶりで、ついてゆけない場面もあるが、三好長慶・松永久秀・西園寺公朝の関係を分かり易く絵解きされていて面白い。
その文中、武田晴信(信玄)に及び、武田氏の氏神のうち塩山の恵林寺も武田の保護を受けて栄えていて、信玄の先祖武田信成が、この恵林寺住職・絶海中津(南北朝から室町前期にかけての禅僧で津野の人)によって、生前に我が死後の冥福を祈る逆修供養を行ったとの記述を見つけて、いよいよ龍太郎さんが好きになる。

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今日は弘子ちゃんのお誕生日だけど、朝から肝臓(脂肪肝の初期)の定期検査のため、神戸中央市民病院にでかけた。検査が終わり支払のためロビーで待機していると、朗報を告げる電話が入った。この3ヶ月掛かって取り組んでいた案件成立を告げる確認でんわです。さっそく、商大の20年は後輩のⅠ君に嬉しい報告を入れる。I君とは、今回初めての共同仲介でかなり苦労をかけた。誠にきめの細かい仕事ぶりで、感心するばかり。元銀行での経験をいかした手法が身に付いているんだ。今後に繋がる連携プレーで良い相棒になりそう。・・すると、弘子ちゃんの同級生からも電話が入り、今夜急遽お誕生会を明石でやってくれるとの申し出。せっかくのご厚意を無にするわけにはいかない。ついでに三宮駅に回りMINTで昼食。8階に中華の名店「神戸リーズガーデン」を見つけて舌鼓を打つ。このお店はMINTがオープンするまでは、六甲アイランドのホテルで営業していて、数度足を運んだことがあります。今回三宮に拠点を移したんだ。シェフの李さんがホールにまでお出ましで、丁寧なご挨拶を頂く。こちらのことなど覚えてもいまいが、お店移転の理由をきいてみると、もう年だし、六甲の大店で日に200-300人をこなすのに疲れたとか。この20坪のお店で気軽にご来店いただければとのコメント。むろん便利な三宮でこのぐらい丁寧にリーゾナブルに愉しめればこちらは大歓迎です。そのあとはSOGOに回って、長男の二男・良将への誕生祝いを贈る。
夜、嫁は出かけて、一人家にいると、8時過ぎに横浜の長男の2人の孫から、「おばあちゃん、お誕生日おめでとう、いくつになったの」電話が入る。不在を伝えて、携帯に電話するように頼む。ついでにおしゃべりを楽しむ。
3歳になる良将もかなり御話しできるようになりました。・・バーちゃんに電話してくれたかな。どうせ弘子ちゃんの帰宅は、いつものように午前様。ほんとあべこベ夫婦です。

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79歳のY老夫人の今夜お通夜に出かけた。この話は生々し過ぎて実名を書くわけにはいかないだろう。
あれはいつのころだったか、東京に居たはずの、親父の長兄・清寿の息子・二人の兄弟が明石にやってきた。長男は東京工業大学卒の技術屋で、次男は明治大学在学中学徒動員され一式陸攻の通信兵で、特攻前夜空襲を受けて、搭乗予定の飛行機が破壊され、ために命拾いをした、特攻くずれ。それこそ戦後間もなく、食い詰めて明石の伯父さんを頼ってのことだった。四郎兄との相談の結果、長男は四郎兄が就職を斡旋し、次男は清志(おやじ)がさんよう喫茶を手伝わせるという手筈となった。次男Rのその時の様子は、小さなボストンバック一つを手に持っただけの姿で、そのとき着ていた上着も友達からの借り物だったとか。親父にすれば、10数年前、東京の長兄を頼った揚句、追い返された恨みはなかったのか、それでも肉親の情がそうさせたのか、店を手伝わせだした。Rは教養もあり、小柄ながら、一見ニヒルな色白二枚目であります。そのころの大学出か中退かは聞かなかったけれど、我々兄弟にとっては、良い兄貴分に思えて、よくまとわりついて話を聞いた覚えがあります。喫茶仕事も熱心で、たちまちコーヒーのブレンドも研究し「さんようブレンド」なるものも、親父と合作で作り上げていた。とくに絵画が好きで、筆をとるわけではないけれど、審美眼はかなりのもの。そのRの最大の欠点は酒好きなこと。それも並み大抵のものではありません。酔って暴れるというのでもありませんがなにしろ、飲み出すととめどが無い。顔は飲めば飲むほど青白くなる。お店のカウンターの中での仕事中に盗み酒をやらかして、あげくが突然ばったり昏倒することの繰り返し。それと女性にもてるらしく、あるとき、店の中で、親父とRが神妙な顔付きで話し込んでいた親子連れの娘さんのお腹が妙に膨らんでいたように覚えている。それでも親父は頼りにしていたんでしょう。明石で店を出した時から世話になっているN氏の奥さんの末妹との縁談が持ち上がり、N氏の興業関係で加古川で初めての駅前映画館ビルがオープンするに伴い、その2階にさんよう喫茶・加古川店を出店し、その店をR夫婦に任せることとなりました。その縁談の相手が今夜のお通夜のY婦人というわけ。そう昭和31年のことでした。
親父が血縁関係でお世話をした人は、10人は下らないが、このRにはN氏の関係からか、とことん尽くしあげたように思う。そのころの私の口癖は、「うちの親父は親にもつより、伯父さんに持つほうが上だね」であったほど。せっせせっせと加古川に通い詰めていた親父が、数年経って、N氏に言われて、現地で購入してこの夫婦を住まわせていた寺家町の家と、加古川店すべてをRにiゆずり渡したのが、昭和35-6年ではなっかたか。まあひと財産くれてやったわけだ。そのときの税務上取っていた金100万円の借用証が未だに手元に残っています。R氏も確か100万援助してやるとかで、泣く泣く無償譲渡したわけだ。これも浮世の義理なのか、なにを馬鹿なことをと思いながらもその後、R氏の贔屓で明石での出店が可能になったもとを考えると、仕方がなかったんでしょう。それほど親父はこのR氏には尽くしましたね。
ただ私がずっと持っている違和感は、このR夫婦のその後の行状にあります。加古川での夫婦のあり様はRの行状にやきもちをやいて、熱湯入りの薬缶をRのおでこめがけて投げつけたとか、生傷の絶える間がないような話が聞こえてくる。事実そうだったんでしょう。そうこうするうちに、N氏の奥さんとYとが相談のうえ、ちょうど明石の人丸前に売りに出ている、新築の商店を買って、お互い近くでいようとなったようだ。親父に相談もなく、加古川の家とお店の設備と暖簾を売り払ってしまった。そしてオープンした画廊喫茶が今年で開店43年となったらしい。Rは画廊喫茶のほかに、明石駅前のジャスコ店6階家具のアイ店で画廊・画材の店を出したりしていたが、これは赤字つづきでいたらしく、いつのまにかなくなっていました。なにしろ、そんな経緯からRは私たちの前には姿をほとんど見せないありさま。心底語り合うこともなく、親父にありがとうとの感謝の気持ちを持っているようにもかんじられなかった。・・・そのうち何時ごろだろうか、Rが酔っ払ってお風呂に入っていて、心臓麻痺で死んだとの知らせが来て、それでも葬式の世話を焼いていた親父のことを思い出す。爾来30年ほとんど交流もなく、私が困りに困って、100万の証文を見せて、何とかと頼み込んだ時も、門前払いの仕打ちだ。これほど尽くして尽くしがいのなかった奴は我知らずの境地。・・・そのことを喪主として並んでいる兄弟はどこまで知っているのやら。
たいがい恨み節は云わない私ですが、この件に関しては、とうとう胸のつかえが下りることなく、幕引きとなってしまった。

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永遠の自営業者で好奇心の塊。
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