[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
そこで改めて、明石大空襲を検索してみるに、そのHIT数の少なさに、まず驚かされる。全体を捉えての詳細な記録は何処を探しても見つからない。あるのは、個人的体験談としての回顧録がその多数であります。当然、何回かあった空襲の内の、どれかについての体験・記憶・感想であります。そこで西部図書館に出かけて、わたしが62年前に目撃したことの正体を確かめずにはおれなくなった次第。
【 明石大空襲 】
ことは想像を遥かに超える事実ばかりです。あの時明石の地で起こったことが、何故今、こうまで簡単に忘れ去られてしまっているかのように見えるのか。街のどこを探しても、あの空襲の痕跡は見出すことあたわず。年老いた体験者の記憶の中にのみ残り、それも消え去ろうとしている。語り伝えることもなく。日本人の最も悪しき体質ともいえる何事も忘れ易いこと。自ら始めたのか、始めさせられたのか分からない太平洋戦争で、あれほどこっ酷く叩きのめされたことも、広島・長崎のピカドンのことも、シベリア抑留で6万の兵が殺されたことも。今なお、南方の島々に110万余の遺骨が野ざらし放置されていることも。唯一国内戦が行われた沖縄においても、まだ10万の遺骨収集が果たされていないことも。
戦争責任自体の原因究明・責任追及などまるっきり気にも懸けない。戦後75年間を見ても、お上がしくじったことどもを、徹底して批判・反対したのは日米安保闘争ぐらいか。いまの学生は国会議事堂を囲むことも、いや何処にあるのかさえも知ってはいないことだろう。・・だんだん腹が立ってきた。
米軍資料によると、明石への空襲は川崎航空機を対象とする「直接攻撃」と航空機工業以外を目標とする「間接攻撃」に分けて行われた。事実、昭和20年1月19日から6月26日間の計4回の爆撃には、川崎航空の工場破壊を目的として、M50爆弾(4000ポンド)が使用された。これが直接攻撃である。米軍の攻撃目標資料には、全国で8箇所、AOMORI・TOKYO・HACHIOJI・NAGOYA・AKASHI・IMABARI・OITA・UBEと光栄にも記されている。正に地獄への特別切符を持たされたようなものだ。しかし、そのことの重大さに気がついていた明石市民はほんの一握りであったろうと思う。いや数人か。
清志親父にとって、錦江ホテル勤務から始まる明石の地での皆様との御縁は、その後も途切れることなく、まるで阿弥陀くじの糸を辿るように、附かず離れず生涯を通してのお付き合いとして、熟成されてゆきます。錦江ホテルOWNER明石の財閥・古谷家はその後ホテルを手放しその跡地は播陽幼稚園(匠園長)となり、つい最近明石勤労会館に姿を変えた。その御子息古谷錬太郎氏は神戸商大学部7回卒で川崎重工明石の部長様。川重明石の不動産案件について度々御助言をいただいている。錦江ホテルの次に勤めた松田文蔵商店は当時全盛のライジングサン石油代理店で重油から蝋燭や石鹸の原料も扱う商社で、下宿は長田区の尻池町辺りにあったと2号線を車で通るたびに、懐かしがっておりました。その松田文蔵商店には神戸高商生の御子息・ボンボンがおられて格好よかったんだよとも申しておりました。そのことを何気なく覚えておりましたところ、淡水サッカークラブの会長に高商1回の松田俊治先輩が就かれた総会で、松田新会長より、津野と言えば、まだ私がサッカーの現役だったころ、うちに勤めていた津野とは関係あるのかとのお話を頂いて、双方ともが親子2代での御縁に預かったことの不思議さにしばし感嘆したことでした。その後戦争直前に、OIL関係から明石の鳴尾組の経理に転じ、ここでの上役が後に明石駅前再開発を一手に引き受ける永田政市。運送の川崎航空機関連で明石組運輸の藤原巻三等の知遇を得ている。その鳴尾組勤務中、戦争も終盤を迎えるころ、重油の闇に無理やり一役かわされて、それがたちまち発覚し、戦時経済統制法にて前科一犯となった。このとき親父は首謀者とまではいかなかったが、罪を一身に被り、関連者の名前を白状しなかったことで、かなりの貸を各人に作った。このことで親父にある意味信用がついたのは確かだ。留置場に入れられている間、関係者が母親にホント良くしてくれたらしい。もちろん口止めのためだろうが、親父にすれば、留置場に入るのは須崎で賭博の現場で網にかかって以来2度目となり、そんなに慌てはしなかったと、したたかなことを言っておりました。敗戦とともに、戦時犯は帳消しとなり、晴れて親父の前科も消えて無くなったそうな。変わったところでは、伊藤悌さんの御縁(奥さまの里)から藤田修作(川航明石事務局長)・浩平(シェル石油)兄弟と知り合い、バラ展および次項で詳しく述べる「さんようクラッシックコンサート」などを始めるようになる。ちなみに、伊藤悌氏の御令嬢がかのジャイアント馬場の御令室であります。
『さんよう喫茶』の項は2008・4・25の⑤から2ヶ月以上のご無沙汰でした。東京から追い返された親父が四兄・岡田四郎を頼って明石に身を寄せたのは、昭和10年三縄ー豊永間が開業して旧高知線区間が多度津側と一続きになって、須崎ー多度津間を土讃線とされて間もなくの頃らしい。さっそく職を探さねば居候の身は辛い。そこでどうやら最初にありついたのが、明石海岸にあった錦江ホテルの経理係。四郎兄の世話で、ついでに即席に経理の手ほどきをしてのことではなかったか。これは几帳面で器用だった親父にはぴったりの職場だった。後々まで、ホテルについては一家言をもっておりましたし、ホテル屋のセンスもこの時身に付けたものです。・・そして、そのホテルに我が母・光枝が、次姉の君枝とともに働いておりました。母は旧姓を井筒といい、井筒は明石新浜の漁師・網元であったと聞いておりますが、祖父源市はその頃は、旧明石市内の西に位置する、西新町で腕のいい散髪屋・源床を開いておりました。源市・しげ夫婦は都合8人の子を生みますが、全部が女の子という偏り様で、上3人が菊枝・君枝・光枝と揃った美人3姉妹で通っていたらしい。18歳で夭逝した和子、そして八女八重美と生まれるころには、源親父はどうせ又女だろうと、諦めの境地だったとか。ささやかな散髪屋であつても、男子を儲けて、跡を取らさないと井筒が絶えることになる。かくして、婿取りを考えねばならぬこととなり、上から順番に年頃になるのを待ちかねていたことでしょう。たしかに、母の上二人の姉はタイプこそ違え、なかなかの美人で、菊枝さんはほっそりたおやかな和風美人、君枝さんは錦江ホテルで明石の皇后さまと言われる程の美貌の持ち主。この姉の菊枝さんは見染められて、いやいやながら沢専治の嫁になり、君枝さんはホテルのOWNERのお母様の親戚筋で軍人の山口正雄と周りもうらやむ恋愛結婚。
成り行き
上、母が婿を取って散髪屋を継ぐ段取りとなりました。三木の人で、腕のいい職人で源親父からすれば、打ってつけの御仁もみつかって、いよいよ結婚式をあげることになりました。そして実際、結婚式を挙げたらしい。その際の高島田着物姿の写真が残っています。が式を挙げたその晩、母は親父のもとに走った。このことを聴いたのは、私が高校生になってからのこと。まあそこまで決断を引っ張ったもんだという感想と、いやよくぞ決断したものだという感慨がありました。とりあえす、この決断がなかったら、私はこの世に生まれてはいなかった。両人は交際があったに違いなく、しかし親父からの具体的な申し出が無いまま、母が家の事情に従わざるを得ないと決心したものの、土壇場でたまらず行動を起こした。すでに神戸の松田文蔵商店(ライジングサン石油代理店)に職場を変えていた親父のもとへ奔つた経緯については、両者の言い分が違っていて、親父は母の方からやってきたとしきりに色男ぶったことを言い募っておりましたが、よくよく聞いてみますと、母の結婚式当日、親父が母にお幸せにとかなんとか電報をカマシタことが判明した。これを見た母がたまらず奔ったというのが事の真相らしい。この際、祖母・しげさんは両人のことは承知していたらしくこの一大決心を応援してくれた。あとのことは任せなさいとまで言ってくれたとのこと。その騒ぎがどう収まったのかまでは確かめてはいないが、昭和16年1月錦江ホテルで伊藤悌夫妻の仲人で挙式。新居を西新町の源床近くに構えたという。私がその年の11月22日生まれ。できちゃった結婚ではなかったことは確か。結婚に際して、須崎に帰郷、両親に母を紹介してところ、信太郎爺さんは一度式を挙げた女を嫁にせずともと、少々の異論があったとか。しかし、政婆さんの「清志が意中の人ならなんの不足があるものか」との一言で目出度く了承となったとか。 後日この一連を西新町スキャンダルと称す。
今その商大祭前夜祭ー音楽の夕べーと題したプログラムを見ています。この年の商大祭メインはサッカー部大OB・大森実氏「日本の現代」と題した特別講演会であったことを発見。これは聞き逃したなあ。日時は11月10日(水」於国際会館大ホールとある。ちょうどリーグ戦まっ最中、第3戦と第4戦の間の週ですで。よく出れたもんだ。日本民謡・グリークラブの次、2播目の出番とある。メンバー紹介に指揮・野津伸一(馬鹿やろう名前を逆さにしてどうする。そういえば応援団の卒業者名簿にも名前が出てなくて、児島団長に文句をつけたことがあったけ。)ALTESAX3・TENORSAX2・BONE4・PET4の完璧なSWING・FULLBAND。曲目は4曲演奏で2曲のみ解説が付いている。LA MACARENAと
TONIGHT。たぶんMACARENAは仲本のPETをヒユチャーしての演奏だったはず。そうだ思い出した。あと2曲のうちで最後に演奏したのがチャップリンの代表作モダンタイムズのテーマ曲「SMILE」だった。弟啓三が関学のFULLBANDにいたので、譜面を貸してくれたんだった。・・・思い出したぞ、そう私はサッカーの練習を終えて、ぎりぎりのタイミングで会場入りをした筈。そのためステージも3曲目からの登場となって、SMILEの美しいメロデイのSOLOをとるやら、歌うやら。今で言う美味しいところ独り占め。気持ち良かったなあ。まさに体育会系MUSCIANの面目を施した一瞬でした。
Smile though your heart is aching
Smile even though its breaking
When there are clouds in the sky ,youll get by
If you smile through your fear and sorrow
Smile and maybe tomorrow
Youll see the sun come shining through for you
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)