書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
度々戊辰戦争には南北戦争で製造超過となって余りかえった武器・小銃類が使われたと記してきた。
昨夜見た映画「グローリー」はその南北戦争で黒人だけで編成されたマサチユ―セッツ54連隊の奮戦の物語だった。
農奴以下の奴隷として扱われていた黒人を兵隊として戦争に参加させようとした人は少なかった。
人間以下にしか見ていない白人支配層にとって奴隷解放を奉じる北軍でさえ、どこまで黒人を人間として見ていたことか疑わしい。
そんな中、黒人連隊創設を訴えた白人大尉の意見が取り上げられ、連隊長・大佐に抜擢されて54連隊を任される。もちろん将校連は全員白人で構成されている。
初めて黒人連隊が出来たのはいいが、雑用使役に回されるばかりで戦闘にさんかする機会が与えられない。
大佐の目的は奴隷解放の戦いであれば当の黒人たちも戦闘に参加して、自ら解放・自由を勝ち取らなければならないというものだった。
大佐はあらゆるコネと恫喝で局地戦での参戦を勝ち取る。結果、黒人兵の活躍は目覚ましいものが有った。
そのことにより、次に与えられたのがこの戦争のターニングポイントとなったチャールストン攻略の中でも一番の難敵とされたワグナー砦の攻略先陣だった。
この戦いで54連隊1000人の内過半数を戦傷で喪う。かの大佐も戦死し、黒人兵とともに葬られた。
この奮戦がキッカケとなって黒人兵が認められ、最終志願兵は18万を数えるまでとなった。
地獄のような現世を見限って天国を目指す黒人兵には恐ろしいものなどなかったんだろう。
南北戦争は1861年(文久元年)-1895年(慶応元年)。その間北軍は156万の兵の内11万が戦死、25万が病死。南軍は108万の兵の内9万4000が戦死、26万が戦病死したとされる。
その戦争が終わったと同時にこの日本での戊辰戦争へ向けての動きが活発となっている。
不用となった小銃他の武器類をタダ同然に買いたたいて、高額の値段でうれるマーケットとして日本が狙い撃ちされた事実が浮かびあがる。日本を戦火の海とし、多量の武器弾薬を売り付けねばならない。
龍馬が長州に斡旋した4000とも7000挺ともいう小銃は武器商人が売りたくてしょうがなかったもので、むしろその交渉人となった近藤長次郎の申し出は渡りに船であったわけだ。
このように諸外国の国際事情に翻弄されて150年あまり、未だこの日本はその運命から逃れようともしないでいる。
PR
自分の体験として、まずサッカー今昔を語れる歳になったことに驚く。
齢68歳、今更ながら、サッカーのことになると人が変わると弘子ちゃんが言います。
今までの人生で心おどったことの1つがサッカーの練習に早く加わろうとするときの高ぶり、もう1つがブラスバンドの練習に急ぐ時の高ぶり。
確か神戸大学付属明石小学校の3・4年。不思議とこの小学校の校内対抗の競技がサッカーでした。
大概の学校が野球・ソフトボール一色の時代にだ。
多分3年ぐらいからボールと遊んでいたはず。指導して下さったのは学級副担任の吉井先生。
あとで知ったが、兵庫県教員サッカーの補欠だったとか。
先生のいかにもゴツイサッカーシュウズが印象に残っている。
5・6年とわが「い組」のセンター・ストライカーを務めた。
華麗なドリブルでゴールを連発。勉強は苦手だがサッカーでは十分自分の存在感を示せた。
小学校の卒業アルバムに恩師北田先生がもう少し身体が大きければオリンピック選手になれるのにとまで書いて下さった。かなりのヨイショだ。
中学にはサッカー部が無かった。仕方なくブラスバンドでトロンボーンを吹いた。
その流れで高校でもブラスバンド。OBでの5年の間に一般の部で日本一5回を経験。
しかし、サッカーを忘れていた訳ではなかった。
神戸商大には吹奏楽部が無く、仕方なくグリークラブの門を叩いたがどうもしっくり行かない。
そんな時、そうだサッカーが有ったとばかりサッカー部に出向いて、遅ればせながら入部を申し入れた。
小林主将が経験はと仰る。小学生からですと申告すると何故か笑われた。
商大サッカー部は高校あるいはまったくの初心者がほとんどあとで知った。
急な練習で40度近い熱を出してぶっ倒れたが、その後はなんとか体力が付いて来た。
その頃のサッカー人気はお粗末そのもの。3部の試合となれば観衆は皆無。誰も居ないスタンドを背にそれでも必死の形相で走っていた。
大学1年の夏合宿。京都・西京極のグランドで練習後のかたずけをしていると、失業対策の叔母さん達が番茶を振る舞ってくれながら、兄さんたちは何ぼ貰って走っているのと聞かれたことを思い出した。
2・3年は気楽にサッカーを楽しんで2年では2部昇格の痛快ゴールも決めた。
4年となって3部陥落の予感激しく、突如練習の鬼に変身。当時のメンバーにはいまだに恨まれるほど激しく練習した。お陰で3部陥落だけは免れた。
そう、最終大阪府大戦で勝った時にはグランドにシュウズを放り捨てて二度とサッカーなどするもんかと叫んだ。・・・と目撃者・弘子ちゃんの証言がある。
それがなんと40年余、OBとして何らかの関わりを持ち続けてきた。そしてクラブは創立80周年となった。
いまやサッカーはワールドカップに代表を送れるほどメジャーなスポーツとなった。
小学生も野球よりはサッカーを選ぶ。
スタンドも観衆が詰めかける。
我が総領孫も神奈川で小学1年から瀬谷FCに入った。今年で2年目。ポジションはと聞くとボランチとぬかした。これだけでも驚嘆に値する。今一番の楽しみは孫の試合を見に行くこと。神奈川少年サッカー小学2年の秋季トーナメントが有るそうな。
実はこの一週間ほど前から、糖尿・メタボ対策にマンションの壁を相手にボールを蹴っている。
サイドキックばかりだが300-400位は連続で続けられる。
この手ごたえなら24日の淡水サッカー総会でのOB戦に出てみようかな。
齢68歳、今更ながら、サッカーのことになると人が変わると弘子ちゃんが言います。
今までの人生で心おどったことの1つがサッカーの練習に早く加わろうとするときの高ぶり、もう1つがブラスバンドの練習に急ぐ時の高ぶり。
確か神戸大学付属明石小学校の3・4年。不思議とこの小学校の校内対抗の競技がサッカーでした。
大概の学校が野球・ソフトボール一色の時代にだ。
多分3年ぐらいからボールと遊んでいたはず。指導して下さったのは学級副担任の吉井先生。
あとで知ったが、兵庫県教員サッカーの補欠だったとか。
先生のいかにもゴツイサッカーシュウズが印象に残っている。
5・6年とわが「い組」のセンター・ストライカーを務めた。
華麗なドリブルでゴールを連発。勉強は苦手だがサッカーでは十分自分の存在感を示せた。
小学校の卒業アルバムに恩師北田先生がもう少し身体が大きければオリンピック選手になれるのにとまで書いて下さった。かなりのヨイショだ。
中学にはサッカー部が無かった。仕方なくブラスバンドでトロンボーンを吹いた。
その流れで高校でもブラスバンド。OBでの5年の間に一般の部で日本一5回を経験。
しかし、サッカーを忘れていた訳ではなかった。
神戸商大には吹奏楽部が無く、仕方なくグリークラブの門を叩いたがどうもしっくり行かない。
そんな時、そうだサッカーが有ったとばかりサッカー部に出向いて、遅ればせながら入部を申し入れた。
小林主将が経験はと仰る。小学生からですと申告すると何故か笑われた。
商大サッカー部は高校あるいはまったくの初心者がほとんどあとで知った。
急な練習で40度近い熱を出してぶっ倒れたが、その後はなんとか体力が付いて来た。
その頃のサッカー人気はお粗末そのもの。3部の試合となれば観衆は皆無。誰も居ないスタンドを背にそれでも必死の形相で走っていた。
大学1年の夏合宿。京都・西京極のグランドで練習後のかたずけをしていると、失業対策の叔母さん達が番茶を振る舞ってくれながら、兄さんたちは何ぼ貰って走っているのと聞かれたことを思い出した。
2・3年は気楽にサッカーを楽しんで2年では2部昇格の痛快ゴールも決めた。
4年となって3部陥落の予感激しく、突如練習の鬼に変身。当時のメンバーにはいまだに恨まれるほど激しく練習した。お陰で3部陥落だけは免れた。
そう、最終大阪府大戦で勝った時にはグランドにシュウズを放り捨てて二度とサッカーなどするもんかと叫んだ。・・・と目撃者・弘子ちゃんの証言がある。
それがなんと40年余、OBとして何らかの関わりを持ち続けてきた。そしてクラブは創立80周年となった。
いまやサッカーはワールドカップに代表を送れるほどメジャーなスポーツとなった。
小学生も野球よりはサッカーを選ぶ。
スタンドも観衆が詰めかける。
我が総領孫も神奈川で小学1年から瀬谷FCに入った。今年で2年目。ポジションはと聞くとボランチとぬかした。これだけでも驚嘆に値する。今一番の楽しみは孫の試合を見に行くこと。神奈川少年サッカー小学2年の秋季トーナメントが有るそうな。
実はこの一週間ほど前から、糖尿・メタボ対策にマンションの壁を相手にボールを蹴っている。
サイドキックばかりだが300-400位は連続で続けられる。
この手ごたえなら24日の淡水サッカー総会でのOB戦に出てみようかな。
龍馬街道と名付けて佐賀関に上陸。その夜の宿を別府温泉にとるべく別府湾岸を走行中、確かこの辺りに我が津野一族最後の津野親忠の悲惨な最期を招いた原因となる戸次川古戦場があるはずと、川を渡るごとに川の名前を確かめた。
結局、新日鉄大分製鉄所が面する大野川を確認したのみで戸次の名前は見当たらなかった。
帰宅して真っ先にこの戸次の地理を調べた。
なんと、大野川の流域の内、戸次庄を流れる当たりを戸次川と称したとある。
戸次庄辺りには戸次川古戦場の名残も有り、長宗我部信親の墓も立派に守られている。
元親・信親親子を守って奮戦するも土佐の精鋭700が殲滅された。他に豊臣軍2000が島津家久の釣り野伏せの奇計に嵌り、この頃の合戦でも屈指の犠牲者を出した一戦とされる。
もう少し事前に詳しく調べておればと臍を噛む。
信親がこの合戦で死ななければ、長宗我部の後継者として、歴史に残る名将の名をほしいままにしたと言われる出来星だったと言われる。
まして元親の失意による人変わりもなく、関ヶ原の合戦での旗色を現す判断も間違えることなく、ましてや盛親がはやまって家康による一国取り上げの理由とされた津野親忠自刃も起こるはずもなく、時代は下って幕末、土佐から草莽も起こらず、龍馬も出現すべくもない。時代は大きく違ったものになっていた筈。
誠に、津野にとっても、土佐の民人にとっても痛恨の一大悲劇となった戸次川合戦。
さて、また訪れる機会があればよいが。

結局、新日鉄大分製鉄所が面する大野川を確認したのみで戸次の名前は見当たらなかった。
帰宅して真っ先にこの戸次の地理を調べた。
なんと、大野川の流域の内、戸次庄を流れる当たりを戸次川と称したとある。
戸次庄辺りには戸次川古戦場の名残も有り、長宗我部信親の墓も立派に守られている。
元親・信親親子を守って奮戦するも土佐の精鋭700が殲滅された。他に豊臣軍2000が島津家久の釣り野伏せの奇計に嵌り、この頃の合戦でも屈指の犠牲者を出した一戦とされる。
もう少し事前に詳しく調べておればと臍を噛む。
信親がこの合戦で死ななければ、長宗我部の後継者として、歴史に残る名将の名をほしいままにしたと言われる出来星だったと言われる。
まして元親の失意による人変わりもなく、関ヶ原の合戦での旗色を現す判断も間違えることなく、ましてや盛親がはやまって家康による一国取り上げの理由とされた津野親忠自刃も起こるはずもなく、時代は下って幕末、土佐から草莽も起こらず、龍馬も出現すべくもない。時代は大きく違ったものになっていた筈。
誠に、津野にとっても、土佐の民人にとっても痛恨の一大悲劇となった戸次川合戦。
さて、また訪れる機会があればよいが。
五島列島の海鮮を堪能したからには、片岡師匠の話にある戦後日本のJAZZの揺籃の地であった佐世保のJAZZ事情が気になるところ。
先ほど駅の観光案内書で頂いたJAZZSPOTマップを改めて覗いてみる。
あいにく火曜日のライブはどこにもなかった。そのうえ米兵の減少でかライブ中止のお店も。中には最近になって老舗のお店が閉店となっている。
アーケード通り右に懐かしいロゴの看板を発見。『ALL THATS JAZZ』とある。まさに小生のメインスローガンなり。これは如何ゆうことかいなと見渡すとJAZZSPOT 『EAZEL』の入り口が見えた。
気が付いた時には2階のお店の入り口に立っておりました。
あとで調べて分かったことだが、最近区画整理でお店が新しくなっているらしい。2005年の写真では訪れたお店とは違っている。ただレコードのコレクションは半端でなく山下ひかるマスターに聞いてみると、ぼそりと4000枚くらいかなとの返事だ。なんと1972年からの営業でSASEBO JAZZ を引っ張ってきた御大と知れる。
早速、生意気に K&Jのトロンボーンデュオを所望。至福のひと時を過ごした。
やはり佐世保基地の街・軍港と感じたのは回転寿司を覗いた時、カウンターにずらりとネービーの兵隊が、青い目が並んでいたこと。
駅までの途中に立派な市民ホールがあって、今夜の公演はかのぺレスプラード楽団だって。
どこまで懐かしい音楽スポットなんだ。もう一度ゆっくりJAZZナイトを堪能しに来るべし。
佐世保駅を出発、帰路に着いたのが午後8時25分。途中休憩を充分取りながら、無人に近い中国道をぶっ飛ばして自宅に着いたのが朝5時55分。 延1587Kのドライブでありました。
長崎では十分龍馬の足跡を辿り、その息遣いまで感じる。丸山の遊郭の街かどで社中の白袴とすれ違った想いだ。おみやげも買いました。さあ帰ろうかとなって、素直に帰れないのが我が夫婦の性と言える。
明石の生んだ4人のJAZZトランぺッターの一人。片岡学師匠がプロに成りたて過ごした佐世保の街の思い出話が甦る。そうだ佐世保に行こうとなった。これまで走行距離790K。
長崎・大波止を出発が3時30分で、地道を通って佐世保の着いたのが5時30分(858K)だ。
最近は佐世保と言えば佐世保バーガーで佐世保駅前にのあちらこちらにバーガー店が見受けられる。
ここでバーガーを齧っちゃうとせっかくの佐世保・五島列島の海鮮が味わえない。
例によって駅観光案内に駆け込んだ。
ちょっと小太りの愛想の無さそうなお姉さん。ところが彼女が意外と親切に一押しのお店を紹介してくれた。
ついでに佐世保JAZZ事情も聞きだして、ライブハウスのマップまで頂いた。
地元のお客が多いと言うお店ならきっとリーゾナブルで新鮮な筈とアーケイド通りの方角を目指す。
佐世保一番の繁華街アーケード通りの入り口左手。『ささいずみ』の看板を見つけた。
売りはやはり五島列島の海鮮。活けイカが名物。他のお客の面前にはもれなくイカの活造りが並んでいる。
早速イカの活造りから始めて、アワビのお造り、サバは大きいので鯵の活造り、オコゼの活造りと、このブログを書いている今もおもいだしては唾を飲み込んでいます。
イカげそのてんぷらも頂いて、〆はなんだったんだろうか思い出せないが、何といっても大ビールが380円。
考えられないお値段だった。そしてお会計も諭吉一枚でお釣りがきた。
どうか皆様、佐世保へ行かれた際にはこのお店だけは外せませんぞ。



明石の生んだ4人のJAZZトランぺッターの一人。片岡学師匠がプロに成りたて過ごした佐世保の街の思い出話が甦る。そうだ佐世保に行こうとなった。これまで走行距離790K。
長崎・大波止を出発が3時30分で、地道を通って佐世保の着いたのが5時30分(858K)だ。
最近は佐世保と言えば佐世保バーガーで佐世保駅前にのあちらこちらにバーガー店が見受けられる。
ここでバーガーを齧っちゃうとせっかくの佐世保・五島列島の海鮮が味わえない。
例によって駅観光案内に駆け込んだ。
ちょっと小太りの愛想の無さそうなお姉さん。ところが彼女が意外と親切に一押しのお店を紹介してくれた。
ついでに佐世保JAZZ事情も聞きだして、ライブハウスのマップまで頂いた。
地元のお客が多いと言うお店ならきっとリーゾナブルで新鮮な筈とアーケイド通りの方角を目指す。
佐世保一番の繁華街アーケード通りの入り口左手。『ささいずみ』の看板を見つけた。
売りはやはり五島列島の海鮮。活けイカが名物。他のお客の面前にはもれなくイカの活造りが並んでいる。
早速イカの活造りから始めて、アワビのお造り、サバは大きいので鯵の活造り、オコゼの活造りと、このブログを書いている今もおもいだしては唾を飲み込んでいます。
イカげそのてんぷらも頂いて、〆はなんだったんだろうか思い出せないが、何といっても大ビールが380円。
考えられないお値段だった。そしてお会計も諭吉一枚でお釣りがきた。
どうか皆様、佐世保へ行かれた際にはこのお店だけは外せませんぞ。
カレンダー
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
リンク
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
(12/10)
(03/07)
(09/29)
(07/06)
(03/22)
最新TB
プロフィール
HN:
つのしん
HP:
性別:
男性
職業:
企業向不動産仲介・企業立地
趣味:
ボランティア活動
自己紹介:
ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(03/08)
(03/12)
(03/12)
(03/16)
(03/23)
カウンター