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 県商七星会の例会にお邪魔した。それもこれも、シニアー世代の龍馬レターを頂きたい一心だ。
前回呼ばれて龍馬さんを語ったことが、今回の龍馬さんへの手紙企画に動機となった。
お話のテーマを聞かれて「龍馬こもごも」と申し上げていたが、結果は「龍馬もごもご」となってしまった。
会員の中に元三菱マンがおられ、その一声が、NHK「龍馬伝」の岩崎弥太郎が汚くて仕方がないだった。
確かに、劇中の香皮演じる岩崎弥太郎は地下浪人の風態とは云いながら、思いっきり汚れであります。
また、第3話は全くの作り話にかわらんというのが皆さんの感想だ。確かに皆さん龍馬伝を見てござる。
もごもごと龍馬最後の帰郷の下りを簡単にお話したが、皆さんの鋭い質問に圧倒される。
要するに、何故日本人はかくも龍馬好きになったのかと問われて返事に窮する。
写真でお分かりのように、一言居士の面魂。なお日本の将来を憂いて話は尽きない。
ただただ、お手紙頂くようにお願いするばかり。
CIMG1166A.jpg















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 今日は久しぶりに物件探しに出かける。 南二見2000坪工場用地はお目当ての倉庫2500坪が少し前まで閉鎖中だったのが、業務再開で活気を取り戻している。こうなると当方には無用だ。
もう一件は加古川中央に配送倉庫用地500-600坪。それも調整地域で探せとの注文だ。
加古川南北道路のうち、神野ランプと県立加古川医療センターランプ間が先行供用されているんで、そのあたりが適地に違いないとブラブラ。
まずは、加古川医療センターの立派さに驚いた。その上病院一帯の土地が殆ど県に買い占められていた。
当初、計画ではこの医療センターランプは無かったはずが、神野ランプ交差点からそのまま県道383を北上すれば簡単に医療センターに行けるはずが、わざわざ南北道路に新たに計画になかったランプを造っている。
ランプ一体の立派に整備された道路だけが不釣り合いに走っている。
一帯はかなり潤っている感じだ。
たまたま畑で話し込んでいるおじさんに、このあたりで500坪出ないかなと聞いてみた。
すると一人のおじさんが私の畑で良ければ900坪あって売っても良いんだと云いだした。
場所は少し離れているとのことでおじさんを乗せて現地まで走った。
その道すがら、鄙には稀なお店の予感を感じさせる看板を見つけた。 

「だいにんぐれすとらん  えるみたーじゅ」
エルミタージュと言えば有名なフランスの美術館ですぜ。なんと大げさなと、おじさんと別れた後行ってみることに。
CIMG1163_editedA.jpg

























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 土佐藩船手方、大廻船御船頭であった中城助蔵(直守)の手記「年々随筆」に
「九月二十五日(ママ)早朝、車輪船沖遠ク来而碇ヲ下ス。
午時ニあこめ渡合二入面碇泊。安芸船之由。」と記す。彼自身まさかこの船に龍馬が乗っていようとは夢にも思わなかったろうし、龍馬一行が彼を訪ねて来よう等とは思いもよらぬことだったに違いない。
震天丸が沖の礁(はえ)で潮待ちをしたのは、龍馬の指図だったかも知れない。船長たちは、浦戸へ入港するのは
初めてであったが、龍馬は種崎の地続きの仁井田浜で、徳弘孝蔵指導のもとに砲術の稽古に励んだことがあった。沖の礁は砲撃の目標でした。
龍馬はこの港の岩礁、潮流、澪筋などよく知っていた。その上、彼は勝海舟の神戸海軍練所で航海術、観天測儀観潮術を学んだ専門家でであったし、航海の経験も豊富だった。

前回イカルス号事件の談判が須崎で終わった時、龍馬は高知城下へは入らず、佐々木三四郎とともに夕顔で足摺回りで長崎へ帰った。
今回の航海は、足摺岬を東へ回って来る航路を取った。
この年の正月二十日夜、龍馬が高知の姪春猪に書いた手紙の末尾には、次のように書かれてあって、自身の運命を暗示するような文書に思われる。
私ももしもしも死ななんだりや
四五年のうちにハかへるかも
露の命ハはかられず
先々御ぶじでをくらしよ

d588a2bf.jpg   
        歴史家 内川清輔氏の手書きの地図


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 龍馬が帰国した際、仕置役 後藤象二郎は京都へ行っていて留守だった。
武力討幕論の大目付、乾退助(のち板垣)はその過激論のゆえ容堂によって軍政の責任者から一時下ろされていた。のちに板垣が自由民権運動を起こす兆しは欠片もない。
家老や中老、重役の中には頑固な保守派、佐幕派が座を占めていた。
上士勤皇派はいても数は少なかった。
武市瑞山を喪った土佐勤皇党も一頃の勢いを失っている。

この船に同船していた岡内俊太郎は佐々木三四郎の密命を帯び、藩庁への長崎の景況報告を表向きの理由とし、実は龍馬の活動を助けるため帰国したものです。
その名前はあまり知られていないが、この龍馬帰国に際し、龍馬を助けての活躍は実に見事というしかありません。龍馬の年少の同志と云える。   (山田一郎著 坂本龍馬ー隠された肖像ーより)

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 この地に在った、魚住城(魚住古城)は南北朝の文和年間(1352-56)赤松則祐に従った赤松一族の魚住(太夫判官)長範が住吉神社の社領魚住荘の領主として魚住町中尾の瑞雲寺ー住吉神社付近に居館を構えたのが始まりと云われ、応仁の乱には赤松正則に仕えた魚住長秀が軍功をたてたと云われています。
時代は下がり、天正6年(1578)加古川城(糟谷氏)における毛利攻めの軍議の決裂で別所氏が織田信長に叛いたため、羽柴秀吉による三木城攻めが始まると、別所氏についた魚住(左近亟)頼治が毛利軍の播磨の前線基地として、高砂城と共に兵糧攻めにあった三木城籠城の軍を支援するため、毛利軍からの兵糧等物資輸送の一大補給基地として魚住町中尾の城から、赤根川によって東面を遮断する大久保町西嶋の丘に城を移したとされている。魚住左近が在城していたとされますが、魚住氏の居城は魚住吉長の代(1560-1570年代頃?)には安田城(加古川市尾上町・赤松政村の頃の城主:魚住左近太夫)に移っていたようです。

俄か造りの魚住城は掘割に柵を巡らしただけの簡易な城だったようだが、毛利氏と別所氏を繋ぐ連絡の城として、三木城支援の紀州雑賀衆を迎えいれ、毛利氏からは吉川元春・小早川隆景等が魚住城に入り、2万の大軍を率い軍船数百隻には兵糧が満載されて播磨五泊の船泊港の「魚住の泊から高砂泊」にかけて碇泊したと云われます。梶原(平三兵衛景行が守備する高砂城からも加古川を遡上して三木へ搬送されていたが、「三木の干殺し」と云われた悲惨な作戦に、同年10月頃には秀吉側の大軍に攻められた高砂城は、梶原氏は毛利の援軍を待てずに城を放棄し三木城にはいっている。・・・(HARIMAuozumiから)
日ごろ何気なく行き来している、魚住町中尾、高砂、加古川尾上などが、歴史の舞台になっていた。

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