書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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どこか行きたい所はと聞かれて、やはりオックスフォードと答えた。英語圏の大学では最古を誇り、ケンブリッジはオックスフォードから逃げ出した学者によって作られたもの。とくにクライスト・チャーチという固有名詞が頭に浮かんできた。
というわけで、翌日オックスフォード見物とあいなりました。
どちらを向いても外人ばかり(あたりまえです)。見るもの全てが珍しい。ウロウロキョロキョロして、何度弘子ちゃんに注意されたことか。小ぶりな地下鉄も楽しいし、路上駐車の車の向きがてんでばらばらなのも気に入った。
目指すオックスフォード大学は45のカレッジとプライベート・ホールが集まったものを言い、オックス(雄牛)フォード(歩いて渡れる浅瀬)という意味らしい。
建物の中心はチャーチ(教会)で、絶対神を持たない我々には、根本から違った世界で、すべて神の御許にから発する思考にはとてもついて行けない厳しさを感じる。
異教の徒、それも八百万の国からやってきた無神論者にも、祭壇の厳かさはひしひし感じられて、思わず頭を垂れ、手を合わす。
絶対神あるが故の、宗教戦争に明け暮れたブリテンの凄惨な歴史を多少知る者には、この厳かさのうらにある冷やかな掟の厳しさを感じずにはいられない。
築何百年の石の建物ではとても暮せそうにない。何事を始めるにも神のご加護を願うことから始まる。
それにしても英国式庭園の様式美の見事さは何なんだ。
どうしてこの国からビートルズが生まれたんだろう。
なんだか頭の中が混乱を来してきました。
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1月7日長久寺においてしめやかに葬儀は執り行われた。もう余命少なしと分かっていた11月頃から、お寺さんにはその際はよろしくとお願いをしておりました。お通夜からして、大変な数のお参りで驚いておりましたが、本葬にも600人からのお参りがあり、土佐から駆け付けた親族一同も、そのお参りの数のあまりの多さにビックリいたしておりました。
この長久寺へお願いする経緯も、未だに不思議なことがあります。
明石市内には禅宗といっても永平寺派の月照寺と南禅寺派の長久寺他があり、須崎の津野氏ゆかりの菩提寺・元亨院は永平寺派と聞いておりました。
なんでも詳しく知っていたその親父が、私の亡くなった長男のお骨をお祭りすべくお願いしたのが長久寺さんでした。このお葬式を執り行う20年前のこと。
本来なら、永平寺派の月照寺にお願いすべきところを長久寺にお願いしたその訳は、またまた25年ほど昔、私のすぐ下、二男正志を数え2歳で亡くした際、長久寺の先代と知り合いであったことから供養を頼んだことにあります。それ以来、私ども夫婦は、毎年命日には長久寺で菩提を弔うべくお参りをいたしておりましたので、和尚さんともおなじみの間柄となっておりました。
院号は須崎・笹野の元亨院にお願いしたものの、果たして長久寺でいいのか、親父の兄の四郎伯父のように月照寺にお願いすべきものか相当迷いましたが、親父が2人もの供養を願った因縁が断ちがたく、和尚に相談したところ、宗派違いは気にすることはないと諭されて、やっと長久寺での葬儀をお願いすることになりました。
なんとも不思議な親父のお寺選びを尊重することが、ある意味供養となりはしないかと考えたわけです。
この長久寺へお願いする経緯も、未だに不思議なことがあります。
明石市内には禅宗といっても永平寺派の月照寺と南禅寺派の長久寺他があり、須崎の津野氏ゆかりの菩提寺・元亨院は永平寺派と聞いておりました。
なんでも詳しく知っていたその親父が、私の亡くなった長男のお骨をお祭りすべくお願いしたのが長久寺さんでした。このお葬式を執り行う20年前のこと。
本来なら、永平寺派の月照寺にお願いすべきところを長久寺にお願いしたその訳は、またまた25年ほど昔、私のすぐ下、二男正志を数え2歳で亡くした際、長久寺の先代と知り合いであったことから供養を頼んだことにあります。それ以来、私ども夫婦は、毎年命日には長久寺で菩提を弔うべくお参りをいたしておりましたので、和尚さんともおなじみの間柄となっておりました。
院号は須崎・笹野の元亨院にお願いしたものの、果たして長久寺でいいのか、親父の兄の四郎伯父のように月照寺にお願いすべきものか相当迷いましたが、親父が2人もの供養を願った因縁が断ちがたく、和尚に相談したところ、宗派違いは気にすることはないと諭されて、やっと長久寺での葬儀をお願いすることになりました。
なんとも不思議な親父のお寺選びを尊重することが、ある意味供養となりはしないかと考えたわけです。
藁をもつかむ気持ちの丸山ワクチンも甲斐なく、がん性腹膜が動き出した。
松浦内科から市民病院・木下春生ドクターに頼みこんで診察・点滴を依頼することにしたのが11月19日。
12月16日のメモに「市民病院へ移って約一ヶ月。その間、胃がん再発につき、胃カメラで排除するなどかなり手荒い治療となっているが、14日まではまだ状態は良好だった。
15日くらいから、頭のふらつきなど、かなり体力レベルの低下を来してきた。DOC木下は2月ごろまでは在宅治療が可能なように言っているが、小生の考えでは1月に入ればすぐに入院しなくてはならないのではと考えている。」とあります。
ことは私の推察どうりになり、2008.12.24の項で書いた、孫たちと最期のお別れのクリスマスイブを過ごし新年を迎えた3日3:30入院となった。肺炎の心配がありかなり苦しそう。木下DOCと1月いっぱいは頑張ろうとやくそくをして病院を後にした。
そして、2008.12.3に書いた親父の最後の一言を聞けずじまいとなって臨終を迎えた。
1月5日PM9:54 逝去。
その日のうちに、太寺の家に戻し、店の仕舞いに深夜事務所に向かった。
まだ現実が飲み込めずにいるような状態でいるうちに、突如腹の底からこみあげるものがあった。
呻きと言おうか叫びと言おうか、形状しがたい唸り声とともに、悲しみがほとばしってくる。それまでかろうじて抑えていた気持ちの高ぶりが爆発して、自分でも驚くほどの、あたり憚ることのない叫び声を上げ続けた。
まさに人生初めての慟哭。これが明け方まで続いたように覚えています。
あとは、お通夜・葬儀の準備に追いまくられて、涙を流すひまもないありさまとなってゆきました。
松浦内科から市民病院・木下春生ドクターに頼みこんで診察・点滴を依頼することにしたのが11月19日。
12月16日のメモに「市民病院へ移って約一ヶ月。その間、胃がん再発につき、胃カメラで排除するなどかなり手荒い治療となっているが、14日まではまだ状態は良好だった。
15日くらいから、頭のふらつきなど、かなり体力レベルの低下を来してきた。DOC木下は2月ごろまでは在宅治療が可能なように言っているが、小生の考えでは1月に入ればすぐに入院しなくてはならないのではと考えている。」とあります。
ことは私の推察どうりになり、2008.12.24の項で書いた、孫たちと最期のお別れのクリスマスイブを過ごし新年を迎えた3日3:30入院となった。肺炎の心配がありかなり苦しそう。木下DOCと1月いっぱいは頑張ろうとやくそくをして病院を後にした。
そして、2008.12.3に書いた親父の最後の一言を聞けずじまいとなって臨終を迎えた。
1月5日PM9:54 逝去。
その日のうちに、太寺の家に戻し、店の仕舞いに深夜事務所に向かった。
まだ現実が飲み込めずにいるような状態でいるうちに、突如腹の底からこみあげるものがあった。
呻きと言おうか叫びと言おうか、形状しがたい唸り声とともに、悲しみがほとばしってくる。それまでかろうじて抑えていた気持ちの高ぶりが爆発して、自分でも驚くほどの、あたり憚ることのない叫び声を上げ続けた。
まさに人生初めての慟哭。これが明け方まで続いたように覚えています。
あとは、お通夜・葬儀の準備に追いまくられて、涙を流すひまもないありさまとなってゆきました。
小学生駅伝の場外コース誘導から、到着順位管理、タイムキーパーにいたるまで、市内高校陸上部の部員たちが、弁当一つでボランテイアーしてくれる。彼らの協力なしではとてものこと、これほど大規模な競技会は開けない。心から感謝。そして彼らのほとんどが、聞いてみると小学生時代この駅伝大会に参加したとの答え。
だてに25年やっていたわけではありません。あらゆる競技の基礎となる走ることの大切さを伝えただけでも値打ちが有るというもんです。
②岡村哲郎トロンボーンリサイタル・西馬健史トランペットを迎えて
駅伝大会の打ち上げが3時からあり、それに引き続いてアスピア・明石市生涯学習センター9Fホールで、表記のコンサートに駆けつける。岡村君は23歳、大久保北中、明石南高校と過ごしたトロンボーン奏者。恩師である山口博之教諭・トロンボーンの影響を受けソリストを目指している一方西馬君は1歳年上で神出中、明石北高校と過ごしたトランペッターだそうな。
両人ともいまが鳴り盛り、新進気鋭の若者だ。そして言わずと知れた、我がアンサンブルコンテスト出身であることは言うまでもない。聴衆の前で、妙なる音楽を奏でることの嬉しさと心地よさと緊張を覚えたに違いない。
演奏そのものを、どうこう言うほど私に確固たる音楽根拠があるわけではない。ただただ伴奏のピアノ奏者も含めて、この明石でかくなる音楽会が開かれるということに感謝感激あるのみ。
岡村君に関しては、5年後の円熟したころにもう一度是非聞いてみたい。曲そのものの大局理解と、音色の磨きあげ、そしてもう一段の響きが加われば。
西馬君に関しては、さてこれからどんなペットを目指すのか、重大な岐路にたっているように感じた。
マルサリスのような軽快自在な方向か、音色に特長をもたせた味のあるペットを目指すのか。
そして案外二人のDUOが聴かせましたね。一人で吹く時より、音の広がりが何倍にも感じられました。
出来れば、このDUOは今後も続けて欲しいものです。
という訳で、この2月28日が至福の一日と申し上げた訳が御分かり願えたことでしょう。
親がなくとも子は育つ。 いい種がまかれれば大輪の花が咲く。
しみじみありがたい一日でありました。

だてに25年やっていたわけではありません。あらゆる競技の基礎となる走ることの大切さを伝えただけでも値打ちが有るというもんです。
②岡村哲郎トロンボーンリサイタル・西馬健史トランペットを迎えて
駅伝大会の打ち上げが3時からあり、それに引き続いてアスピア・明石市生涯学習センター9Fホールで、表記のコンサートに駆けつける。岡村君は23歳、大久保北中、明石南高校と過ごしたトロンボーン奏者。恩師である山口博之教諭・トロンボーンの影響を受けソリストを目指している一方西馬君は1歳年上で神出中、明石北高校と過ごしたトランペッターだそうな。
両人ともいまが鳴り盛り、新進気鋭の若者だ。そして言わずと知れた、我がアンサンブルコンテスト出身であることは言うまでもない。聴衆の前で、妙なる音楽を奏でることの嬉しさと心地よさと緊張を覚えたに違いない。
演奏そのものを、どうこう言うほど私に確固たる音楽根拠があるわけではない。ただただ伴奏のピアノ奏者も含めて、この明石でかくなる音楽会が開かれるということに感謝感激あるのみ。
岡村君に関しては、5年後の円熟したころにもう一度是非聞いてみたい。曲そのものの大局理解と、音色の磨きあげ、そしてもう一段の響きが加われば。
西馬君に関しては、さてこれからどんなペットを目指すのか、重大な岐路にたっているように感じた。
マルサリスのような軽快自在な方向か、音色に特長をもたせた味のあるペットを目指すのか。
そして案外二人のDUOが聴かせましたね。一人で吹く時より、音の広がりが何倍にも感じられました。
出来れば、このDUOは今後も続けて欲しいものです。
という訳で、この2月28日が至福の一日と申し上げた訳が御分かり願えたことでしょう。
親がなくとも子は育つ。 いい種がまかれれば大輪の花が咲く。
しみじみありがたい一日でありました。
①第23回小学生駅伝大会
ここ3-4日雨ふりが続いていたのが嘘のように、青空が広がった2月28日(土)。明石公園の陸上競技場周辺は、早朝から第23回小学生駅伝大会の参加者と父兄・応援団で賑わっておりました。
周辺道路は、ウオームアップするグループが行き交い、スタンドは応援の兄弟父兄で埋め尽くされた。
開会は9:30から、去年の優勝校から優勝旗の返還があり、選手宣誓の後、大会運営上の諸注意がされ、市内各校ごとのプラカードの元集合した小学生は3年から6年生の1400余名に達していました。
1984年(昭和59年)2月明石チッビコマラソン大会と名打って開催した市内小学生5・6年生対象の駅伝大会。意外と好評を博し、次年度以降も明石人丸ライオンズクラブの主要アクテイビティとして継続されることになり、2回目以降は小学生駅伝大会と名前を変更した。
この駅伝大会の発想のきっかけは、事業担当の第3副会長として、なにか面白いアイデアはないか模索していた私に、山口光紀君が、長姉の旦那は市陸上連盟の役員をされていた柴田先生で、先生の力を借りれば、青少年育成にピッタリな事業ができるかもしれないとの申し出。さっそく陸連で今、なにがやりたいか聞いたところ
駅伝形式の中距離競走の大会が望まれるとの返事がかえってきました。最初は5・6年生に限り、駅伝グループのみとしておりましたが、その後参加対象を3-6年としたことや、駅伝のほかに自由参加のタイムトライヤルを男女別、学年別で付け加えたことから、年々参加者は増え続け、去年1200人、今年1400余人もの規模にまでなりました。
第6回大会がちょうど明石人丸ライオンズクラブの20周年に当たったことから、当時瀬古選手と並び人気のあった新宅選手をゲストに招き、ブラスバンドの演奏まで繰り出してのにぎわいとなりましたが、それでも参加者は5・6年生男女59チーム472名参加の記録が残っています。



ここ3-4日雨ふりが続いていたのが嘘のように、青空が広がった2月28日(土)。明石公園の陸上競技場周辺は、早朝から第23回小学生駅伝大会の参加者と父兄・応援団で賑わっておりました。
周辺道路は、ウオームアップするグループが行き交い、スタンドは応援の兄弟父兄で埋め尽くされた。
開会は9:30から、去年の優勝校から優勝旗の返還があり、選手宣誓の後、大会運営上の諸注意がされ、市内各校ごとのプラカードの元集合した小学生は3年から6年生の1400余名に達していました。
1984年(昭和59年)2月明石チッビコマラソン大会と名打って開催した市内小学生5・6年生対象の駅伝大会。意外と好評を博し、次年度以降も明石人丸ライオンズクラブの主要アクテイビティとして継続されることになり、2回目以降は小学生駅伝大会と名前を変更した。
この駅伝大会の発想のきっかけは、事業担当の第3副会長として、なにか面白いアイデアはないか模索していた私に、山口光紀君が、長姉の旦那は市陸上連盟の役員をされていた柴田先生で、先生の力を借りれば、青少年育成にピッタリな事業ができるかもしれないとの申し出。さっそく陸連で今、なにがやりたいか聞いたところ
駅伝形式の中距離競走の大会が望まれるとの返事がかえってきました。最初は5・6年生に限り、駅伝グループのみとしておりましたが、その後参加対象を3-6年としたことや、駅伝のほかに自由参加のタイムトライヤルを男女別、学年別で付け加えたことから、年々参加者は増え続け、去年1200人、今年1400余人もの規模にまでなりました。
第6回大会がちょうど明石人丸ライオンズクラブの20周年に当たったことから、当時瀬古選手と並び人気のあった新宅選手をゲストに招き、ブラスバンドの演奏まで繰り出してのにぎわいとなりましたが、それでも参加者は5・6年生男女59チーム472名参加の記録が残っています。
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ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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