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順風満帆の開店を迎えた直後、パチンコ店のオーナーでもあるN氏より、とんでもない申し入れがあった。
「この新築2階建てビルは、7年後には取り壊して、隣接のジャスコビルと一括したビルに建て直す。したがって
先に裁判の判決を貰っておきたいので、その手続きを取りたい。」というもの。
今の私なら、そんな話は全く受け付けず、申し出は無効であると主張しただろうに。
親父は永田グループの義理があり、私は余りにも若すぎた。仕方なく、同意して、神戸地方裁判所の調停にまででかけて手続きをとった。
このことが、以後鍋ガーデンがはやればはやるほど、突き刺さった棘のように、常に意識されるものとなった。
ところがである。この手続きをとって1年半も経たない頃、再びN氏の呼び出しがあって、「伸ちゃん、ジャスコ8階のレストランもやってくれないか」との相談だ。
当時、長年8階で営業していたレストランが出たあとを、Kビルが経営していたが、はかばかしくなかった。
なんとかもっていたのは、夏期のビアガーデンの売り上げが馬鹿にならなかったから。しかし、そのBG売り上げも私が始めたダイエー屋上BGに客をとられて、最近ははかばかしくはない。おまけに、鍋ガーデンはどうやら流行っているらしいとなって、ついでに8階もやってくれ、BGも付いてるし、資金は全部面倒みますとの申し出だった。
私にすれば、いったいどうなっているの、鍋ガーデンは7年で契約を打ち切ると言ってみたり、8階のレストランを引き受けろと言ってみたり。おまけに8階レストランは客席200は越す大箱だ。
これには悩みに悩んだ。鍋ガーデンまでで、資金てきには限界がきている。売上は上上ながら、思いがけず
冷たい夏がやってきて資金繰りに狂いが生じ、手元は苦しい。
その上、本来なら止める立場の親父から、そこまで言われて断るのみたいな発言がある。
このときはじめて、毒食わば皿までとの考えが浮かんできた。・・我がジェットコースター人生の始まりだった。
「この新築2階建てビルは、7年後には取り壊して、隣接のジャスコビルと一括したビルに建て直す。したがって
先に裁判の判決を貰っておきたいので、その手続きを取りたい。」というもの。
今の私なら、そんな話は全く受け付けず、申し出は無効であると主張しただろうに。
親父は永田グループの義理があり、私は余りにも若すぎた。仕方なく、同意して、神戸地方裁判所の調停にまででかけて手続きをとった。
このことが、以後鍋ガーデンがはやればはやるほど、突き刺さった棘のように、常に意識されるものとなった。
ところがである。この手続きをとって1年半も経たない頃、再びN氏の呼び出しがあって、「伸ちゃん、ジャスコ8階のレストランもやってくれないか」との相談だ。
当時、長年8階で営業していたレストランが出たあとを、Kビルが経営していたが、はかばかしくなかった。
なんとかもっていたのは、夏期のビアガーデンの売り上げが馬鹿にならなかったから。しかし、そのBG売り上げも私が始めたダイエー屋上BGに客をとられて、最近ははかばかしくはない。おまけに、鍋ガーデンはどうやら流行っているらしいとなって、ついでに8階もやってくれ、BGも付いてるし、資金は全部面倒みますとの申し出だった。
私にすれば、いったいどうなっているの、鍋ガーデンは7年で契約を打ち切ると言ってみたり、8階のレストランを引き受けろと言ってみたり。おまけに8階レストランは客席200は越す大箱だ。
これには悩みに悩んだ。鍋ガーデンまでで、資金てきには限界がきている。売上は上上ながら、思いがけず
冷たい夏がやってきて資金繰りに狂いが生じ、手元は苦しい。
その上、本来なら止める立場の親父から、そこまで言われて断るのみたいな発言がある。
このときはじめて、毒食わば皿までとの考えが浮かんできた。・・我がジェットコースター人生の始まりだった。
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派手な祭り模様を施した看板で駅から丸見えの立地もあり、年中の提供料理も定まった。どうも、やっていることの本質の一つは、親父を喜ばせたいという、親孝行心もありました。
その仕上げに企画したのが、明石・加古川一帯。東播磨を中心とする範囲で、高知県人会を結成しようというもの。
さっそく、人づてにどれほどの県人がおられるのかさぐってみる。企業としては、神戸製鋼・高砂、加古川に県人が多いという情報。西区に高知の食品卸、旭食品の神戸営業所があり、そこに土佐の兄やんが、多数生息しているとの情報。魚ん棚の久保の魚やも高知ですとの情報。これらを頼りにかき集めたメンバーが60人余り。神戸学院に通っていた従姉のの子まで動員しての大作戦でありました。
ところで、県人会て何との最初の問題を解決するべく、頼りにしたのが、今私がお世話になっている神戸高知県人土陽会。
この名門県人会には、伯父の岡田四郎が早くから会員となっており、その紹介もあって、県人会運営について
おたずねすべく、永田の公文病院を訪問することとなりました。
当時昭和54.55年ころ、会長さんは先代 公文適先生 幹事 豊永栄福 両氏が涙を流さんばかりの歓迎。
よくぞその年で、県人会立ち上げとは、感心感心というわけだ。おまけに待望の皿鉢料理店まで、やっているとはとお褒めの言葉まで、頂いた。
話は、土陽会の歴史に始まり、現況の問題点。会則のひな形、おまけに皿鉢料理の出前注文までいただく始末。・・・ここに爾来30年にわたるお付き合いの始まりがあった。
賑々しく、よさこいマルイチで、親父 津野清志を会長にした東播土佐人会第一回総会が6月に開催された。
この県人会はその後、昭和59年ころまで続き、昭和55年11月16日長田のレストランブーンで開かれた土陽会50周年記念総会には、親父が東磨土佐人会会長として来賓に招かれた。
よさこいマルイチからは、巨大船盛りの生け作りを出品し好評を博した。
そして、昭和60年、適先生ご逝去後、ご子息 公文康先生が土陽会会長を継承されるにあたり、総会会場をよさこいマルイチに定めて頂いた5月26日の55周年記念総会からは、東磨土佐人会を土陽会に吸収する恰好で発展的解消をはかった。
その仕上げに企画したのが、明石・加古川一帯。東播磨を中心とする範囲で、高知県人会を結成しようというもの。
さっそく、人づてにどれほどの県人がおられるのかさぐってみる。企業としては、神戸製鋼・高砂、加古川に県人が多いという情報。西区に高知の食品卸、旭食品の神戸営業所があり、そこに土佐の兄やんが、多数生息しているとの情報。魚ん棚の久保の魚やも高知ですとの情報。これらを頼りにかき集めたメンバーが60人余り。神戸学院に通っていた従姉のの子まで動員しての大作戦でありました。
ところで、県人会て何との最初の問題を解決するべく、頼りにしたのが、今私がお世話になっている神戸高知県人土陽会。
この名門県人会には、伯父の岡田四郎が早くから会員となっており、その紹介もあって、県人会運営について
おたずねすべく、永田の公文病院を訪問することとなりました。
当時昭和54.55年ころ、会長さんは先代 公文適先生 幹事 豊永栄福 両氏が涙を流さんばかりの歓迎。
よくぞその年で、県人会立ち上げとは、感心感心というわけだ。おまけに待望の皿鉢料理店まで、やっているとはとお褒めの言葉まで、頂いた。
話は、土陽会の歴史に始まり、現況の問題点。会則のひな形、おまけに皿鉢料理の出前注文までいただく始末。・・・ここに爾来30年にわたるお付き合いの始まりがあった。
賑々しく、よさこいマルイチで、親父 津野清志を会長にした東播土佐人会第一回総会が6月に開催された。
この県人会はその後、昭和59年ころまで続き、昭和55年11月16日長田のレストランブーンで開かれた土陽会50周年記念総会には、親父が東磨土佐人会会長として来賓に招かれた。
よさこいマルイチからは、巨大船盛りの生け作りを出品し好評を博した。
そして、昭和60年、適先生ご逝去後、ご子息 公文康先生が土陽会会長を継承されるにあたり、総会会場をよさこいマルイチに定めて頂いた5月26日の55周年記念総会からは、東磨土佐人会を土陽会に吸収する恰好で発展的解消をはかった。
鍋ガーデン・よさこいマルイチ開店のきっかけとなったN氏との最初の話し合いは、8月3日と記録してありました。
わずか3月半の準備の後、11月20日無事開店に漕ぎ着けた鍋ガーデン。よさこいマルイチは目論みとうりの売り上げを達成する。まさにBGの7月の売り上げと同等を12月の忘年会に初年から達成した。
忘年会・新年会とは、鍋料理でも良いが、迎える春・夏料理として、もう一本の柱、土佐の皿鉢料理の内容を至急充実したものにしないことには。
高知の宮原叔母からの知らせで、毎年2月に土電会館で第11回皿鉢祭りが開催され、それはそれは見事な物だという。2月8-9日の日程を聞き、それ行けとばかりに、我が家族と板前一人を同行して、高知へ飛んだ。
1979年といえば、長男がやっと10歳。次男9歳、三男5歳になったばかり。この餓鬼どもには皿鉢といっても何の値打ちも無い。私はおまんまの種とばかりに、多分写真を取りまくって、子供の世話どころではなくなる。
そこで、宮原叔母に頼んで、弘子ちゃんと3兄弟は、ちょうど野球・阪神タイガースのキャンプ真っ只中の安芸見学に回った。
後で話を聞くと、この時3兄弟は幸運にもブレーザー監督にサインを貰うは、次男に至っては掛布選手から、皹の入ったバットをプレゼントされるはで、舞い上がっちゃいました。よほど、このキャンプ行きは楽しかったと見えて、次男はそれ以来、強烈な隠れ阪神フアンとなってしまって、現在にいたる。かのバットは彼の家宝となって大切に奉じられていて、息子の名前にもどうやらタイガースの韻がはいっているようです。
7日夕方、三男夫婦が私の快気祝いの為、急遽帰明。西明石・新幹線に出迎えた。退院3日目、かなり早いお祝いだが、本音は弘子ちゃんのお疲れ・慰労会であることは分かっている。
あの明石では超有名店だった明石屋の暖簾分けという松の内明石屋に席を構えて、4人が一息入れる。
娑婆のごちそうを待ちかねていた私にとって、この分明石屋の料理は、ちまちまとした会席屋とは違って、明石屋仕込みの、鯛・タコ料理をメインにした、一品料理のラインアップ。どんと鯛のあら炊きが出てきたときは、少々目では多いよとおもいながら、味付けで結構食べさせた。天然の鯛のアラはこんなに旨いんだと再認識。
この三男とは、昔からバイオリズムが、お互い似ていて、私が調子のいい時は、彼も調子が良い。
私が最悪の事態に見舞われているとき、彼も重大事件を起こしてくれた。しかし、幼少のみぎりから、彼の交渉能力は認めざるを得ないものがあった。今はかの富士ロックのプロデュサーとして、主にスポンサー付けの地味な仕事を手がけ、私と同じ自営の道、まっしぐらという具合。
話は自然と、我が家族の思い出にいたり、彼曰く、「親父の人生は言うとおり、不幸中の幸いを絵にかいたようなもので」と結論にいたる。お前さんもそうなるんだよと、お互い確認を交わす。
ところで、不幸中の幸いて英語でなんて言うのとの話になって表記でいいんじゃないということに。
そのあと立ち寄った、カラオケスナックで、彼が思わず[親父、無事帰ってこれてよかったな」と涙を見せた時には、思わず抱き合って号泣一歩手前。しみじみあとの人生、有益に過ごさねばと心の中で、噛みしめた。
翌日は、西区岩岡の鄙には稀なフレンチ・二コルでの昼食をともにして、東京に帰って行った。
また、弘子ちゃんと「二人ぼっち」になっちゃった。・・・心和やかな二日間、何よりの良薬となりました。


あの明石では超有名店だった明石屋の暖簾分けという松の内明石屋に席を構えて、4人が一息入れる。
娑婆のごちそうを待ちかねていた私にとって、この分明石屋の料理は、ちまちまとした会席屋とは違って、明石屋仕込みの、鯛・タコ料理をメインにした、一品料理のラインアップ。どんと鯛のあら炊きが出てきたときは、少々目では多いよとおもいながら、味付けで結構食べさせた。天然の鯛のアラはこんなに旨いんだと再認識。
この三男とは、昔からバイオリズムが、お互い似ていて、私が調子のいい時は、彼も調子が良い。
私が最悪の事態に見舞われているとき、彼も重大事件を起こしてくれた。しかし、幼少のみぎりから、彼の交渉能力は認めざるを得ないものがあった。今はかの富士ロックのプロデュサーとして、主にスポンサー付けの地味な仕事を手がけ、私と同じ自営の道、まっしぐらという具合。
話は自然と、我が家族の思い出にいたり、彼曰く、「親父の人生は言うとおり、不幸中の幸いを絵にかいたようなもので」と結論にいたる。お前さんもそうなるんだよと、お互い確認を交わす。
ところで、不幸中の幸いて英語でなんて言うのとの話になって表記でいいんじゃないということに。
そのあと立ち寄った、カラオケスナックで、彼が思わず[親父、無事帰ってこれてよかったな」と涙を見せた時には、思わず抱き合って号泣一歩手前。しみじみあとの人生、有益に過ごさねばと心の中で、噛みしめた。
翌日は、西区岩岡の鄙には稀なフレンチ・二コルでの昼食をともにして、東京に帰って行った。
また、弘子ちゃんと「二人ぼっち」になっちゃった。・・・心和やかな二日間、何よりの良薬となりました。
N氏とのお話が、8月末か9月初め。今記録を見返すと、11月20日開店とある。
夏ビアガーデンで冬鍋ガーデンとの安易な発想からの出発でありましたが、年中鍋料理で持つわけが無い。
そこで頭を絞って考えたのが、親父が愛してやまない土佐の皿鉢料理をもう一つの売り物にすればというアイデアだった。これだと、商売も出来るし、親孝行にもなるわけだ。
お店のコンセプトは決まり、テーマは祭り座敷とも決めた。そして,概略レイアウトは、60坪の店に、60人の宴会座敷、30人の小上がり桟敷、20人のテーブル席という構想。そして桟敷席のテーブル周りの工夫として、
神戸のいろりや・とけいやの座敷を参考とした。
最大の力を入れたのは、店舗入り口に設えた天井までガラスばりの大サンプルケースでありました。
鍋料理のサンプルはもとより、皿鉢料理と土佐の民芸品をてんこ盛りにした、にぎやかなショウウインドーが出来上がった。
11月20日開店としてのは、もちろん忘年会・新年会のお客を逃す手はないとのもくろみ。
これが大当たりして、ビアガーデンに匹敵する売り上げをたたきだす。親父のニコニコ顔が忘れられない。
しかし、この時点で財務上はかなり無理をしていて、自己資金でまかなうために、新築の家は抵当にいれるは、翌年のビアガーデンの売り上げをあてにするはのやり繰りが始まっておりました。
基本には売り上げが全てを解決するとの、楽観が有ったに違いありません。
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ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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