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第218 回ステレオクラッシックコンサート 昭和38年4月19日(金)PM6:30
場所 さんよう喫茶
雪柳こそ花の花
忘れ去った筈の於面影を
我知らず
よく似たる人の面に求めている自分に気づいた時・・・
桜は眩しい限りです
其のホロ苦い味・・・闇に頷く黄水仙の微笑 (1963.4.14)
*このハガキは弘子ちゃんが大事に?持っていたもので、消印が昭和38年4月17日。1月にプラターズに誘ってからかなり時間が経っています。その上コンサートまでギリギリの投函となっているところを見ると、ただ切っ掛けがほしいばかりに案内状をだした訳だ。おまけにハガキ表の下に「おひまがありましたら、おいで下さい」との走り書き、さらに「4月15日のロンドンシンフォニーオーケストラのお話でも致しましょう」とぬけぬけと書いております。確かにピエールモントー指揮のロンドン交響楽団を大阪・フェスチバルホールで聴いたおぼえがあります。ブラームスの交響曲一番だった。けれどさて語りましょうと言えるほどの蘊蓄があったかどうか。まあキザな時代でありました。大学一年は、サッカー部に入ってまず身体作りに追われていた。このころ、2年進級まもなくで、どうやら少し余裕がでてきたせいか、彼女が欲しいという気持ちがかなり昂ぶってきたんだ。一方弘子ちゃんは、川崎製鉄本社に勤めだした頃で、まだデートに応じる余裕はなかったろうに。さて、この時弘子ちゃんはコンサートに来たんだっけ。
第217回 時 昭和38年3月15日(金)PM6:30
所 さんよう喫茶
波間に揺らめく極楽丸の燈明 儚いものです
潮に乗って 唯唯 あてどもない船出
風の悪戯で船首が岸へ向くのを見てさえ
佛が別れを告げていると涙ぐむのも人情
三月の海の底のある冷たさに戸惑って
『厳しさは静かなものです。』と呟いた。
諦念は素直な心を生むのです。
(1963.3.8)
*祖父源市の満中陰を迎えて、松江の海岸に深夜、極楽丸を流しに出掛けた。船の中央に設えた灯篭に火を灯し、極楽へ行くんだよと声をかけながら、舳先を沖に向けて押し出す。三月の底冷えするなか、波に揺られて
なかなか沖へ向かおうとしない。横浪を受けて舳先が岸を向く。名残を惜しんでいるんだとの声が囁かれる。
それでも次第に引き潮に乗ったのか遠ざかる。肉親の死を初めて経験する身には、ただ押し黙って波間に揺らめく灯を見つめることしか出来なかった。惜別の意味を身にしみて感じる。白い息も、波の寄せる音も、砂を踏みしめる音さえも、すべてが静寂をむしろ際立たせる。一瞬風が強まったかと感じた瞬間、極楽丸の灯篭の火がかき消された。だれかがさあ帰ろうと声を上げる。それぞれが海に向かって手を合わせて、想いを振り切るように踵を返した。
和38年(1963年)1月10日、神戸国際会館でのプラターズを弘子ちゃんと聴きに行った。思えばこれが弘子ちゃんとの初デートとなる。爾来実に45年のお付き合いが始まった訳だ。
2浪してやっと商大にもぐりこんだ報告に、音楽部顧問・有永正人先生を母校に訪ねて、「臥薪嘗胆の一語」と褒めて貰ったのか、あきれ返った言葉なのかよく分からないまま、現役ブラスバンドの練習をのぞきに行く途中、真黒に日焼けした小柄でほっそりした女学生が、一生懸命FLUTEの練習をしているのを見かけて、わざと「講堂は何処ですか」と声を掛けた。これがキッカケで、この一年、OBの練習、たそがれコンサート、全日本吹奏楽コンクール関西大会・本大会(函館・一般の部で優勝日本一)と行動を共にしながら、EYEコンタクトはするものの、デートとまではいかなかったが、弘子ちゃんも卒業まぎわとなり、思い切って弟啓三が2年生で同じ音楽部でいたことから、PLATTERSのチケットを届けて貰った。チケットは渡したものの、実際会場に現れるまではドキドキもので、国際会館の前で待っていたのが昨日のように思い出される。・・純情だったんだ。ショートカットにツイードのハーフコートの出で立ちでやってきた弘子ちゃんとどんな話をしたのか、よく覚えていないけど、肝心のプラターズを実際聞いてみるに、今まで聞いていたリードテナーがどうも違って聞こえる。アレと思い買い込んでいたプログラムをしげしげ見てみると、TONY WILLIAMSの名前がない。ソニータナーと入れ替わっている。
プラターズが1955-56にかけて大ヒットを飛ばしたのもTONYのリードテナーの魅力のお陰だが、結局TONYと4人コーラスグループの縛りになっちゃって、来日直前にTONYがSOLOで独立しちゃったらしい。・・とこういったことは後で気がついたぐらいのことで、無事家に送り届けるまでは、どうだったかも思い出せない。ただ耳に残っているのはそれこそプラターズのヒット曲「ONLY YOU」であり、そのなかの歌詞が「YOU ARE MY DESTINY」でありました。
第216回さんようクラッシックステレオコンサート
昭和38年2月17日(日)明石デパート4階中集会所
雪の結晶、清純、純白、EINZAMのみっちゃん、積るかな、息の白さ、
身体のぬくみ、冬、冷やかなまなざし、凍った心、やさしさ・・・忘れた?
憎悪、悶、苦・・・死、惜別、最後の一言、”ありがとう”(1963.3.8)
*この年、2月3日に同居していた母方の祖父・源市が死去。75歳だった。明石・西新町で源床なる理容店というより、散髪屋を営んでいた祖父であります。祖母おしげと二人での散髪屋は、源ちゃんの髭剃りが評判で、源ちゃんがあたると3日は髭がのびてこないとか。まさかとおもうが、丁寧に逆剃りをいれていく仕事ぶりから、そう云われたものか。母が床屋の後を継がず西新町スキャンダルなる経緯があって、戦後は知り合いの床屋での賃仕事で暮らしていたが、胸を病んで、数年市民病院のお世話になっていたところ、急に病状悪化しての最後となりました。私にとって、肉親との最初の分かれ。ひごろ口数の少ない爺さんだったが、お酒とバッテラが好きで、よく駅前の銀たんぽで買ってきては、ふるまってくれたものでした。その爺さんと突然おとずれたお別れが余程応えたものか、あるいはもっといろいろ話を聞いておくべきだったとの思いか。もともとは、本質はこのようにセンチメンタルジャーニーなもんで、今日も仕事上で少々ごたついたりすると、弱気の虫があたまをもたげる。しかしそこは、尽力してくれた方々の志を無にするわけにいかず、勇を鼓して正々突破を試みるのみ。
明日は長男倫伸(トモノブ)が一晩だけ帰ってくることだし。
今日本業の不動産仲介でこの4ヶ月かかりっきりになっていた案件の山を越した。商大の後輩I君(G39)との初の共同仲介であります。ことの経緯は企業秘密で、多くは語れないけれど、もともと銀行マンのI君にとっては、買い客への気の使いようは尋常にあらず、まことにきめ細かい配慮と連絡の密さは見習わなくてはならない。今は証券マンとして中堅企業相手の株取引から資産運用の営業に携わる一方で、主に企業が求める収益物件の買い方に回っての不動産取組を修行中。大手銀行にいたとは思えない腰の低さ。客が求める物件の規模・利回り・立地などを聴きだして我が方に情報提供してくれる。いままで、客先に偶然商大OBがいて、思いがけない便利を図ってもらったことは度々ありますが、日常的に営業活動を共にするのはI君が初めてとなります。
とくに今回は、売り方が、是非早急に売りたい状況ではなく、売ってやってもいいけど的立ち位置であったため、最終売り渡し確認が遅れに遅れて、I君のやきもきたるや相当なものであったでしょう。
I君のようにハードなルテインワークをこなしながら、なお不動産業者の海千山千を相手にするのはご苦労なことだと思います。銀行あるいは企業の不動産部営業であれば、次々と押し寄せる案件の処理をこなせばいいてなもんだけれど、我々町場の不動産屋のレベルにまで降りてきますと、世に千みつ商売と称される確率の悪いヤクザ商売とならざるをえなくなる。そこでの工夫のあるなしが運命を左右するわけだ。考えてみるに、何処のどなたが考え出したのか、仲介手数料が売り買いどちらもから売買代金の3%頂けて、取引額にたいして青天井の仕組みが公認されている。このことがどれ程有難いことか、わりと業界人は分かっていないのではないか。世に不動産というからには中々動かないものという先入観があるが、これほど動くものはございません。景気が良ければ、事業拡大のための土地が必要。景気が悪くなれば、先祖が営々と蓄えた虎の子の土地を売らざるを得なくもなる。その御手伝いをするつもりと心得て営業しなければならないのに、思わず「あんた仲介しようとしてるのか、邪魔をしにきてるのかどっちやねん」とかましたくなる御仁もいて、ようは土地が好きでないと務まらないことだけは確か。いまや天職と心得て仕事を楽しんでいる境地に至ったのは、遠く昔、土佐の地で戦国七雄と一角として寸土を争った血のなせる業かもしんない。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)