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我がブロクグも浮世とやらに無関心では済まされない。9月1日pm9:30福田総理の総辞職宣言でTVはどの局も臨時番組で大童。しかし安部・福田と続いての政権投げ出し。会見の表情・顔つきを拝見するだに、日本人も柔くなったもんだと感心せずにいられない。鳥羽・伏見の戦いに思いがけず敗れて、ケツに帆を掛けて江戸に逃げ帰った慶喜さんのことを笑えない。慶喜さんは長州征伐の際は、これが後の慶喜かと、見まがうほどの凄腕を発揮して、陣頭指揮をとったもんです。然し錦旗が翻ったとたんに、親父斉昭の言いつけを守ったものか、腰が砕けて、徹底抗戦の小栗もこしを」抜かすほどの逃げまくり。海舟も内心あきれながら、西郷と江戸城無血開城、徹底恭順の交渉をせざるをえなかったのでしょう。しかし、安部・福田ほどの柔ではなかった。
これを龍馬が見ていたら、一体何と評する事だろうか。慶喜公が大政奉還を決めたとの報に接し、その胸中を慮って、良くぞ決意なされたと涙した龍馬は、一方では、もし奉還なき場合は、待ち伏せして、慶喜公を襲う計画までしていたとか。平成幕末はなんと登場人物の薄っぺらなことかいな。あの石田三成は処刑に向う途中で、柿を勧められて身体に悪いと断ったという。実に大将は生きながらえなければとの、腹の据わった人物です。人間の出処進退ほどその人物の軽重を表すものはありません。それを思えば、大政奉還後の構想を幕府若年寄格永井尚志に会って大政建白書の採用を説得し、来る新政府の綱領を起草しようとしていた矢先、命を絶たれた龍馬の気概と無念を考えてみろ。しがない俺だって、自分でやらかした事業が万事窮したときは、どうして死んでこましてやろうか考えた。福田さんは、これでなにが変わるわけもなく、ぬくぬくオマンマにありつけ続けるわけであります。
こうなれば、最後の望みは、龍馬さんのことどもを、子供たちに学んでもらって、人類の危機を救うほどの人物に育ってくれることに希望をつなぐしかありません。・・そう龍馬甲子園に向おう。
そのためには、検定などやっている暇はありません。我が龍馬検定・神戸編を去年4月に実施して後、世にどれほど龍馬検定が増えたことか。それもこれまで龍馬さんを語る本家・元祖といえる団体による一斉参入となっています。霊山歴史館・幕末検定クイズ龍馬編、坂本龍馬会館プレゼンツ坂本龍馬検定、全国龍馬社中・坂本龍馬幕末歴史検定がそれです。おかげで我が郵送検定の申し込みがぷつりと止まっています。
最初龍馬検定をやろうと声を上げたときは、本気に取ってもらえなかったことを考えると、本邦一番槍の金字塔は神戸高知賢人土陽会の頭上に燦然と輝き続ける。そして大事なのは、瑣末な知識にこだわるだけではなく、
そこから何を学ぶかということ。その学んだことを発表する場として龍馬甲子園を開催しよう。
蛆虫みたいな俺だってこれぐらいの意欲と構想を持っております。若人よまず怒れ、国会議事堂を取り囲め。
今回の殿村氏訪問で頂いた古い資料の中に、学部2回・外島昭二郎氏が25-30年前に、兵庫のサッカー史編纂のため依頼された、淡水サッカーの歴史を「我がサッカー部」と題してまとめておられた文章コピーを頂戴した。その中に「戦前の黄金期」の項があって、そこにあの幻の東京オリンピックの日本選抜候補の一件が記されてあった。
昭和11年(1936年)ドイツ・ベルリンでのオリンピック開催は、ヒットラー率いるナチス。ドイツの完全な宣伝の手段として完璧なまでに執り行われた。その演出、全体主義の成果は今回の北京の比ではなかったといえる。当時後の三国同盟を結ぶほど近しかった日本も、それに続けとばかりに、昭和15年(1940年)東京でのオリンピック開催を予定していた。
その前年昭和14年といえば、我が淡水サッカーが戦前の最盛期を迎えた頃で。、関西一部リーグ戦では、今までに一度も勝てなかった名門京大を3:1で撃破し、強豪関学には0:3で惜敗したものの、念願のBIG2を果たした。そして、昭和15年正月、始めて第4回朝日招待サッカー大会に駒を進め、関東学生サッカー界の王者明治大学に対戦して、専門学校チームが一歩もひけを取ることなく、0:2で敗れたものの俄然全国サッカーフアンの注目を受け絶賛を博した。その当時のレギュラーメンバーを調べてみると、なんと神戸一・二・三中出身が9名に県立神戸一商が2名と戦前の一時期中等学校サッカー界を制覇した兵庫県下の名門校卒業生で占められていたことが分かる。
昭和14年夏に東京オリンピックの候補選手の強化合宿が慶大山中湖畔のグランドで計画されて、当時のメンバーの中から、室山和(9回)・水沢淳也・小畑儀広・小川陽次(11回)の4選手が選ばれた。特筆大書すべき快挙でありました。・・残念ながら合宿出発のため神戸勢が三宮に集合した所で、オリンピック中止となり、涙を飲んで自宅に引き返したそうである。まさに我が淡水サッカー全盛期の泣くに泣けない痛恨事でありました。
写真は高商11回ー13回の写真でありますから、かの幻の東京オリンピック日本選抜候補の3名が写っている筈。超OB回りをして確かめて参りますから。
淡水サッカーを語るとき、必ず登場するのが、朝日招待サッカー大会であり、第9回大会昭和26年1月13・14日開催の試合で商大が関東一位の早稲田大を3:2で破るという一大快挙の歴史的勝利であります。Jリーグが始まるまで、サッカーの花形は関東・関西学生リーグと日本リーグ(JSL)でありました。正月には実業団と学生リーグの一位が日本一の座を争う天皇杯が楽しみの一つだったものです。
昭和41年頃でも、関東リーグの決勝戦、早稲田の釜本と明治の杉山との一騎打ちなど固唾をのんでTVにかじりついて観たものです。
それ以前のまさに日本一を決める場としての朝日招待サッカーは、サッカーマンの夢の球宴でありました。この大会の結果、東西学生選抜メンバーが選出され、名古屋会場で東西戦が行われたものです。この第9回の朝日招待後、淡水サッカーからHB藤川、FW北村・殿村の3名が選抜されている。
この朝日招待サッカーがいつまで続いていたのか検索してみるに、朝日招待サッカー自体のWIKIPEDIAが有りません。是非とも朝日招待サッカーを詳しく調べてみる必要があります。ラグビーでは朝日招待ラグビーが56回を数えて盛んに開催されているのに。
この時の朝日招待サッカーの記事を当時の朝日新聞大阪運動部の大スポ―ツ記者・大谷四郎氏が、負けた早稲田をあげつらうことなく、よくぞ勝ったと神戸商大をべた褒めに書いております。日頃辛口で手厳しい評論を展開する大谷記者が、よくよく嬉しかったのか、商大の健闘を褒めたたえる記事を書いてしまったのには事情があって、記者の長兄で当時ブラジル東洋紡の社長をされていた大谷一二氏から、一二氏の母校、神戸商大サッカー部の指導をするように厳命され、このシーズンをコーチとして鋭意指導した結果の商大勝利であったからです。記事にはどこを探しても、この事実は出てこないが、
選手が教えを忠実に守って、小気味よくGOALを重ねていく、それも前半0:1からの後半の逆転劇とあらば、腹の底から快哉を叫びたくなつたのも分かります。
(引用)タイミング・・またまた神商大を引っ張りだすが、対早大戦におけるFWの
攻撃はパスのタイミングが良かったことに多くを負っていた。意識していたか否か
は知らず、相手をひきつけ過ぎない内にパスした。インサイドなども一人を抜けば
2人と欲張らずにパスした。この早い球離れが相手バックスの動きかけた出鼻を
かわす結果となってボールは楽に味方へ渡った。 (大谷四郎記者)
お話のテーマは、一貫して商大サッカーに拘ってきたし、これからもそれを貫くことの一点に絞られたものでした。その元となるものは、先輩諸氏が営々と積み上げてきた実績であり、好不調の差こそあれ代々の部員が全力で励んできた事実であります。そのことから是高商1回から始まる部の歴史を再認識することから始めようと、詳しい資料をどっさり準備してくださった。そのなかで特に会報第1号昭和26年8月発行がそも始まりとなった頃の、熱気を実に克明に伝える貴重な資料であることは間違いありません。
一方、何故サッカーなのかに話が及び、殿さんの来歴にふれ、なにしろサッカーが好きでたまらなっかったこと。すべての進路選択がサッカーをやれることを最優先してきたことを話された。ここが全く今までの私が抱いていたイメージと違うところで、私を大阪ガスに呼んでくださった際、お役所的な大ガスにピッタリとおもった殿さんが、大ガスを就職先に選んだのは、戦後実業団でサッカー部が続いていた数少ない会社であったからだそうです。もとより神戸商大もサッカー部を目指して入学されたとのこと。昭和2年生まれの殿さんはサッカーに励んでいた甲陽中学4年で海軍飛行予科練習生に志願し、飛行機にのるつもりが、飛行機なぞあるわけのない状況になり、和歌山・田辺の海岸へ海上特攻要員(特攻艇震洋・人間魚雷回天等)として配備されそこで終戦を迎えられた。一つ間違えれば特攻帰りの闇屋で終わっていたかも知れないところ、やはりサッカーしたさに神戸高商に進むことにしたと断言された。同期の藤川氏・北氏も同じ復員学生であったそうな。2回の外島氏の回想文にも、高商入学に際して、軍歴が問題となり、田中教授に助けられたと述べられておられる。サッカー部にはそんな気の荒い兵隊帰りがゴロゴロしていたわけです。
ずっと殿さんの内に秘められた熱さに共感を覚えていたが、実はそれ以上に、その奥に無頼の風が吹いていたわけで、自分と同じ匂いを感じてのことだったんだと改めて納得した。
もともと彼は雪印乳業・神戸工場(神戸市西区伊川谷潤和)の工務課勤務の技術屋さん。結婚後東京本社に栄転し、その後ロジステイク課長まで勤め上げたが、あの「俺は昨夜も眠ってないんだ」騒動の雪印崩落の際、早期退職により退社。しかし不思議な経緯を辿って小岩井乳業に就職したのが、OVER50.そして無事一昨年定年を迎えて、現在はロジスティック専門のコンサルタントとしてとびまわっている。
東京へいってからは、30余年音沙汰が無かったが、昨年4月、三男の結婚式に駆け付けてくれたのを切っ掛けに、また御付き合いが再開した。なにしろ、この三男がお腹にいるころからの付き合いで、我がてんぷら店のカウンターでの勉強が幸を奏して計量士の資格を獲得、本社転勤の道が開かれたというもの。一時は家族の一員のごとく、どこに行くのにもその姿がありました。ほんと邪魔にならない性格の持ち主といえる。あのころの親身なあ世話が尋常なものでなかったことに少しは気づいて呉れたのか、まったく以前と変わらぬお付き合いにアットいうまに戻りました。
彼と知り合った切っ掛けは思い出すだに、噴き出してしまう。そのころ(昭和48年・1973年)、さんよう横丁の一角、串カツ屋の跡を利用して、カレーコーナーを開けていた。といってもMCCのカレー缶に少々手を加えた程度のもの。こだわりなど何処をさがしても見つからない。それでも通りに面している御蔭か、時たまお客が紛れ込んでくる。その一人がアリチャンでした。まずいカレーは会話でカバーとばかりに、取りとめない会話が始まって、彼が玉津の雪印に勤めていること。実はピアノを習い始めたこと。そして狭い寮の部屋にピアノを買い込んだはいいが、勤務の都合で、昼間弾けなくてこまっていること。そしてやるならJAZZがやりたい。・・いやはや飛んで火に入るとはこのことか。ちょうどMUSIC・INNボサリオを開いたばかりで、お店に自前のピアノがなかった。下手でもなんでもいい、コードを忠実に4ビートで弾けるピアノ弾きがいないものか。との悩みを一挙解決してくれる人物の登場となりました。その後、ピアノを店に持ち込んで、ボサリオ一座のピアノとして、ターヤンから徹底的にビートを教え込まれる。夜も日もなく、出没して、ほんとに雪印に勤めているのか疑ったほど。彼が会社の同僚として連れて来た吉川芳男と妹が結婚する運びとなったり、ボサリオを舞台に、いろんなステージに出演したりと、まさに一杯のカレーがもたらした不思議な御縁となったわけです。
この30余年の無沙汰は彼なりに一生懸命働いていた証左と受け止めて、やはり心底気の合った相棒として、ロジ関連の不動産案件を営業する方向で利害が一致。こうなれば以前にもましたシナジーが期待できることを確信して新幹線・西明石までお見送り。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)