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その清水先生が育友会費の使い込みが発覚して大事件になったのを聴いたのは、同じ敷地内に隣接する附属明石中学へ進学して間もなくのことでありました。こんなことを書くと怒られるが、附属小の同級生を見ても、ほとんど兄弟・姉妹が入学している。事実わが3人弟妹も入学した。どうやら、弟・妹はすんなり入学したが、私は実は幼稚園を受験して滑っている。何かの関門があると必ず滑るクセはこのころからのこと。やっと入学を果たしておふくろにご褒美の饅頭を貰ったのがむしょうに嬉しかった。
ある意味先生と育友会・父兄との癒着があったんでしょう。戦後10年経って、シミキンは県下で一番若い教頭先生に出世しておられた。コアカリキュラムの研究に明け暮れて、お酒がすきなのが災いして、研究会の後は若手・古手をひきつれて福原へ繰りこんでいたとか、いやそこまで贅沢はしていなかったとか。父兄のお母さんともややこしくなったりして、今で言う内部告発にやられたんだ。
そりゃ明石の教育界どころか、関係者一同が警察に引っ張られて、かなりやられたらしい。当局もまだ戦前の名残があってかなり徹底しての取り調べだったとか。口を割る者、黙秘する者。しかし所詮世間知らずの先生方。全部白状しちゃって、結局シミキンが一人罪を被って幕引きとなった。
それを聴いたわれわれ教え子には本当にショックな出来事でありました。なんといっても、一番お世話になった先生でありながら、この事件のため、その後一切接触することがありませんでした。
それが昭和45年ころ、明石駅前に「てんぷらマルイチ」を開店して間もなくのこと、無性に先生に会いたくなって、藤江というところに住まいされていると聞きこんで御尋ねした。先生は教員を退職後、教科書会社に就職されておられたとか。やっと訪ねあてたところ、あれは七夕のころでしたが、一年前の七夕のころ亡くなられたとの御話し。同居のご婦人から、よくあなたのことを話していましたよと聞かされてやっと自分が先生孝行の一つもしていなかったことに気がついて、いまさらながらに悔やまれました。せめてもの形見にと無理をいってもらってきた写真が前回UPしている肖像写真であります。
清水先生ありがとうございました。
4年生の秋、階段を8m墜落したころから、なぜか勉強に勢を出すようになりました。なにしろその当時コアカリキュラムと称して戦後の民主教育の旗頭となっていた清水一郎先生に、あろうことか、親父が「ちょいと、絞めてやって下さい。」と頼んだらしく、親公認のシゴキとなりました。なぜかいやに俺にだけは念のいった絞り様。席を前後していた同じくヤンチャ者のタッスンこと田角君と両名が、「コラ、ツノ・タスミ屋上を往復20回走ってこい」等と謳うような口調で命じられる。副担当の横山先生からも目の敵。良い子と仕方のない子との色分けは、一度されると絶対変わらない。生徒の出来不出来によるのか、家庭事情によるのかよく分からないが。文化祭の劇の配役においてもその原則は守られて、右柳(うりゅう)君やアッサンは常に主役で、5年の時、大きな役を貰ったけど、野球チームのはぐれ役で、劇の最後に泣いて土下座する役回り。悲惨な思いで話は尽きることがない。
一方、シミキン(清水先生)の授業は、まさに当時最新のグループ授業のモデルといえるもの。連日全国の学校からの参観があり、教室はそれらの先生でごった返すほど。いや、シミキンには勢いがありましたね。あのタバコのヤニ臭さと、皮製の頑丈なスリッパを頻りに思い出すのは、いつも叱られるとき下を向いている目に入るのがこのスリッパで、両切りのピース御愛好ゆえに、ヤニの匂いが漂っている。
しかし、この厳しさの御蔭で、成績はこれが同一人かと疑うほどの変わり様。きっと墜落事故のせいだろうと散々からかわれました。
ちょうど4年生からは、校内競技大会が始まる。これがなぜか附小ではサッカーでありました。たいがいの小学校が軟式野球であったのに。後年その理由が分かったのだが、その当時の体育担任の吉i井生が、サッカーの兵庫県教員チームの補欠だったことからサッカーを取り上げたとのことだった。そしてこれが私のサッカー人生の始まりとなったわけです。
Stars fell on Alabama(アラバマに星降りて)
Verse Moonlight and magnolias、straight in your halr
(序奏) All the world、a dream come true
Did it really happen, was I really there?
Was I really there with you?
とあって、 We lived our little drama、we kissed in a field of white
And stars fell on Alabama that night
I can‘t forget the glamar, your eyes held a tender light
And stars fell on Alabama last night
と続いたこの歌詞の 「We live a little drama」にKOされちゃった。毛唐もこんなことを考えているんだという驚きと、そうその通りという共感が湧き上がって、わが人生のテーマ曲の一つになったというわけ。
御代が2,000円。かなりイータカなり。
ルイについては、皆様先刻ご承知の通り、不出世のトランペッターであり、誰知らぬものがない、エンターテナーであります。このエンターテナーという要素が大切で、今時達者に吹くプレーヤーは山ほどいるが、聴衆を熱狂させ、沸騰させるほど受けるプレーヤーは皆無といっていいだろう。この受けるということに関しては、ルイの右に出るものは無く、伊藤隆文が日本のルイと賞されたのも、この受ける演奏という一点においてであります。
もともとDIXIELAND JAZZは南北戦争後、南軍軍楽隊の残党が持ち帰ったラッパ・太鼓を葬式の葬送音楽に用いたことから始まった。ルイは1901年ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人街に生まれ、子供のころに、お祭りで浮かれて、ピストルを発砲して、少年院に送られ。その少年院のブラスバンドでコルネットを吹くようになったのが、音楽との最初の出会いと言われている。通称サッチモ(がま口)と呼ばれた唇は、見るからに鉄の唇そのもの。そのハードリップワークが奏でるメロデイーはまるで歌うが如く、自由奔放・変幻自在の動きを見せる。喋る口元からして、タンニングそのもの。その彼が楽譜が読めなかったと聞かされて心底驚いた。余談ですが、1953年の日本公演の際、わが親父は神戸・
聚楽館でその公演を聴いております。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)