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7月12日、淡水サッカークラブ総会に出席。今回は超OBの皆さんを捕まえては、確認事項と質問に忙しい一日を過ごすことになった。まず驚いたのは、私が4回生の代で、監督をお願いした芝田薫先輩が亡くなっておられたこと。それもかなり前のこととか。あれだけお世話になりながら、残念な知らせとなりました。次に1973年刊行の1部復帰祈念特別号に掲載されている16-20回集合写真に写っている3人の女性について。それまでのサッカー部といえば、彼女が試合の観戦に来ることなど、絶対と言えるほどあり得なかったなか、4回生時、私が弘子ちゃんをほとんどの試合に連れていっていました。その写真は卒業するまでの2・3月ころの練習に押し掛けた際に撮ったもので、珍しや、3人の女性が写っています。いまどき女性マネージャー花盛りの有様を見ると、羨ましいやら、悩ましいやら。悩ましいいと言うのは、変な意味ではなくて、気になってサッカーに打ち込めないだろうとのこと。われわれの時代、商大には同級生に全校でただ一人の女学生、渡部知子さんがいたのみだった。その渡部嬢も、名簿では一年遅れの卒業で、住所不明となっています。たぶん、淡水サッカーの現役集合写真に女性の姿が現れた最初ではなかったか。その一人は、弘子ちゃんで、さて後の2人のうち、吉田君の後ろに恥ずかしげに座っているたぶんまだ女子高生を今までずっと、吉田君の細君である聖(ひじり)さんとばかり思い込んでいて、もう一人の女子高生は一体だれなのか、横にいる細見君の彼女だったか頭を悩ましていたわけです。(ずいぶんと暇)さっそく吉田君を捕まえて確認する。答えは「2人とも当時家庭教師で教えていた女学生です、聖ではありません。」今まで時たま吉田君の自宅にTELを入れた時には、電話に出てくる細君とこの写真の彼女のイメージで話していたのに。・・・
次に先輩諸氏のスピーチでの新しい発見があった。学5回酒井保氏のお話に、卒業生最年長の大谷一二氏が極最近亡くなられてた報告があり、大谷先輩が部に寄せられた功績として、ブラジル東洋紡績社長とはるか離れた勤務であったにもかかわらず、令弟・大谷四郎氏(神戸一中・東大法学・当時朝日新聞スポーツ記者)を戦術コーチとして派遣され、朝日招待の際のユニホーム一式まで寄贈されたとか。なにしろ大谷兄弟は当時のサッカー界のSUPERSTARであったことの説明を拝聴。さらに、昭和16年、太平洋戦争開戦のため幻となった東京オリンピックの候補選手として、高9回深田篁一(大阪商船取締役)・室山知(松竹)、高11回水沢淳也(東洋国際石油)、小川陽次(戦死)の4選手が選ばれていたこと等、瞠目するようなお話を記憶に刻むことができました。
予定通り、会長交代の動議了承され、矢頭徳樹新会長G22が引き継ぎ、80周年を迎える抱負を述べられた。また吉田会長が最後に挨拶され、途中感慨胸に溢れて、言葉に詰まる場面では、我々もこみあげる熱き思いを噛みしめながら、「思いが繋いだ80年」および「80周年を2部で迎えよう」との決意を披露されて満場拍手喝采。戸田圭哉主将の力強い後期リーグ戦全勝宣言を心地よく拝聴した。
4歳にして、大空襲を逃れて拾った命を、もう一度拾い直すことになろうとは。よくよく、運に恵まれた男に思えるが、常に「不幸中の幸い」としか言えない『運』に恵まれ続けた60余年といえる。
この6月27日、東京都杉並区第10小学校の屋上天窓から、小学6年生が転落して死亡との悲惨な事故が報じられた。天窓は強化プラスチックのドーム型で1Fまで、吹き抜けで、高さ12M以上とか。屋上での授業を終えたあと、天窓に乗って遊んでいたらしい。死亡した少年は運が悪かったのか、それとも12Mを転落すれば、人間はとてもじゃないが無事でおれないものか。
あれは小学4年のこと。秋の運動会の予行演習があった日の昼休み。屋上でお弁当を使って、さあ
運動場に戻ろうとした伸一少年は、まあいたずら盛りもいいとこで、ヤンチャそのものの性格の持ち主。
屋上搭屋の階段手すりにお弁当箱を乗せて、滑らして遊ぶつもりが、手加減を誤って手すりの向こうに落としてしまった。階段下で弁当箱が大きな音を立てているのが聞こえてくる。思わず、手すりに身を乗り出して下を覗こうと、飛び上がったところまでは何とか覚えている。・・気が付いた時は、校医の西井外科のベッドの上だった。猛烈な前頭部の痛みと、絶え間なく吐き気が襲ってくる。頭はガーンと音が鳴り響いたまま。もう何が起こったのか理解できない。・・・しばらくして、親父が駆けつけてきてくれた。嬉しいながらも、なにかとんでもないことを起してしまってすまない気持ちばかりが湧いてくる。西井先生とのやりとりが聞こえてきた。「幸いひどい内出血はないようだが、今夜熱が出るようだと、命の保証はできかねる。なにしろ頭を冷やして安静に。」・・そのままベッドに寝転んだ状態で考えてみるに、どうやら3階から階段を落ちたらしいことが分かってきた。・・今も目を閉じてこれ以外のことを思い出そうしても、まるでサッパリ思い出せない。覚えているのは、事故後学校に行きだしてから、友達が事故の状況を色々教えてくれたことばかり。なかでも同級生の桑山壮一(故人)のお姉さんが1階の階段を2・3段上がろうとしていた足元に、黒い塊が落ちてきたとおもったら「つのしん」やった。あと少しのとこでお互い頭がぶつかり悲惨なことになっていたかも知れないという話は、聞いている本人にとってショックそのもの。下から7段目ステンの滑り止め金具が貼り付けてある階段の角に頭から真逆さまに落ちて激突した。オデコの左側、手でさするとあのときの特大たんこぶの名残が感じられる。・・何しろ気分が悪かったなあ。
上記の記事の12Mと言う高さが気になって、いったい俺はあの時、何Mを落下したのか確かめないと 気が済まなくなってきた。7月7日午後2時ころ、神戸大学発達科学部附属明石小学校の校門をくぐる。守衛さんに来意を告げて、先生につないでもらう。入校証を胸に付け、教員室に向かう。事情を話すとあきれたような表情を浮かべて、副校長に取り次いでいただいた。副校長平山順一先生は、その昔我々が習った威厳に満ち溢れた清水一郎先生・石井三郎先生と違い、今時の感じのいい先生です。
廊下は授業の合間だったか、生徒があふれ賑やかなこと。どの子もさすが附属の生徒、いいとこの坊ちゃん・嬢ちゃんばかりと見受けた。
平山先生に案内頂いて、墜落現場へと急ぐ、といってもおもったより校舎は狭く・小さく感じる。一階7段目のステップを確認して、上を見上げてみると、身体一つが通り抜けるくらいの空間が吹きぬけている。あの記事と一緒だとおもいながら、2階・塔屋へと登った。屋上はその昔、シミキン(清水一郎先生のあだ名)に事あるごとに叱られて罰として、何回も往復走らされた思い出しかなっかたが、まあなんとこんなに狭いところだったとは。ちょうど落ちたとおもわれる手すり際から、用意の鳴子を重石にした
紐を垂下げる。紐はどんどん繰り出して8Mのところで鳴子の音がした。ああ8Mを勢いよく頭から飛び込んでいったわけだ。まさにダイビングしたと同じ。
よくもまあ命が有ったもんだとの思いがわき上がってきたのは、車で帰る途中から。俺の命は確かに
あの時終わっていても何の不思議もなかったこと。それを思うと、生きていたばかりにいらぬご迷惑をかけた人々に申し訳ない気持ちが湧いてくる。と思えば、せっかく拾った命だ、完全燃焼しないことには申し訳ないとも思い返す。
後日談としては、当分学校の話題となり、連日上級生がわざわざ教室まで、顔を見に押しかけてきたこと。そして、この事故後、不思議なことに伸一少年の成績が人が入れ違ったかと言うぐらい良くなって、6年生の卒業写真では我ながらキリット賢そうな少年の姿に。・・これが我が人生の『不幸中の幸い』第一号。
そのしっぺ返しともおもえる、米軍のサイパン島から飛来したB29による、1月19日の犠牲者300名に対し、6月9日の犠牲者は642名と格段に多くなっている。これは、直接的攻撃として川崎航空機を狙った爆弾がそれて明石公園に着弾したが、その当時空襲時などの場合、列車は明石駅に緊急停車して、乗客を明石公園に誘導避難していたために、その人々269名がその爆弾により罹災したものと思われる。6月22日・6月26日と続いた爆撃の後、仕上げとばかりに7月6日に間接的爆撃・M69爆弾(焼夷弾)975tの攻撃が行われた。この空襲によって市街の24%が消失したと言われている。我が家があった、西新町・は西王子町・新浜と同数の2500余人の罹災者を出し、この3ケ所が突出した被害を蒙った。上津橋へ疎開していなければ、命が無かったに違いない。あらためて、明石大空襲の犠牲となった1,464人の魂の安らかなることを祈らずにはいられない。・・・黙祷
MSN産経ニュース2008.3.11配信【人、瞬間(ひととき)あのとき、作家 津本陽さん】からの引用。
空襲で知った人生の苦味
昭和20年1月19日午後の出来事を、作家・津本陽は生涯忘れることはないだろう。満16歳だった寅吉(とらよし)少年は、その日。川崎航空機明石工場にいた。
工場の敷地は広大で、本工員、徴用工員、学徒合わせて約4万人が働いていた。寅吉少年は陸軍の夜間攻撃機の主翼を製造する部署に配属となつて、日々の労働奉仕に汗を流していた。・・・
午後1時半ごろ、地獄が突然やって来た。「いい天気でした。ぼくが工場の屋内で工区の伍長さんと向かい合わせで座っていたら、サイレンが鳴り出したんです。」サイパンから飛んできた、関西初の大空襲だった。
悪魔の化身B29の編隊は、第1陣が8機、第2陣も8機、第3陣は16機、第4陣は32機という大編隊でやってきた。
ほかの学徒らとともに、工場正門の向かいにある小さな横穴に避難した。伍長は工場内にある本部まで駆けつけて、戻ってくるときに背後から直撃弾を受けた。「その場で、身体がなくなりました。」
やがて辺りには高射砲を撃つ音が響き、第2陣が上空に迫った。防空壕の中で耳にする着弾音は「風呂場で洗面器を頭からかぶった上からハンマーで思いっきりカーン、カンカンカン、カーンと叩きつけられたような、生きた心地もしない轟音と、箱の中に放り込まれて激しく揺さぶられているような震動だった。
第3陣が来る前に「土気色の顔をした配属将校が走ってきて、こんなところにいたら皆死ぬからすぐ逃げろ、といわれまして」六,7人全員で、工場からさらに離れた場所を目指して、逃げ出した。一撃でビルを破壊する250キロの特殊爆弾を抱えた16機の編隊が、背後から近づいてきた。
ようやく竹林の下にある、避難民で満杯の防空壕にもぐり込む。近くに落ちた爆弾の衝撃で「歯をくいしばっていた仲間の生徒の歯が折れて、血が噴出しました」。
とどめの第4陣を寅吉少年は、防空壕から表に飛び出した直後に迎えるkとになる。土手の下にあった、工場の道具などを入れるする鉢状の穴の中に飛び込んで、どろでぐちゃぐちゃになりながら、無慈悲な絨毯爆撃から逃れ続けた。
工場は壊滅し、多くの犠牲者が出た。一発の直撃弾で14人が即死した現場は、目と鼻の先にあった。「この体験は、35歳になって小説を書き始めるようになるまで、ずっとあとを引きました。人間とは実にはかないものです。人生、一寸先は分からない。そんな無常観というか、人生の苦しみがずっと心にたまってきて、僕は小説を書くようになったんだと思います」と振り返る。
一つ間違えれば死んでいた。「あのときの体験があったのとなかつたのとでは、ぼくの物の考え方はまるで変わっていたと、今でも思いますね」(文 宝田茂樹)
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)