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                                                                                                                 本学グランドでOB戦、その後大学生協ホールにて総会、現役全員参加の懇親会のスタイルは平成6年の総会から始まった。平成4年の総会で決議された、1000万基金計画は、各人10万円払い込めば年齢に関係なく、終身会費免除となる規約が定められ、また60歳以上は会費免除となる従来の規約も有って、基金4-500万は早期に集まったが、当然毎年の会費収入が劇減することになる。この1000万基金も期する所は、預金利息6%分を、毎年の現役補助と淡水会運営費あてればよいとの目論みであったところが、思いもかけず低金利のご時世となり、むしろOB会の足枷となることに。しかし、変更した現役全員参加の総会形式は変えることなく、OB連の拠出をお願いして、開くことができました。私が、木下健名誉会長付幹事役として会をお預かりしたのは、平成4年6月7日から平成9年6月28日の丸5年の間。その間心がけたことは、現役の時のように決して熱くならないこと。2度とあのときのような迷惑を懸けてはならないこと。いまさらグランドにたてるわけもなく、といって練習を見に行けばお節介の一つもしたくなる。だから極力グランドにいくことも封印しての5年間でした。勿論ここぞと言う試合には声を嗄らしての応援に駆けつけました。そのようにまるで気のぬけた存在でありながら、幸いなことには現役生の奮闘のお蔭で、平成5年秋季リーグ(G44回砂川主将)と平成8年春季リーグ(G47回広瀬主将)の2度2部復帰を果たし祝勝会を盛大に催すことが出来ました。img263b.jpg特に平成8年6月3日の総会




















兼祝勝会は会場を明石商工会議所ホールに場所を代え、総勢60名を越す参加(OB21名)で、私の任期で一番盛り上がったことでした。残念なことに、いずれも2部復帰の次のリーグで遭えなく転落してしまい、復帰後の戦力維持養成が重要であることを思い知らされた訳であります。とくに阪神淡路大震災の平成7年6月3日の総会の際は、もっぱらOB現役の安否確認に尽力し、幸いに直接の被害は無かったものの、G17回中園寿二氏の父君が犠牲となられ、かなり時期をずらしての葬儀が神戸市西区・西神会館にて執り行われた際、参列したことを思い出しております。

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6月28日(土)新神戸クラウンホテルにて「おかげさまで20年」と題して医療法人社団康人会・適寿リハビリテーション病院の20周年記念講演会と懇親会が開催されました。12席18テーブル約220人を数える大PARTYでした。われわれ夫婦も招かれて、土陽会の小島専務理事と島本事務長ともども出席いたしました。戦前より高知県人の集いの場としてあった同志会的な会を、昭和25年公文病院先代の公文適先生が確立された神戸高知県人土陽会。適先生ご逝去のあと、昭和60年の55周年総会からは、ご子息公文康先生が2代目会長をお引き受けになつた経緯は前にも述べたところです。適先生なきあと、県人会は勿論のこと、長田の名門公文病院もご兄弟で引き継がれる中、次男である、康先生は、昭和63年適先生の広壮なお屋敷のあった丸山に、ご両親〈適先生・ご母堂久寿雄さま)と話し合っていた理想の病院・花にうもれた癒しの病院を期して、ご両親のお名前を冠した適寿REHA病院を開院されました。本来康先生は、アレルギー・小児喘息の権威で、小児科専門医と聞いておりましたから、この当時まだ聞きなれなかったリハビリテーションを目的とした病院の設立に不思議な感じを抱いたものです。先生が適寿病院の経営に専念されるようになりますと、土陽会の事務局も適寿病院に移り、一時は専任の中尾事務長を自前でおかれるなど、会の運営全般をご指導していただきました。
その間、平成7年阪神淡路大震災を大奮闘でのりきられた平成12年5月21日の70周年記念総会で、会長を須藤淳元神戸外国語大学学長に譲られ、名誉会長となられました。この一連の推移を土陽会サイドからのみ見ていた私には、なにも会長を代わられる必要は無いんじゃないかと内心おもっておりました。しかし、本日この20年の適寿病院の沿革と取り組みの講演を拝聴し、先生のご挨拶を伺ううちに、開院当初、診療報酬の対象とならない、REHABIRI治療を、無報酬で7年間も続けられたことや、REHABIRIそのものが、ほかの診療科目のようにDOCTOR1人に頼ってできるものではなく、理学療養士を中心に、病院スタッフ全員が一団のチームとなって取り組まねば到底できるものでなないこと。それには、さまざまな現場研修と、海外からの先進知識の取り入れ等、若いスタッフの士気と連帯を高めてゆく作業の継続がかかせないことを知り、その実行に邁進された20年であったことを知りました。そんな凄まじい精進の中で、よくも土陽会のお世話まで頂いたことかと、理解のなかって身の不明を恥じたことです。会は先生のご長男。敦専務理事のご挨拶でお開きとなりましたが、医師であり、厚生省の技官として海外へ派遣されていたご子息の立派なご挨拶を聞くにつけ、この記念会は、適先生の20年の大成果の仕上げで、専務理事へのバトンタッチの宣言にさえ聞こえてきたわけです。そうであるなら、ここは一番、土陽会の大政を奉還して、再度先生のご指導を受けられないものかと、次の考えに及ぶ私めに御座います。あと2年で80周年となりますからー。

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img265b.jpg手元に資料として有るのは、淡水サッカー創立35周年号(昭和40年・1965年)・1部復帰祈念特別号(昭和48年・1973年)・田中博先生追悼記念特集号(昭和51年・1976年3月)・創部50年記念特集号(昭和55年・1980年)の4冊子であります。このブログを始めたばかりに、7月12日のOB総会に出席する際、確かめたい事が沢山できました。その最新の50年記念特集号を見ますと、この当時、会長は高商16回三浦和夫氏でご挨拶が冒頭をかざっています。そして部の状態は、この記念号を刊行した頃。正確には昭和44年執念の2部復帰から昭和53年まで9年間にわたる2部暮らしで、昭和54年に3部に落ちた直後、まだ2部のPLAYを忘れないうちに2部復帰しようと躍起になっていた頃から、その甲斐も無く、長い3部暮らしが始まっています。そのどん底の時代の会長を引き受けられたのが学部4回木下健氏・通称ケンタンであります。ケンタンは私が入部した頃にはもう、再々グランドに現れてご指導いただいていましたが、神戸・三宮の三富商店御曹司とあって、現役はもちろんのこと、OB会のお世話も、色々とされ、実質会長の役割を果たしておられたものです。その当時、通例6月の総会が近づいてきますと、ケンタンから「また総会でっせ」と電話が入る。三宮駅前・新聞会館8階の金龍閣(ダイエー中内功氏弟の中内力・シンエイフーズ社長経営)での総会には4回生主将他を招いてOB10-20名が参集して執り行われる。私は必ず参加してご挨拶・スピーチをさせられるのが恒例の10余年を過しておりました。その様子が変わったのが、平成4年の総会前。突然次期会長をお前頼むとのお話がありました。この会長役は代々自営又は経営者の方が引き受けておられて、会社勤めのOBは、なにかと時間の都合がつかないことから、そんな具合になってしまったもんでしょう。勿論財力も無くては勤まりません。そして、当の私は自分のバブルでふらふらながら、なんとか商売の間口を狭めて一息ついたところでとてもそんな余裕をかましてはおれません。しかし、ケンタンが会長を変わりたいと仰るのは、余程のことで、その心中たるや、監督時代から通算40年もお世話されて、ほとほとお疲れになったのか、10年を越してもう誰かと交代しなければとお考えになったのか。私にとって絶対的存在であるケンタンから、ある意味命じられれば無碍な返事も出来るわけが無い。そこで、ケンタンを名誉会長に据え、私は会長といっても、ライオンズでチョットは勉強した幹事役にまわることくらいなら出来そうだと腹を決め引き受ける決意をいたしました。迎える平成5年6月の総会は当時1000万の基金を積み立てようという学部5回酒井保先輩からの提案を決議して平穏に終了しましたが、現役を呼びつけて怒ってみたところで芸がないことが気にかかりました。なにか工夫は無いかと思案するうちに、いっそ現役生全員を参加させ、新入生の紹介も十分させて、ささやかながら栄養がつくものでも食べさせるような総会はどうだろうかと吉田・濱口等回生の近いOBに相談し、平成6年の総会からは、本学にてOB戦をやり、そのご現役全員参加で商大生協ホールでの総会・懇親会を開催することに決定。なおその総会で木下先輩を終身名誉会長とする動議を提案満場一致で賛成を頂きました。


 

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神戸の街に月刊KOBECCO神戸っ子が有るように、高知にも季刊高知があります。KOBECCOを見つけては、〈連載〉神戸異人館物語・夜明けのハンターをひろいだして読むのが愉しみ。ハンターは後に日立造船の魁となった大阪鉄工所を安治川に開いたことで有名で、ハンター夫人は日本の女性で、その方の縁続きの夫人から、ハンター夫妻の長男が龍太郎という名前だったが、もしかして坂本龍馬の龍を取ったんじゃないかと訊ねられたことがあり、神戸が開港が発展しだした時代の人でもあることから関心が深まった。ただ作者・三条杜夫さんが、KOBECCOのスタイルに合わせて、綺麗に書きすぎているんじゃないかと少し不満です。一方季刊高知にも気になるコラムが有って、このコラム一つの為に、季刊高知を取っているといっても過言じゃない。それほど、風聞異説④寅彦と龍馬の因縁を読んだ時、これは土佐人でなくては書けないとある種の感動を覚えた。それがキッカケでわざわざ購読を申し込んだ。最初の印象はやはり当たっていて、続刊に掲載された、「史上最強の金子直吉」「高潔の人士・小島佑馬」「海のサムライ島村速雄」と期待どうりのラインUPと内容が続いた。その今季29号掲載が表題の「弥太郎さんの品格」。その主旨は、同じ時期に前後して成功を収めた岩崎弥太郎と渋沢栄一の後世の評価が両極端に分かれたことの原因を、後藤象二郎と組んだ政商としてのし上った「会社ノ利益ハ全ク社長ノ一身二帰シ」とする弥太郎の姿勢と、栄一の「事業活動は常に道徳にかなったものでなければならず、不正に得た富を許さなかった」姿勢の違いに帰すると述べている。ただ歴史上の皮肉と言えようか、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一が徳川慶喜の家来として仕えていたことまでの言及はない。また文中龍馬暗殺を取り上げて、津本陽氏の「僕は一番くさいのは、紀州藩の賠償金7万両を懐にしてしまった後藤象二郎と岩崎弥太郎だと思いますよ。」(「歴史に学ぶ」)を引用し、紀州藩が海援隊に支払う期日場所が暗殺前の十二月・京都であったこと。その真偽のほどはさておき、龍馬が‘運良く‘殺されたため弥太郎に大金が転がり込み、ここから三菱財閥の前身、「三菱商会」が生まれたことから、龍馬が死んで一番得したのは弥太郎だったと大胆推論している。さて真実は如何に。

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勿論、先輩連にはひたすらグランドで可愛がって貰うばかりではありません。4回生時の監督学部8回生・芝田薫先輩は当時芦屋市役所福祉事業部に属しておられ、度々グランドに現れてご指導頂いた。氏は確か入学は学部6回のはずで、2部落ちが悔しくて、2年も居残って1部復帰を目指したという逸話の持ち主であります。名ストライカーの片鱗を思わす華麗な球捌き。細い身体に似合わぬスタミナを示されてびっくりした思い出。熱することなく淡々と見守って頂いた。その監督が秋季リーグ最終戦で辛うじて勝利し、2部落ちを免れた直後、4回生皆を呼び出され、芦屋市役所近くの料理屋で慰労会を開いてくださった。期待を持てる実力でない戦力で何とか2部に踏みとどまったことを評価して、タダタダご苦労さんと声を懸けてくださった。ああもっと力を付けて置けば、もう少しましなご恩返しが出来たのではと悔いたところで後の祭り。その後健康を害されたとか、如何しておられる事だろうか。・・・
終身ヘッドコーチ・学部1回生・殿村和祥氏には、それこそ一方ならぬお世話を頂いた。氏はそのころ、大阪ガス本社の研修課長というバリバリのエリート。なおかつ大阪ガスサッカー部の監督でもありました。尼崎の大ガスグランドでの大阪ガスとの練習試合の厳しさは半端じゃなかった。なにしろ、試合後の死のランニングを逃れるためには、そこそこの点差で勝たないと、UPのお許しが出ない。おまけに我らがGOAL裏に陣取って、相手シュートを思わず避けたりしようものなら、後でどうなることやら、顔面直撃も厭わず、身体ごとボール目掛けて突進するしか道は無い。・・そんな殿さんから、一度会社へ来いとの呼び出しを頂いた。退社頃を見計らって梅田の屋上ビアガーデンに連れていかれた。『大阪ガスを受けて見ないか』とのお誘いでありました。勿論入社即サッカー部入部であります。しかし、このお誘いは嬉しかったね。試験は重役面接のみだが、5人ほど集まった面子が東大・京大生ばかりで体育会系は私だけ。幹部候補生の選抜テストであったようで、結果はOUT。せっかく声を懸けていただいて不甲斐ない結果となってしまった。どこまでも期待に背き続けたほろ苦い思い出となっております。・・後年になって、殿村先輩曰く『あの時、ガスに来なくて、結果よかったんじゃないか。』といっていただいた時、なるほどガスへお世話になっておれば、きっと又違ったお世話をかけたに違いないと、その結果オーライに1人頷くことでした。

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自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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