書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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梅雨明けの真っ青な晴天の下、G47-52回の精鋭で編成されたOBチームと現役とのマッチ。20分3本で開始。
OBの中には、去年ザンザンぶりのOB戦でぺナルティキックを得て生涯初めてのゴールを決めたG28回足立紘一の姿もまぎれていた。御年56歳なり。
グランドには可愛いファミリーも応援に駆け付け、パパの健闘を見守る姿も。
例年の総会風景なのだが、実は創部80年の節目の年。
盛大な総会となるところを、この秋、念願の2部復帰誓願成就目前の状況から、盛大な80周年記念はその祝勝会にとっておこうとなったわけ。
新人1回生も10人入部。いよいよポジション争いも激しくなり、1-2年主体の若々しいパワーが溢れる。
岡本・殿村・木下のスリートップのうち、殿村終身ヘッドコーチが体調を崩されお顔が見えなかった。
少し、気の早い所業ながら、段取り良く励ましの寄せ書きを出席者全員で作成した。
入院の軽重を確かめて、ほんの軽いものならお届けするのは控えておきましょう。
早々届けて俺を早く殺す気かと一喝されてもなんだし。
出席OBのスピーチと、現役全員の自己紹介と自己PR。.もう何時ものことだが一年ごとの成長を確かめるのも楽しみの一つ。
ツクヅク良いOBになっちゃった自分の姿にまたビックリ。
後列 左から 橋本・部坂・松梨・池田・金月・武内・新田・村田
前列 左から 小林・小松・山崎・岡・足立
ファミリー参加も2組
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その半生を附属中に捧げられた副校長中島幸男先生は引退され姫路市飾西にお住まいでありましたが、中学を住吉に統合する案には反対の意見を持っておられた。
そもそも明石附属小学校は1904年兵庫県明石女子師範学校附属小学校として開校しており、中学は昭和22年になって義務教育とされ、中学が開校された。
その母体たる明石女子師範をもって発足したともいえる神戸大学教育学部の本流は我々だという矜持を持っておられた中島副校長の、統合するにしても、明石に近いところで場所を探したいとの念願があった。
実際、バブル全盛の時には山下町の本校敷地を売却し、神戸市西区当たりで移転地探された事実があります。
3-4年前、その中島副校長を飾西のお宅にお尋ねし、西区の具体的物件をhご案内したことがあります。
先生は私の事を覚えていて下さり、さんよう喫茶の津野君かと懐かしんで下さった。
そして、なおこの物件を以て明石近辺での移転先探しを頼むと仰り、附属中OBである西村衆議院議員に交渉するようにとの特命を仰せつかったものです。
実際、急遽レポートを作成し、中島副校長の御意見として西村議員に提出した。
残念ながら、統合は可及的速やかに進み、明石近辺での移転は叶えられることはありませんでした。
今にし思えば先生最晩年にお会いでき、そのご意志の一端に触れたことを持って身の幸いと銘しております。
かくしてOB会であるユーカリ会も60周年を迎えると同時に附属中学が閉校となります。
その節目の総会を9月16日舞子ビラで開催の案内。同時に学年の同窓会を開こうとの案内が米沢淑介氏から届いた。
ここはやはり顔を出して最後の締めくくりとすべきでしょう。
手許にある『附属中学30年のあゆみ』という記念誌の中で、音楽教師・神谷好先生、川端敏夫先生が我々津野兄弟の事を特に名前を挙げて懐かしんで下さった。
もしかして、何がしかの感慨が得られるかもしれないとの期待があります。
それにしても、出身中学が無くなり、神戸商科大学が兵庫県立大学神戸と名を変えた。
小学、高校を含めて巡り合った恩師の面影だけは忘れる事はない。
そもそも明石附属小学校は1904年兵庫県明石女子師範学校附属小学校として開校しており、中学は昭和22年になって義務教育とされ、中学が開校された。
その母体たる明石女子師範をもって発足したともいえる神戸大学教育学部の本流は我々だという矜持を持っておられた中島副校長の、統合するにしても、明石に近いところで場所を探したいとの念願があった。
実際、バブル全盛の時には山下町の本校敷地を売却し、神戸市西区当たりで移転地探された事実があります。
3-4年前、その中島副校長を飾西のお宅にお尋ねし、西区の具体的物件をhご案内したことがあります。
先生は私の事を覚えていて下さり、さんよう喫茶の津野君かと懐かしんで下さった。
そして、なおこの物件を以て明石近辺での移転先探しを頼むと仰り、附属中OBである西村衆議院議員に交渉するようにとの特命を仰せつかったものです。
実際、急遽レポートを作成し、中島副校長の御意見として西村議員に提出した。
残念ながら、統合は可及的速やかに進み、明石近辺での移転は叶えられることはありませんでした。
今にし思えば先生最晩年にお会いでき、そのご意志の一端に触れたことを持って身の幸いと銘しております。
かくしてOB会であるユーカリ会も60周年を迎えると同時に附属中学が閉校となります。
その節目の総会を9月16日舞子ビラで開催の案内。同時に学年の同窓会を開こうとの案内が米沢淑介氏から届いた。
ここはやはり顔を出して最後の締めくくりとすべきでしょう。
手許にある『附属中学30年のあゆみ』という記念誌の中で、音楽教師・神谷好先生、川端敏夫先生が我々津野兄弟の事を特に名前を挙げて懐かしんで下さった。
もしかして、何がしかの感慨が得られるかもしれないとの期待があります。
それにしても、出身中学が無くなり、神戸商科大学が兵庫県立大学神戸と名を変えた。
小学、高校を含めて巡り合った恩師の面影だけは忘れる事はない。
明石の街で附属へ行ってますと言えばちょっとしたステータスで、私が小学生の頃の附属と言ったら完全なお坊ちゃんお譲さま学校で、未だに喫茶店・水商売の我々兄妹3人が揃って入学できたのが信じられない。
どうやら、いろいろと裏があったようで、走り回った親父の苦労も大変だったんだ。
しかし、場所を間違って入学させられた私にとっては大迷惑。まあ小学5年くらいまでは、確実に独自の道を歩んでおりました。ところが、4年生の運動会予行演習の昼休み、校舎の3階屋上から階段の手すりの合間を見事に墜落。前頭部・おでこを強打しながらも一命を取り留めて以来、学業はみるみるUP。
卒業写真を見るにキリリと顔付きさえもひきしまっている。
そのまんま進んだのが神戸大学教育学部付属明石中学校。小中と教育学部の実習の場。一年を通じて教生先生がひっきりなしに入れ替わって担任の補助をする。
小学校からのエレベーター組と中学からの入学組半々の学級構成。世間の荒波も知らずあどけない中学生活。
高校受験間際になって附中での勉強だけではとてもじゃないが通用しないことが判明。
それでも何を勘違いしたのか親父は灘高校を受けろと言う。
なにせ長男は特攻隊のようで、無理やり突撃してあえなく自爆。それでも明石高校は悠悠滑り止めだ。
そんな思い出しかない中学が、住吉に統合されるらしいと耳に入ったのがもう3-4年も前。
校庭の手狭なことと、いまさらながら中高一貫を目指すためには、明石を閉鎖して住吉に集約するしかないとの結論だ。
どうやら、いろいろと裏があったようで、走り回った親父の苦労も大変だったんだ。
しかし、場所を間違って入学させられた私にとっては大迷惑。まあ小学5年くらいまでは、確実に独自の道を歩んでおりました。ところが、4年生の運動会予行演習の昼休み、校舎の3階屋上から階段の手すりの合間を見事に墜落。前頭部・おでこを強打しながらも一命を取り留めて以来、学業はみるみるUP。
卒業写真を見るにキリリと顔付きさえもひきしまっている。
そのまんま進んだのが神戸大学教育学部付属明石中学校。小中と教育学部の実習の場。一年を通じて教生先生がひっきりなしに入れ替わって担任の補助をする。
小学校からのエレベーター組と中学からの入学組半々の学級構成。世間の荒波も知らずあどけない中学生活。
高校受験間際になって附中での勉強だけではとてもじゃないが通用しないことが判明。
それでも何を勘違いしたのか親父は灘高校を受けろと言う。
なにせ長男は特攻隊のようで、無理やり突撃してあえなく自爆。それでも明石高校は悠悠滑り止めだ。
そんな思い出しかない中学が、住吉に統合されるらしいと耳に入ったのがもう3-4年も前。
校庭の手狭なことと、いまさらながら中高一貫を目指すためには、明石を閉鎖して住吉に集約するしかないとの結論だ。
上記した3つのお題目。世の中の情勢を分析する上で金科玉条の如く崇められる社会リサーチツール。
菅政権への支持率の如き、うまうまとマスメディア誘導に従って、思うつぼの上がったり下がったり。
ところで、私自身この手の調査なるものに巡り合った試しがありません。
参院選挙にしても投票締め切りと同時に出口調査の結果を元にして、早々と当確が打たれる。
その出口調査なるものが我が投票所・魚住の保育園に来たことは多分ありません。
民主主義・多数決の原理に振り回されて、明らかに其れは違うだろうという方向に我が国は突っ込んでゆく。
なぜ公平公正な世の中ではダメなんだろう。
似非平等主義が蔓延り、運動会の走りっこでも手を繋いでゴールし、全員一位になるんだって。
このややこしい社会に身を投じる若者に絶対必要な重要事項説明もありはしない。
身すぎ世過ぎの術に長けた一族は、一門殆どが教員か公務員を目指す。
その他の相伝の知恵のない我々は何の保証もない自営業で頑張るしか方法が残されていない。
税にしても節税とかで色々手を使って申告して初めて軽減が図れる。
間違ってもお上からこんな方法もあるんですよとの助言などあった試し無し。
なぜ、その事に通じた者しか恩恵が受けられないのか。
公平公正に恩恵が全てに等しく分け与えられないのか。
今の若者はすでに去勢された羊の群れの如く、この世の中の矛盾に怒りを感じなくされている。
新卒学生3万人に職が無い事や、年金の不具合から年長者に彼らの富を収奪されていることや、1000兆の国債残高がすぐ目の前にあることや、タダ同然の利息で己の利益と給料だけはしっかり確保して恥じない大銀行の頭取の厚顔無恥さも、今の若者に火を付けるには至らない。
税の分捕り合戦が即ち政治であるとの暴挙が何時まで許され放置されるのか。
この日本ほどおてもり・人ごと・先送りがまかり通っている国はありません。
かくなれば、北朝鮮に暴発願って、この国の国体も劇的に変更を受ける状況になるのも止むをえません。
その瀬戸際、きっと国を守るために立ち上がる人々が現れるはず。
その僥倖を祈るのみなるか。
菅政権への支持率の如き、うまうまとマスメディア誘導に従って、思うつぼの上がったり下がったり。
ところで、私自身この手の調査なるものに巡り合った試しがありません。
参院選挙にしても投票締め切りと同時に出口調査の結果を元にして、早々と当確が打たれる。
その出口調査なるものが我が投票所・魚住の保育園に来たことは多分ありません。
民主主義・多数決の原理に振り回されて、明らかに其れは違うだろうという方向に我が国は突っ込んでゆく。
なぜ公平公正な世の中ではダメなんだろう。
似非平等主義が蔓延り、運動会の走りっこでも手を繋いでゴールし、全員一位になるんだって。
このややこしい社会に身を投じる若者に絶対必要な重要事項説明もありはしない。
身すぎ世過ぎの術に長けた一族は、一門殆どが教員か公務員を目指す。
その他の相伝の知恵のない我々は何の保証もない自営業で頑張るしか方法が残されていない。
税にしても節税とかで色々手を使って申告して初めて軽減が図れる。
間違ってもお上からこんな方法もあるんですよとの助言などあった試し無し。
なぜ、その事に通じた者しか恩恵が受けられないのか。
公平公正に恩恵が全てに等しく分け与えられないのか。
今の若者はすでに去勢された羊の群れの如く、この世の中の矛盾に怒りを感じなくされている。
新卒学生3万人に職が無い事や、年金の不具合から年長者に彼らの富を収奪されていることや、1000兆の国債残高がすぐ目の前にあることや、タダ同然の利息で己の利益と給料だけはしっかり確保して恥じない大銀行の頭取の厚顔無恥さも、今の若者に火を付けるには至らない。
税の分捕り合戦が即ち政治であるとの暴挙が何時まで許され放置されるのか。
この日本ほどおてもり・人ごと・先送りがまかり通っている国はありません。
かくなれば、北朝鮮に暴発願って、この国の国体も劇的に変更を受ける状況になるのも止むをえません。
その瀬戸際、きっと国を守るために立ち上がる人々が現れるはず。
その僥倖を祈るのみなるか。
今朝の日経に中岡慎太郎の笑顔の原板発見のニュースがあった。
そういえば幕末の古写真いろいろあれど、笑顔で写っている写真は殆どと言っていいぐらい見かけた事がない。
その中で、慎太郎のこの笑顔は実に自然で気取りなど一切ありません。
日本最初の笑顔写真と言われているのも頷ける。
保管していたのは富山市の御仁(80)。慎太郎が下宿していた京都の書店「菊屋」経営者の五男にあたる峰吉の子孫。峰吉の死後、妻キンの遺品として代々受け継いできたという。
原板は縦約8センチ、横約10センチで龍馬とともに暗殺されるちょうど一年前の1866年11月に京都の祇園で撮影されたもの。
一緒に写っている女性らしき人物はなぜか削り取られたり、塗りつぶされたりしている。
削り取られた人物については色々想像を掻き立てられるが、この笑顔からはそんなに難しい相手には見えない。
あるいは、少し鼻の下を伸ばしている感じもする。
幕末回天の志士・中岡慎太郎といえども男でござる。
その後の調査結果。
写真は京都保利兵衛の写場での写真で、当時お客に婦人を一緒に写すと言うアイデアで繁盛した写真館でのものと判明。武士は3年に片頬(笑うのは3年に一度、それも片方の頬だけで笑え)の時代、一時の慎太郎の安らぎを写し取ったものに変わらない。

そういえば幕末の古写真いろいろあれど、笑顔で写っている写真は殆どと言っていいぐらい見かけた事がない。
その中で、慎太郎のこの笑顔は実に自然で気取りなど一切ありません。
日本最初の笑顔写真と言われているのも頷ける。
保管していたのは富山市の御仁(80)。慎太郎が下宿していた京都の書店「菊屋」経営者の五男にあたる峰吉の子孫。峰吉の死後、妻キンの遺品として代々受け継いできたという。
原板は縦約8センチ、横約10センチで龍馬とともに暗殺されるちょうど一年前の1866年11月に京都の祇園で撮影されたもの。
一緒に写っている女性らしき人物はなぜか削り取られたり、塗りつぶされたりしている。
削り取られた人物については色々想像を掻き立てられるが、この笑顔からはそんなに難しい相手には見えない。
あるいは、少し鼻の下を伸ばしている感じもする。
幕末回天の志士・中岡慎太郎といえども男でござる。
その後の調査結果。
写真は京都保利兵衛の写場での写真で、当時お客に婦人を一緒に写すと言うアイデアで繁盛した写真館でのものと判明。武士は3年に片頬(笑うのは3年に一度、それも片方の頬だけで笑え)の時代、一時の慎太郎の安らぎを写し取ったものに変わらない。
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企業向不動産仲介・企業立地
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ふるさと高知と龍馬をこよなく愛し、元気に活動中。
永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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