書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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昨日頂いた龍馬検定・神戸編の解答を答え合わせした。
まず最初の25問、出足好調で25点。そして次の25問も25点。
あれ何時もと様子が違うなと思いだし、座り直して次の25問。
もしかして正解シートを2枚並べているんではと見直すが、見まごうことなく、佐々木康之氏の答案用紙だ。
そして、最期の難関。25問も一気に25点。
まさかの満点が出ましたよ。
検定実施の直後、高知新聞に「難しいぜよ」とのタイトルで紹介記事が出たくらい、この検定は歯ごたえがあるはずが、あっさりとクリヤーされちゃった。「おんしは龍馬検定のボルトさんかよ」と合いの手を入れたことでした。
まずは、まさかの満点が出たことをお知らせいたします。彼こそ免許皆伝の第1号の栄誉に相応しい。
まず最初の25問、出足好調で25点。そして次の25問も25点。
あれ何時もと様子が違うなと思いだし、座り直して次の25問。
もしかして正解シートを2枚並べているんではと見直すが、見まごうことなく、佐々木康之氏の答案用紙だ。
そして、最期の難関。25問も一気に25点。
まさかの満点が出ましたよ。
検定実施の直後、高知新聞に「難しいぜよ」とのタイトルで紹介記事が出たくらい、この検定は歯ごたえがあるはずが、あっさりとクリヤーされちゃった。「おんしは龍馬検定のボルトさんかよ」と合いの手を入れたことでした。
まずは、まさかの満点が出たことをお知らせいたします。彼こそ免許皆伝の第1号の栄誉に相応しい。
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本家の跡を継いだ次兄のおんちゃんが、新しく津野代々の墓を建立したとかで、黒御影の立派な墓さんができておりました。
叔母はまるで爺さんそっくりで、親父は婆さんそっくり。まるでじじばばが入れ替わったようだと皆が口を揃える。
碌に家に居なかったのに9人もの子が出来て、その面倒をほとんど婆さん一人がひっ構えてやり遂げた。
まだ、長兄がなかなかの出来物で、土佐中を卒業して(まだ家が豊だったころか)満鉄関連の会社で出世して青島で活躍していて、かなりの援助をしたものらしい。お爺代わりで、お爺より怖かったと親父も言っておりました。
この婆さんが生前の口癖が「死んでも痛いき焼いてくれるなと爺さんと同じ墓には入りたくない」だった。
このことを自身の娘にだけ話していたようで、さて葬儀となって、娘や孫娘達が口を揃えて、焼いてくれるなと懇願したところが、次兄は俺は聞いてないと、このことを一蹴。さぞやおばやんは痛かったろうという話になった。
爺さんと同じ墓に入りたくないとの願いは、次兄もさもあらんと思ったか、別々の墓さんが建っておりました。
場所を道の駅「かううその里すさき」に換えて、集まってくれた従姉妹連との昔話が弾む。
なかでも上分の叔母(長女)が我が一家が訪ねた際に大きな声で「伸ちゃん、やったもんぜよ」と言った一言が今でも耳に残っていると話すと、叔母の娘3人が涙ぐむ始末。
どうしても 懐かしさと涙のついて回るメモリアル・ジャーニー。
行って良かった なあ親父。
関ヶ原の合戦が慶長5年9月15日、親忠の自栽が9月29日。この間2週間、今更ながらその素早さに驚かされる。
盛親は兄殺しを咎められての改易といわれるが、関ヶ原戦勝に伴う報償に頭が痛かった家康にとっては、持っての幸いであったことだろう。また念願の島津封じ込めの布石として土佐に有力な大名を味方として配置することは地勢上も重要課題であった。まさに山内一豊転封は最上の一手で、幕末大政奉還まで徳川恩顧は260年効用を表した。誠に家康は凄い。
一方、また逆のことも考えられる。
慶長6年山内一豊浦戸城入城以来、家臣団は山内家臣の上士と長宗我部旧臣を主とする郷士の2層に厳格に格付けされ、この状況は260年続いた。
このことが郷士階級の憤懣と鬱憤を招き、260年にわたって積もりに積もり、土佐に突出して、幕末倉莽の士が出現した事に繋がつた。
この意味で親忠自栽と土佐勤皇党は繋がっていると言えるのでは。
司馬遼太郎先生も土佐が好きで、元親・盛親を題材として「夏草の賦」・「戦雲の夢」を描かれたが、津野親忠については軽く触れられているだけで、私としては誠に不満に思っているところです。
歴史上のイフではないけれど、もしも親忠の死がなければ、土佐一国を取り上げられるという事態はおこらなっかたろうし、長宗我部郷士としての圧迫を受ける事態にもならなかったろう。
歴史の流れからして、幕末維新は避けがたいことながら、土佐の多数の若者が、すり鉢で擂り潰されるような格好で命を取られることにはなら無かったのではと考える。
まさに、日本の史上の重大なターニングポイントとして津野親忠の事はもっと記憶されるべきと、自称末裔は憤りを覚えるわけであります。
盛親は兄殺しを咎められての改易といわれるが、関ヶ原戦勝に伴う報償に頭が痛かった家康にとっては、持っての幸いであったことだろう。また念願の島津封じ込めの布石として土佐に有力な大名を味方として配置することは地勢上も重要課題であった。まさに山内一豊転封は最上の一手で、幕末大政奉還まで徳川恩顧は260年効用を表した。誠に家康は凄い。
一方、また逆のことも考えられる。
慶長6年山内一豊浦戸城入城以来、家臣団は山内家臣の上士と長宗我部旧臣を主とする郷士の2層に厳格に格付けされ、この状況は260年続いた。
このことが郷士階級の憤懣と鬱憤を招き、260年にわたって積もりに積もり、土佐に突出して、幕末倉莽の士が出現した事に繋がつた。
この意味で親忠自栽と土佐勤皇党は繋がっていると言えるのでは。
司馬遼太郎先生も土佐が好きで、元親・盛親を題材として「夏草の賦」・「戦雲の夢」を描かれたが、津野親忠については軽く触れられているだけで、私としては誠に不満に思っているところです。
歴史上のイフではないけれど、もしも親忠の死がなければ、土佐一国を取り上げられるという事態はおこらなっかたろうし、長宗我部郷士としての圧迫を受ける事態にもならなかったろう。
歴史の流れからして、幕末維新は避けがたいことながら、土佐の多数の若者が、すり鉢で擂り潰されるような格好で命を取られることにはなら無かったのではと考える。
まさに、日本の史上の重大なターニングポイントとして津野親忠の事はもっと記憶されるべきと、自称末裔は憤りを覚えるわけであります。
盛親が知ってか、知らずか押し寄せた軍勢が霊厳寺(のち孝山寺)を囲んだ時、親忠は碁を打っている最中だったと伝えられている。
家臣のものが、おめおめ討たれるより、一戦に及ばんとの進言をそれには及ばずと退け、そのまま悠然と碁を打ち終えて後、自若として切腹・自害して果てたという。亨年29歳。その命日9月29日には親忠を慕い惜しんでの孝山祭が津野の領内のそこここで今に伝えられています。
また、梼原に残る旅人をもてなす茶堂もその名残と言われています。
この一件はすぐさま津野の一族である中平精兵衛から藤堂高虎へと伝えられ、高虎はこれを家康に言上した。
関ヶ原での不戦組は、他にも毛利・島津があり、その方の戦後裁定は領地の一部召上げ止まりで、このあと盛親に下された改易という厳しい処分の理由として、この兄殺しがあったとされている。
家康はあの元親の息子にあるまじき所業として、即時うち首とまで断じたが、井伊直政の執り成しもあって、身一つでの解き放ちとなった。以後 盛親は大岩祐夢と称し、寺小屋の先生などしながら、京の片隅に身を置いた。
もちろん幕府方の厳しい監視のもとに。
その彼が、大阪冬・夏の陣前に長宗我部軍の首領として大坂城に乗り込み、最期の一戦を試みたことは皆様ご存じのとおり。その軍勢6000と伝わっています。
家臣のものが、おめおめ討たれるより、一戦に及ばんとの進言をそれには及ばずと退け、そのまま悠然と碁を打ち終えて後、自若として切腹・自害して果てたという。亨年29歳。その命日9月29日には親忠を慕い惜しんでの孝山祭が津野の領内のそこここで今に伝えられています。
また、梼原に残る旅人をもてなす茶堂もその名残と言われています。
この一件はすぐさま津野の一族である中平精兵衛から藤堂高虎へと伝えられ、高虎はこれを家康に言上した。
関ヶ原での不戦組は、他にも毛利・島津があり、その方の戦後裁定は領地の一部召上げ止まりで、このあと盛親に下された改易という厳しい処分の理由として、この兄殺しがあったとされている。
家康はあの元親の息子にあるまじき所業として、即時うち首とまで断じたが、井伊直政の執り成しもあって、身一つでの解き放ちとなった。以後 盛親は大岩祐夢と称し、寺小屋の先生などしながら、京の片隅に身を置いた。
もちろん幕府方の厳しい監視のもとに。
その彼が、大阪冬・夏の陣前に長宗我部軍の首領として大坂城に乗り込み、最期の一戦を試みたことは皆様ご存じのとおり。その軍勢6000と伝わっています。
長宗我部元親が人変わりしたのは、秀吉に命じられた島津征伐にでかけた戸次川の合戦で、長男・信親を戦死させてからだといわれる。
この信親の死後、早速家督争いが持ち上がる。この時、元親は二男・香川親和、三男・津野親忠を飛び越えて四男・盛親を後継ぎに選んだ。それも信親の娘を盛親に嫁がすまでして。
結果、二男親和は憤死、三男・津野親忠は香美郡岩村に幽閉されてしまった。
この際の、元親による盛親承継反対派の粛清は凄まじいものだった。
多くの重臣を失った事もあって、盛親はその後、謀臣・久武親直にその判断を左右されていくことになる。
さて、関ヶ原の際、元親と家康の繋がりからいえば、当然家康に味方する立場にありました。事実、お味方するとの密使を多数発したが、ことごとく石田三成配下の長束勢に捕らえられてしまい、その意を伝えられなかった。
仕方なく西軍の一員となった盛親は6600の軍勢を率いていたといわれる。その盛親はよせばいいのに、緒戦伏見城攻略戦に、毛利秀元・吉川広家・小西行長・長束正家ら4万の軍勢で伏見城をせめて、家康の宿将・鳥居元忠を自害に追い込んでいる。
肝心の関ヶ原では、まったく戦意を見せず、戦場を逃げるようにして、土佐まで帰ってしまった。
さて、東軍家康の勝利となって、逃げ帰った盛親も、家康のもとへ許しを請いに行かねばならぬとなった時、謀臣・久武親直が「津野親忠公が藤堂高虎を通じ、家康に話をつけて、土佐半国を拝領する仕儀になっている。」
と囁いた。これに盛親は兄を亡きものにしてまで自分が生き残ろうとは思わないと断じるが、結果は、親忠を岩村・考山寺に囲み、自害に追い込んでしまった。
この信親の死後、早速家督争いが持ち上がる。この時、元親は二男・香川親和、三男・津野親忠を飛び越えて四男・盛親を後継ぎに選んだ。それも信親の娘を盛親に嫁がすまでして。
結果、二男親和は憤死、三男・津野親忠は香美郡岩村に幽閉されてしまった。
この際の、元親による盛親承継反対派の粛清は凄まじいものだった。
多くの重臣を失った事もあって、盛親はその後、謀臣・久武親直にその判断を左右されていくことになる。
さて、関ヶ原の際、元親と家康の繋がりからいえば、当然家康に味方する立場にありました。事実、お味方するとの密使を多数発したが、ことごとく石田三成配下の長束勢に捕らえられてしまい、その意を伝えられなかった。
仕方なく西軍の一員となった盛親は6600の軍勢を率いていたといわれる。その盛親はよせばいいのに、緒戦伏見城攻略戦に、毛利秀元・吉川広家・小西行長・長束正家ら4万の軍勢で伏見城をせめて、家康の宿将・鳥居元忠を自害に追い込んでいる。
肝心の関ヶ原では、まったく戦意を見せず、戦場を逃げるようにして、土佐まで帰ってしまった。
さて、東軍家康の勝利となって、逃げ帰った盛親も、家康のもとへ許しを請いに行かねばならぬとなった時、謀臣・久武親直が「津野親忠公が藤堂高虎を通じ、家康に話をつけて、土佐半国を拝領する仕儀になっている。」
と囁いた。これに盛親は兄を亡きものにしてまで自分が生き残ろうとは思わないと断じるが、結果は、親忠を岩村・考山寺に囲み、自害に追い込んでしまった。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
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