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その申しつけは龍馬さんを語れとのこと。かねてより、私が龍馬検定・神戸編に夢中になっていたことを知ってのこと。時間は2時間ほどの予定とか。とりあえず持参する資料を用意しなければと、萌咲さんの労作小誌「龍馬が歩いた維新神戸」と検定問題集および土居晴夫先生が講演で使われる龍馬年表を揃えた。
ところで何からお話すれば良いのか、10人ほどの面々は、昭和6年生まれのツワモノ揃い。下手なことを言えばたちまちやりこめられかねない。案の定その中でも理論家のI氏は手元に色々と資料を取りそろえて待ち受けの状態。一方私といえば、平成19年4月15日検定実施の頃であればまだ、問題作成ホヤホヤで、語り尽くせぬ程のお話で満ち満ちておりましたが、1年半近く時が過ぎての今となっては少々お話の固有名詞がスラスラでてくるか心もとない。お話を始めると案の定登場人物の名前が出てこない。傍らのK氏に聞きながら話を進める始末となった。
時間稼ぎもあって我が先祖・津野氏の事績から話を始め、長曽我部が土佐一国を見事に取り上げられた経緯とそれがもたらした260年にわたる土佐の上士と郷士の軋轢。その結果としての幕末草莽の決起にまで話を及ばす。かなりの時間稼ぎだ。・・私の心中を見透かしたのかK氏が早く龍馬さんの話に入れと目で合図を送ってくる。おもむろに検定問題に取り掛かり、ほぼ2年前、問題作成のためだけの一夜漬けのおぼろな記憶を辿って説明を始める。・・それから約一時間、いったい何を話したのかと聞かれれば、取りとめもなくとしか答えられないなか、それでも皆さんは辛抱して御付き合い下さった。
もちろん、ただ事実だけをお話すればいいわけはなくて、私自身が龍馬さんの何処に惹かれて龍馬検定をするまでのめり込んだかということ。いったい龍馬さんを語って何を伝えたいのか。いろんな思いが頭をよぎり、さぞや聞きにくい話しぶりになっていたのに違いない。胸の中にあるイメージを言葉として伝える・現す難しさを、冷や汗を掻きながら改めて感じる。私こそ龍馬甲子園を目指してもう一度勉強のやり直しが必要だ。
思いを言葉に出来なければ、伝えられなければ、何事も始まらない。
龍馬甲子園・テーマは『龍馬さんを語る』参加者年齢不問。しかし出来るだけ少年少女の多数参加を望む。
開催 2009年4月 第6回龍馬IN神戸の事業として。
我がブロクグも浮世とやらに無関心では済まされない。9月1日pm9:30福田総理の総辞職宣言でTVはどの局も臨時番組で大童。しかし安部・福田と続いての政権投げ出し。会見の表情・顔つきを拝見するだに、日本人も柔くなったもんだと感心せずにいられない。鳥羽・伏見の戦いに思いがけず敗れて、ケツに帆を掛けて江戸に逃げ帰った慶喜さんのことを笑えない。慶喜さんは長州征伐の際は、これが後の慶喜かと、見まがうほどの凄腕を発揮して、陣頭指揮をとったもんです。然し錦旗が翻ったとたんに、親父斉昭の言いつけを守ったものか、腰が砕けて、徹底抗戦の小栗もこしを」抜かすほどの逃げまくり。海舟も内心あきれながら、西郷と江戸城無血開城、徹底恭順の交渉をせざるをえなかったのでしょう。しかし、安部・福田ほどの柔ではなかった。
これを龍馬が見ていたら、一体何と評する事だろうか。慶喜公が大政奉還を決めたとの報に接し、その胸中を慮って、良くぞ決意なされたと涙した龍馬は、一方では、もし奉還なき場合は、待ち伏せして、慶喜公を襲う計画までしていたとか。平成幕末はなんと登場人物の薄っぺらなことかいな。あの石田三成は処刑に向う途中で、柿を勧められて身体に悪いと断ったという。実に大将は生きながらえなければとの、腹の据わった人物です。人間の出処進退ほどその人物の軽重を表すものはありません。それを思えば、大政奉還後の構想を幕府若年寄格永井尚志に会って大政建白書の採用を説得し、来る新政府の綱領を起草しようとしていた矢先、命を絶たれた龍馬の気概と無念を考えてみろ。しがない俺だって、自分でやらかした事業が万事窮したときは、どうして死んでこましてやろうか考えた。福田さんは、これでなにが変わるわけもなく、ぬくぬくオマンマにありつけ続けるわけであります。
こうなれば、最後の望みは、龍馬さんのことどもを、子供たちに学んでもらって、人類の危機を救うほどの人物に育ってくれることに希望をつなぐしかありません。・・そう龍馬甲子園に向おう。
そのためには、検定などやっている暇はありません。我が龍馬検定・神戸編を去年4月に実施して後、世にどれほど龍馬検定が増えたことか。それもこれまで龍馬さんを語る本家・元祖といえる団体による一斉参入となっています。霊山歴史館・幕末検定クイズ龍馬編、坂本龍馬会館プレゼンツ坂本龍馬検定、全国龍馬社中・坂本龍馬幕末歴史検定がそれです。おかげで我が郵送検定の申し込みがぷつりと止まっています。
最初龍馬検定をやろうと声を上げたときは、本気に取ってもらえなかったことを考えると、本邦一番槍の金字塔は神戸高知賢人土陽会の頭上に燦然と輝き続ける。そして大事なのは、瑣末な知識にこだわるだけではなく、
そこから何を学ぶかということ。その学んだことを発表する場として龍馬甲子園を開催しよう。
蛆虫みたいな俺だってこれぐらいの意欲と構想を持っております。若人よまず怒れ、国会議事堂を取り囲め。
そんなことを考えるうちに、前回の検定で一番感じたことは龍馬と竜馬とのイメージの食い違いであることに気がつきました。受検された殆どの人が司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」を入口とされていること。云わば司馬ワールドのイメージにドップリひたっておられ、竜馬自身の事柄・それも創作されたエピソードと事実の違いに戸惑われた様子が伺い知れたように思っています。司馬先生が語る颯爽とした英雄男児竜馬がわずか33年の、それも僅か最後の5年に圧縮された濃厚な時を過ごしたことを考えると、なにもかもを竜馬中心に見てしまう司馬節あるいは司馬史観の魅力から逃れることは容易なことではないでしょう。もっと言えば、竜馬のコスプレで満足している段階から比べると、竜馬のイメージをもって勇躍検定を受検された方には、その思いを挫くような戸惑いを与えて、悪いことをしたような気がしないでもありません。そのうえ、パートⅠでの出題形式からして、4択の解答のどれが間違っていますかという問となっており、常識的な出題形式とは違っておりました。その目的は、100問4択の選択肢のうち、少なくとも300の史実を持って帰って貰おうという誠に不遜な考えがあってのこと。この点は今になって深く反省しているところです。
「ならば、パートⅡはどうすればいいのか」という命題を昨年来考えあぐねておりましたところ、文芸春秋7月号司馬遼太郎・日本のリーダーの条件なる対談の中に、あるいはよいヒントになるかも知れない文章を見つけました。対談者のひとり吉田直哉氏(演出家・文筆家)が司馬先生とロンドンにご一緒した際、「司馬先生が幕末・明治で誰でも好きな人間を留学させられるとしてら誰を行かせますか。」と聞いたところ、即座に龍馬の名を挙げられたとある。「龍馬が海外留学していたら、どんな大物になったか分からない。」と言われたという。「ある目的をもって海外留学をした人間が良いリーダーになっている。海外に行かずに惜しいことをしたのは、西郷隆盛と龍馬だ。」とも付け加えられた。司馬先生は両者のリーダーシップをこそ、今の時代に望むべきものと考えておられたことがよくわかります。
この対談そのものは、今この御時世でのリーダー不在を嘆き、幕末・明治のリーダー出現の時代背景を探るものでありますから、龍馬さんについてこれ以上の言及は見られませんが、この一文から龍馬さんが、その時々に如何なる人物と巡り合って、リーダーシップを身につけていったのか、その過程を探る内容も検定に盛り込むべきとの考えが閃きました。・・・だけどこれってかなりの難行になるのでないかな。
船はザブンと海上へ。過ぎ行くあとには確かにスクリューの渦が。メリケン波止場を目の前にして、遊覧船の波を避けて、チャプチャプランラン約15分。もうそれでことは充分の感じ。・・はねっこ橋のスロープを揚がる際はエンジン最大出力で這い上がる。すぐに真水をホースでかけて塩気を掃除する。あとは帰港するのみですが、乗船の皆さんからは、面白かったの大合唱が沸き起こる。・・これっていったいなんだろう。
9:00には会場のメリケン波止場・スプラッシュ1発着場に到着。早速に別役さん(土陽会会員)がおいでになり、案内状を貰ってすぐ電話したけれど留守番電話で要領を獲なかった、そこで当日押しかけたとの申し出で。実は、本来ならこの船は18名定員ながら、快晴の場合のみ、後部観覧席を開放して20名定員となることを聞いておりましたので、早速手続きを取ることに。これもお天気に恵まれたからこそのこと。これで参加者は58名(内小学生2名)。9:30には第一便A組19名が勢ぞろい。船の周りではご無沙汰のご挨拶と当会お約束、女矢田龍馬をかこんでの記念撮影大会です。10:00一同乗船とあいなり、出航の後姿に思わず声を上げ、手を振っている自分に気づいた次第。この気持ちはなんなんだろう。やはり、スプラッシュは船なんだと一人納得。出船の別れは辛いものです。本日会員は小島常任理事・島本事務長・麻野理事夫妻・高橋理事夫妻・別役氏・鈴木氏・横山夫妻・矢田龍馬・我々夫婦と13名で残り45名が一般参加の皆様。しかし、第一回龍馬IN神戸・龍馬ウオーキングから始まって、第4回龍馬検定・神戸編まで、其々に参加して頂いた、お馴染みの顔が揃う。その上、神戸新聞広報を見ての方々の顔に後光が指す気持ち。まっこと驚かされたのは、本業の不動産仲介でこの2-3年お世話になりながら、私の力不足でご無沙汰を重ねている神戸のケミカルシューズ秋毎ゴム株式会社の秋山社長があったこと。電話申し込みを受けた際、同姓同名の方もいるもんだと社長の顔をおもいだしたもののご本人であったとは。社長曰く、神戸新聞でこの企画記事を見たときに、高知で津野ときたら君の事だろうとおもって申し込んだとのこと。
社長は実は我が神戸商大・現兵庫県立大・旧神戸高商の大先輩で、贔屓の引倒しを頂いていたところ。とんだところでの再会となり、今後よろしくお願いしますとあらためてのご挨拶。悪いことはできねえなー。・・・乗船記続く
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)