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 このような状態で、須崎の土民等が、有力な城主を得んとする心は、丁度干天に雨雲を望むに近いものがありました。人々は寄ると触ると、その話ばかりしている様な所に、その願いを聞いたかのように経高一行が現れた。
その様子を観察してみるに、どう見ても尋常一様の人とは思われず、天晴城主として仰ぎ奉るのに何の不足も無い。人々は『天がこの人をして、城主に降して下すった』と思い、言葉を尽くしてその願いを伝えた。
一方、その申し入れを受けた経高は、不肖の身を持っては受けがたいと再三固辞した。
然し、人々は中々承知しないどころか、終いには全員が地に伏してなお嘆願を続けた。
そこまでされてはさしもの経高もただ固辞するだけでは済まなくなって、己の身の来歴を語らねばならないようになった。
止むなく、『私は、罪を受けている者であって、この天地に身を置く所も無い日陰者で、城主となるのは天子様に対し奉り、誠に恐れ多い事であるから、その事だけは思い止まって貰いたい。逆に我々から折り入って頼みたい事があって、それは外でもなく、この土佐の国は、遠国であることから、とくに都へは船路によるしかな土地であることから、身を秘す上では好都合のところである。そこで我々は先ず床鍋に入って庵を引き結んで侘び住まいをしようと
思うから、悪しからず、国主に願って欲しい』旨を申し出た。
人々は、この話に耳を傾けていたが、一一理があるので、終いにその願いどうり、国主に頼み、床鍋にその住居を定められるよう力を尽くした。
国主も人々の願いを聞き入れこれを許したので、経高は、ここに安棲の地を得た。
かくして津野700年の基礎を定めるに至った。

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 龍馬は1862年武市半平太の書状を持って萩に行き、10日間滞在した。
この間、長州藩・有備館道場で剣術を披露、また久坂玄瑞等と接触し、在野の志士が決起すべし(草莽倔起)
との教示を受けた。
その結果、2ヶ月後の脱藩につながった。
ここまでは数ある脱藩志士の行動と変わりはない。
果たして、龍馬はどの時点で龍馬独自の路線へと舵を切ったのだろうか。
その路線変更が無ければ、この日本は一体どうなっていたことだろうか。
有備館は木造平屋建てで板間の剣術場と土間の槍術場がある。
長州藩の藩校「明倫館」の敷地内に1849年に建てられ、藩士やほかの藩の修行者が剣・槍の腕を磨いた。
龍馬も早速道場に引っ張り出されて腕を試されたに違いない。
武士・侍たるものいくら弁が立っても、最終剣術の腕が無ければ通用しない時代だ。
また、この剣術修行は藩に対して江戸・京に出て行く上での大義名分となった。
多くの若者が青雲のあるいは国を思う余り、剣術修行と称して藩を飛び出していった。
勿論、それぞれの藩ゆかりの道場で修行した訳だが、全国各地から集まった弟子同士での情報交換・情勢分析が行われ、その絆を強めていくと言う効果もあった。
云わば情報伝達のメディでもあった訳である。
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今夜は瀬戸啓二のピアノを聞いた。
前回の中山ベーストリオの際の彼を世戸啓之とすれば、今回はまさに瀬戸啓二だ。
ライブハウスの瀬戸フアンのため、かなり選曲に苦心して、スタンダード・スクリーンミュージックを中心に、我々年配にとってはお馴染みの曲が披露された。
相方のベースが違えば、かくもピアノの雰囲気が違うものかと驚かされる。
もともとは、薮内良治君のなにわJAZZ大賞受賞パーティーで聞いた、DARK EYESをEVER GREENの名残を残しての世戸編曲に新鮮ながら懐かしい感激を味わったのが発端。
明石高校OB吹奏楽団のラッパ吹きばかりの中で、こんなピアノが居たんだと言う発見に驚いた。
特に、JAZZPIANOとなれば高校8回卒の進藤悟郎氏と世戸君しか存じ上げない。
今日も施餓鬼でお会いした、OBの荻野晋一先輩から同級生の進藤悟郎氏の噂を聞いたばかりだ。
昭和12年生まれの進藤氏は特に昭和40年大阪で結成されたファインメイツの初代ピアノとして有名だ。
残念ながら氏のピアノを聞く機会には恵まれていないが、進藤氏と世戸君を応援する気持ちに違いはありません。
2度目の中山トリオでの演奏ぶりは、何とか中山ベースの要求を満たそうとして必死の演奏姿勢がアリアリの緊張漲るセッションでした。
その演奏を聞いての感想で、欲を言えば少々弾き過ぎなんじゃないかと書いたが、本人曰く付いて行くのが精いっぱいで其れどころでは無かったとか。
其れに比べれば3回目のとなる今夜は、気の置けない相方ベースとの組み合わせもあって、悠悠余裕を感じさせる演奏ぶりだった。
私が思い描くと殆ど同じ曲想でアドリブが進行して行く。テクも申し分なくその限りを尽くす。
そこで欲を言えば私めを驚かす新鮮なメロディーラインを含めたアドリブを聞かせて欲しかった。
くそ難しさではなく、素直で伸びやかなエバーグリーンなアドリブを。
シェルブールの雨傘が最後には乗り過ぎて番傘の一歩手前と感じた。
指先よりハート。激しい場面も、優しげな場面も殆ど弾く姿勢は変わらない。
もっと感情に任せた弾き方で良いんだよ。律義で腰の低い珍しいピアノなんだけど、そろそろ本性を現して世戸らしい自信漲る演奏ぶりで良いんだよ。
参照
 進藤 悟郎 ピアノ
昭和12年生まれ。
昭和31年、コンボバンドに参加、以後、色々なバンドに参加。
昭和40年、フルバンド新規結成に際しファインメイツに参加。
年一回のスクリーンポップスコンサート(於フェスティバルホ-ル)出演の他、多くのテレビ番組、ラジオの録音、ジャズコンサート等に出演した。
平成11年末にフリーとなり、その後ソロ活動を一年間行い現在に至る。
好きなアーティスト オスカー・ピーターソン、バド・パウエル、ホレス・シルバ-等
 

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丹波篠山デカンショ祭り開催のニュース。16日の4時過ぎからそれ行っちゃえとばかりに篠山を目指した。
舞鶴道無料実験中の事だし、デカンショウ祭りはまだ行ったことがありません。
篠山そのものは度々冬になるとボタン鍋が恋しくて通っております。
そう、確か兵庫県立大学だけのトーナメントがあって、確か神戸医大・姫路工大・兵庫農大・神戸商大の4校での
試合に篠山の農大グランドへ行ったのを覚えています。
その後、医学部・農学部と良いとこどりを神戸大学に許し、看護大・姫路工大・神戸商大の3校をまとめて兵庫県立大となった。
そんなことを考えながらついたのは篠山城3の丸広場。
日本一立派な盆踊りの櫓とかで、本格的な木組みで造られた櫓を取り巻いて広々としたステージまで取り付けてありました。
このステージに参加の踊り連が次々と登場し、審査の対象となるらしい。
最初は待ちの雰囲気・取り組みの熱気に打たれていたが、櫓付近以外の照明が暗くて、総踊りの迫力が今1迫って来ない。それと延々と続く同じ調子のデカンショ節もこう続けられては食傷気味となる。
それでも総踊りを祝っての打ち上げ花火が10分続いた。これは一幅の絵になる絶景なり。
人出は2日で8万人とかで阿波の1日36万人とは桁が1ケタ違った。
けれど、少々観察してみるに正調の踊りの品の良さ、そして会場の観衆・踊子の行儀の良さに感服しきり。
会場内の何処を探してもゴミの散らかりが見当たらなかった。
鳳鳴の名に恥じない品格のある土地柄を感じ入ったことでした。
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 8月15日天皇の玉音放送をもって終戦とした。何故9月2日の戦艦ミズーリー号上での降伏文書調印を以て敗戦と言わないのか。
実際は、9月2日ポツダム宣言受諾した「契約履行の詔書」を昭和天皇が発し、これにより日本政府全権の重光葵が、大本営全権の梅津美冶郎が降伏文書に調印した。
この様に敗戦を終戦と言い換え、撤退を転進と誤魔化す余りにも日本人的体質は、その後の外地戦没兵の遺骨収集に如実に表れている。
重大な過失、結果に対して決して徹底検証をしようとしない忘却大和民族は、時の支配者にとってこれ程都合の良い民草はありません。
みずくかばね・くさむすかばねがまだ114万柱も眠っていると言うのに、00方面にて戦死とだけ書かれた遺骨箱を押し抱いて有難ガたがる我々日本民族。
戦争末期、無差別爆撃を行ったB29の内、たまたま撃墜された機の搭乗員が、降下地点の民衆に袋だたきにされ惨殺の目にあった事件について、終戦後すばやくその埋葬された遺骨を掘り返し、死因を調査特定して、一体何が起ったのか執拗に追及した米軍の戦死者に対する態度との違い。これは一体何事何だ。
尊い命を捧げた兵士に対するリスペクトを無視した日本軍。その結果がいまなお114万柱が海外に眠る。
公共事業・景気対策という前に、この御柱を残らず祖国に迎えるための最大努力をするべきだ。
戦後65年、出征時母の胎内に居て父の顔を見ることが出来なかった遺児にして65―66歳。
もう時間が残されていないんです。

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