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風鈴列車、秋には鈴虫列車、冬になるとダルマストーブが社内に設置されストーブ列車となります。春は線路の両側に桜が並び立ち、今散る花びらがベールを掛けたように舞盛る。その時、線路に伝わる列車の響き。思わず線路わきまで駆け寄った目前を、黄色い車体に、緑のラインが引かれた5両連結の電車が通り過ぎてゆく。その時目に飛び込んできたのが「走れメロス号」の文字。斜陽館への立ち寄りを断念した私を慰めるかのように、その文字を記した電車はスピードを増して、五所川原方面に走り去ってゆく。「走れメロス」の話はあまり好きになれなかったけれど、人間長い距離を走る間に、さまざま、いろんなことを考えながら走るんだとの点では実感を共有できたものです。サッカーの練習のUP時の鬼の先輩が発するもう何度目か分からない最後の一本の掛声を聞きながら、頭の中はいろんなことを考えていたもんです。
東北自動車道ー高速浪岡ICをおりて101号線を五所川原市に向かう。つきあたり、左右振り分けの道路の正面に「立ネブタの館」の大看板が見える。そうか、ここ青森といえばねぶただ。五所川原立ね
ぶた祭りは「青森のねぶた」と「弘前のねぶた」と並ぶ青森三大ねぶたの一つで、高さが最大で20メートルを超える山車の壮大な運行が魅力となっている。前々からの憧れの的。東北の紅葉とねぶたは必見ものだ。必ず来るぞと心に誓う目前。岩木山を見上げる。「別称津軽富士。青森県西部にある休火山で鳥海火山帯に属す。標高1625m。山体は円錐形で山頂部は中央の岩木山、北の厳鬼山、南の鳥海山の3峰からなり、津軽平野に富士ににた姿でそびえる。古くから霊山として農民の信仰を集めた。南麓に岩木神社があり、江戸時代からお山参拝の行事がある。」水山ガイドさんの流れるような説明を耳にしながら、岩木山・津軽富士とくれば思い浮かべないわけにはいかない人物・太宰治に思いは遊ぶ。そう大学浪人している最中。大道予備校での受験勉強をほったらかして全日本文学全集を読みあさるうちに、太宰治にはまっちゃった。太宰の影響は凄いの一言。「女生徒」じゃあるまいし、書く文体まで太宰そっくりになってしまう。彼独特の言い回しを真似て、お伽噺作りに熱中した。弘子ちゃんに出した手紙も今みれば、読めたもんじゃない。太宰調そのもの。しかしあの頃はそれで真剣そのものだったんですよ。「生まれてきてすみません」の心境。「走れメロス」の世界に共感。そんな文学的麻疹ともいえる凝り固まりから抜け出したのは、神戸商大に入学し、それもサッカー部へ入部。それこそなまった身体をグランドで鍛え直し始めたころだろうか。またまた話は遡るけど、小学校時代、不思議と付属小での校内大会競技はサッカーでした。それこそ占領下、野球全盛の時代どうしたことか。あとで分かったことは、体育の吉井先生が兵庫県国体サッカーの補欠だったらしく。無理やり、自分の得意とするサッカーを教えようとしたことからだそうな。けれどそのお陰で、私は名センターフォワード・エースストライカーの名前をほしいままにするほど巧かった。と自分では未だに思っている。そんな経験を思い出して、商大に吹奏楽部がなかったことから、サッカー部に飛び込むこととなりにけり。
桂月先生の遺徳を偲びつつ、奥入瀬を抜け、弘前城の桜を目指す途中、五所川原市の芦野公園の桜まつりに立ち寄る。道中、バスはあの八甲田山を越えるという。かの名高い「死の雪中行軍」・八甲田
越えである。私の中では、八甲田は八甲田山という単独の岳が聳え立つているというイメージでいたところが、名ガイド・会津若松の士族のながれを誇る水山さんの、「八甲田とは、那須火山帯の中の、八甲田火山群地域を八甲田連峰と称し、高田大岳(1585m)、井戸岳、赤倉岳、前獄、田茂萢(やち)岳、、小岳、硫黄岳、石倉岳、雛岳の10の山々を北八甲田と言い、櫛ヶ峰をはじょめ6峰の山々を南八甲田と言います。」との説明にまず先入観の過ちを正される。そしてかの新田次郎氏のベストセラー「八甲田死の彷徨」はこの史実を脚色したあくまでも小説であるという。作中登場する青森隊と弘前隊を対比して、同時並行的に話を進めているが、実際は、両隊が其其計画立案した、雪中訓練が偶然時を同じくするタイミングとなり、その結果は青森隊は210名中199名死亡。弘前隊は37名全員無事帰還とまるで正反対の結果となったとのこと。その無謀な作戦を推し進めたものは、時代はあたかも、満州でロシアの圧迫を受けていた日本陸軍軍部が、極北での対ロシア戦にそなえて、予想される耐寒訓練と雪中行軍を先取り・研究することを急いだために違いない。・・その八甲田連峰の山間を
我々は易易とバスで越える時代に生きている。おりから強烈な吹雪となり、八甲田雪の回廊と名された102号線の雪の壁の間を悲劇を悼みつつ通り抜ける。酸ヶ湯温泉の「まんじゅうふかし」を左に見て、城ヶ倉大橋を渡れば道は394号と名を変えて、黒石市へ入る。高賀野ICから再び東北自動車道に乗り、スピードを上げて疾駆する車窓の両側は見渡す限りリンゴ園がひろがっている。
ところで土佐にはさすがの酒仙・桂月先生も裸足でにげだすような、酒豪と逸話が民話にも残っているような土地柄。酒王・土佐鶴のテレビコマーシャルに山内家19代豊功(とよこと)氏が酒を酌み交わす場面で、盃がまるで手の一部でもあるような、華麗・優雅な盃捌きを見かける度に、「鯨海酔候」・容堂公のご一統の名を今に継いでおられることよと感嘆させられる。そんな土佐の盃ごとを、遠い秋田からやってこられて、苦心惨憺夜毎の酒修行に鍛えられた高知大学理学部教授・町田義彦先生が浦戸湾文庫に実に軽妙洒脱に語っておられるので、一部紹介いたします。・・・教授お許の程お願いします。
土佐の穴あき文化
学生時代には無縁だった料亭に、付き合いでときには顔を出さねばならない。最初から自爆覚悟だが、まあ、下戸は腰が抜ける。返杯、返杯、返杯の繰り返しだ。返さないと目の前から立ち去らない。敵の眼を欺いては抜け出し、水を飲んで冷気に当たらないと死んでしまう。・・(中略)・・しかも酒席で出てくる盃は最初からコロリと転がったまま。それもそのはず、底が尖っている。座るはずがない。おまけに穴が開いている盃もある。おんちゃんらあは慌てて穴を指で塞ぎ、「あつつっ」と言いながらぐっと飲み干す。そうしないと料亭用の一張羅が酒浸しだ。
このあと、おかめ・ひょっとこの盃を用いての「べろべろの神様」の面白おかしい説明が続くわけですが、最後に、酒を入れる容器にわざわざ穴を開けたり、立たない盃をやりとりする文化は、世界中で土佐だけかもしれない、まあ、いいか。人それぞれに、精一杯楽しめばいいんだ。としめくくっておられる。
大町桂月・詩人、歌人、随筆家、評論家は、土佐国高知北門筋士族大町通の3男として明治2年(1869年)1月24日に生まれた。名は芳樹、雅号は桂浜月下漁師、月の名所桂浜に因み「桂月」と称した。・・「見よや見よみな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」・・軍人を志したが近眼のため断念して、明治29年東大国文科を卒業、島根県の中学校教師を経て明治33年博文館に入社『文芸倶楽部』『太陽』『中学世界』などに随筆を書き、美文家としてしられた。韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩で和漢混在の独特な美文の紀行は広くよまれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年、満州(中国東北部)まで旅した。北海道を旅行し大雪山系「桂月岳」(右から2番目)、「黒岳」(右端)「層雲峡」の名づけ親でもある。・・とここまでが、桂月先生の略歴といえましょう。晩年は十和田湖近くの蔦温泉に居住し、大正14年(1925年)4月には本籍も同地に移したが、程なく胃潰瘍のため死去。57歳・・いがいと若死にの感があります。高知生まれといいながらも、少年時代は東京・番町に住み、大叔父の多賀宗義(陸軍少佐)に養われながら番町小学校を明治15年に卒業している。我々が思うほどの土佐人ではないのかも知れない。しかし先生の十和田湖・奥入瀬への
傾倒は半端じゃなかった。先生が初めて十和田湖を訪れたのは、明治41年のこと。五戸町出身の鳥谷部春汀が、「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい。」と誘ったことが始まりとか。初秋の十和田湖を訪れた桂月は、あまりの美しさに、すっかり心をうたれてしまいました。
その風光を「日光に勝るとも劣らぬ、まさに天下の絶景」と、名句を連ねて褒め称えました。「奥羽一周記」という題で、雑誌「太陽」に掲載した一文によって、十和田湖は全国にその名をしられるようになったとさ。とくに十和田湖と奥入瀬の景勝を、あまねく世に紹介したものとして知られる歌碑が焼山奥入瀬観光センター前にありました。
住まば日の本、遊ばば十和田、歩きゃ奥入瀬三里半
しかし、圧巻は辞世の句
極楽に、越ゆる峠のひと休み、蔦のいで湯に身をば清めて
先生が酒で身を清めていたことだけはたしかで、中秋の名月の晩には桂月を偲び銘酒を桂月碑にそそぐ慣わしまであるとか。大正7年桂月は久しぶりに故郷の土踏み、桂浜に遊び心行くまで盃をかわしたそうな。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)