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大町桂月・詩人、歌人、随筆家、評論家は、土佐国高知北門筋士族大町通の3男として明治2年(1869年)1月24日に生まれた。名は芳樹、雅号は桂浜月下漁師、月の名所桂浜に因み「桂月」と称した。・・「見よや見よみな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」・・軍人を志したが近眼のため断念して、明治29年東大国文科を卒業、島根県の中学校教師を経て明治33年博文館に入社『文芸倶楽部』『太陽』『中学世界』などに随筆を書き、美文家としてしられた。韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩で和漢混在の独特な美文の紀行は広くよまれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年、満州(中国東北部)まで旅した。北海道を旅行し大雪山系「桂月岳」(右から2番目)、「黒岳」(右端)「層雲峡」の名づけ親でもある。・・とここまでが、桂月先生の略歴といえましょう。晩年は十和田湖近くの蔦温泉に居住し、大正14年(1925年)4月には本籍も同地に移したが、程なく胃潰瘍のため死去。57歳・・いがいと若死にの感があります。高知生まれといいながらも、少年時代は東京・番町に住み、大叔父の多賀宗義(陸軍少佐)に養われながら番町小学校を明治15年に卒業している。我々が思うほどの土佐人ではないのかも知れない。しかし先生の十和田湖・奥入瀬への
傾倒は半端じゃなかった。先生が初めて十和田湖を訪れたのは、明治41年のこと。五戸町出身の鳥谷部春汀が、「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい。」と誘ったことが始まりとか。初秋の十和田湖を訪れた桂月は、あまりの美しさに、すっかり心をうたれてしまいました。
その風光を「日光に勝るとも劣らぬ、まさに天下の絶景」と、名句を連ねて褒め称えました。「奥羽一周記」という題で、雑誌「太陽」に掲載した一文によって、十和田湖は全国にその名をしられるようになったとさ。とくに十和田湖と奥入瀬の景勝を、あまねく世に紹介したものとして知られる歌碑が焼山奥入瀬観光センター前にありました。
住まば日の本、遊ばば十和田、歩きゃ奥入瀬三里半
しかし、圧巻は辞世の句
極楽に、越ゆる峠のひと休み、蔦のいで湯に身をば清めて
先生が酒で身を清めていたことだけはたしかで、中秋の名月の晩には桂月を偲び銘酒を桂月碑にそそぐ慣わしまであるとか。大正7年桂月は久しぶりに故郷の土踏み、桂浜に遊び心行くまで盃をかわしたそうな。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)