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今回の弾丸ツアーで初めて宇和島の町と大洲の町の位置関係を実感することが出来ました。宇和島と言えば藤堂高虎の治藩として土佐藩に隣接し、津野親忠自刃の際、家康にいち早く知らせ、長宗我部盛親が土佐一国を見事取り上げられるハメに陥ったことを思い浮かべます。私の貧しい想像力から考えるに、宇和島と伊予今治を高虎に領させていた目的は、高虎の海軍力で九州島津の東上を阻止するためで、外洋周りの進撃に備えて土佐も譜代に準じる大名を配置する必要から盛親を無理やり排除、小大名であった山内を4倍の所領にまで引き上げ恩顧をその後260年にわたって被らせることとなったのでは。
秀吉の四国成敗で敗れた際、人質として差し出された親忠は秀長下臣であった高虎と親しくなっており、そのことが裏目に出ての関ヶ原始末となりました。
時代は幕末、大洲藩は勤王派として先駆の藩で12代藩主加藤奏祉(やすとみ)から四国でいち早く旗色を表します。1866年(慶応2年)藩の兵制を近代化するため西洋銃器の購入をすべく家老・国島紹徳を長崎に派遣した。その際国島は土佐の坂本龍馬から勧めを受け薩摩藩の五代友厚に会い、その周旋で蒸気船アビソ号(160t)を購入している。この鉄船を「いろは丸」と改称。大洲藩の持ち船となった。代金は4万2500両とか。
結局長崎ー長浜間を4回航海した後、土佐の後藤象二郎に懇願されて、1航海500両で土佐藩に貸し出された。結果1867年(慶応3年)4月23日未明紀州藩明光丸と衝突沈没してしまう。
この両藩が隣接してあり、それぞれ特徴あるお城を誇りに豊かな地域色を織りなしている。
その不思議さを実感しながら、、宇和島・和霊神社、大洲城、内子の町並みをそぞろ歩きました。
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