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津軽氏の領主としての始まりは、南部氏の家臣であった大浦為信が1571年に独立して津軽と外ヶ浜を強奪したこととされている。そして津軽と外ヶ浜を占領した為信はその後豊臣秀吉から所領を安堵され、近世大名としての地位を確立しました。このころ大浦より津軽に改姓。徳川家康の時代に入ってから為信は家康に属して関ヶ原の合戦に参陣。この弘前城は、津軽統一を成し遂げた津軽為信によって慶長8年(1603)に計画され、二代藩主信枚が慶長15年(1610年)に着手し、翌16年に完成しました。以後弘前城は、津軽氏の居城として廃藩にいたるまでの260年間、津軽藩政の中心地でした。人々が愛でる桜は、明治末期ごろから市民による寄贈が盛んになり、ソメイヨシノ・枝垂れ桜・八重桜なだ約2600本が、園内を埋め尽くす今に至っております。この津軽藩と南部藩はこれをきっかけとして以来今日まで、同県内において確執が絶えないといわれる。桜のあでやかさに隠された両者の言い分は南部衆に言わせると「南部藩の家臣だった、津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」と言い、一方津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り戻しただけだ」と主張する。津軽藩の江戸時代の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩は通さなかったという。幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍についた。しかし目前の公園を埋め尽くす人々の表情からは、どなたが南部で、どなたが津軽なのか、我々には分る筈もない。
んなことに頓着するわけもない。とおもいながらも、もしかして未だ嫁取りなどで、両者の意地の張り合いなどキットあるに違いない。身近な例でも、親父の次姉が同姓の津野に嫁入りしたが、この嫁入り先の津野を平民描字必称令(明治8年・1875年)の際はじめて名乗った偽津野であるといいしゃぎっていたのを思い出す。この一家はかのブラジル移民として戦前に移住してコーヒー園で成功を収め、孫の代では、医師・歯医者などを輩出しているとの風の便りを聞いている。土地にまつわる怨念もふくめた津軽の風土。もう一度太宰を読み直すことから勉強しなおすのも一興かな。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
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