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「新国を開き候は積年の思ひ、一世の思ひ出」
これは龍馬が暗殺される9ヶ月前、長州藩士・印藤肇に宛てた手紙の一節です。
龍馬甲子園「龍馬ならどうする」をテーマに掲げようと考えながら、竜馬がゆく・狂瀾編を読み返す。
当時列強の開国圧力以上に脅威だったのが、ロシアの南下であった。
いくら船が大型であっても、英・米・仏が日本を植民地化しようと兵力を送ったところで、その兵站を維持することは不可能でしょう。ところが、ロシアと言えば対馬上陸という姑息な手段で失敗しましたが、
北海道を大軍でもって南下、奪取しようと思えばできる。このことを憂慮した日本人がどれほどいたかは疑問だが、すくなくとも一部幕閣、そして海舟・龍馬は痛いほど愁眉の問題として捉えていた。
この時季の龍馬は勝海舟のもとにいて東奔西走の身。とても蝦夷探検とはいかない。そこで北添佶摩らに現地調査を託した格好だ。
北添佶摩・安岡直行・能勢達太郎・小松小太郎の4人は文久3年(163年)5月2日敦賀港から函館を目指している。
この蝦夷地踏査は約2ヶ月。途中小松小太郎客死(6月7日函館)。
さて、龍馬の歯ぎしりが聞こえてきそうな「新国を開き候は・・・」は、もしこの蝦夷地開拓が実現しておれば、この調査直後、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で、北添と望月亀弥太を失ったこともあって、若く有能な浪士を多数死なせずにすんだのにという思いとともに、土方歳三以前に蝦夷共和国を考えていたことを証している。
事実、海舟、大久保一翁の尽力で蝦夷に浪人200人を移す船の手配も出来ていた。
龍馬が亀山社中にゆくか、蝦夷共和国を樹立するかは、ほんの紙一重の歴史のいたずらだったのだ。
そう、あの時代の混沌の中で、龍馬はここまでの見通しを持っていた。
この不況にあたって、生活給付金ぐらいしか思いつかない平成幕末の幕閣阿吏の頭のなかの貧しさと比べて驚きの見識力といえる。
そう、このダイナミズムを学びこの世に提言することが、すなわち「龍馬ならどうする」との問いに答える唯一の道でありましょう。
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