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昨年暮れ淡水サッカー会長逝去を悼んで「やっとう会」が大阪・曽根崎にて開かれた際にも聞いていなかったH君の病気を知ることになったのは、彼の友人で山中温泉でお花見久兵衛経営者の吉本氏に連絡を取ってもらい、山中温泉の売り温泉の裏を取ろうと携帯に伝言を入れたことからである。
いつもなら、すかさず返信が入り、日頃のご無沙汰をお互い無事な証拠と話し合うのが常であります。
ところが、今回に限って2-3日経っても返事が有りません。おかしいなと思いながらも電話を待っておりますと1月15日、彼の携帯からの着信があった。やれ嬉やとばかり、どうしていると声を掛けたところ、聞きなれない男性の声が返ってきました。
これは、確かH君の携帯ですよねと念を押したところ、実はHは去年の暮に脳梗塞で倒れて、今大阪・天神橋の加納総合病院に入院しており、とても電話にでるどころではなく、兄さんが携帯の着信を見て、知人・友人からの電話ではと掛けましたとの事情を述べられた。
元気者のH君がまさかの病と聞いて声もない。
実は私も4日後に入院手術を控えていて、すぐのお見舞いには行けないけれど、体が確り戻ればすぐさまお見舞いにうかがいますと返事するのがせいぜいで電話を置いた。
あとで、彼の近しい友人の真鍋公認会計士に話を聞くと、暮れに久しぶりに会おうとなって、H君の事務所で話をしていると、突然話題が飛躍して、つじつまの合わぬことを言い出した。これは大変ということで救急車を呼んで病院に送り込んだと言う。
まさに突然の脳梗塞に見舞われたわけだ。
日頃現役の試合には必ず顔を出し、選手それぞれにアドバイスを与えていた姿を知っているだけに、また少年サッカーの指導をしていると嬉しそうに話している顔も浮かんで、未だ信じられない気持。
今日3月10日になって、やっと大阪の人込みに出る勇気が出て、今日こそはお見舞いにと、加納総合病院に電話を入れると、2月末に退院したとの返事。
しまったと臍を噛みながら、さきの公認会計士に電話して、お兄さんの自宅電話を聞きだした。
あのときの口ぶりから、きっとお兄さんがあとの面倒をみてくださっているとの確信は的中して、その後の様子を聞くことができました。
体のマヒは幸いリハビリで改善されそうだが、どうやら脳に後遺症が残っており、かなり記憶も錯綜・忘却が激しくて、現在お兄さんの自宅で療養しているが、どなたも面会は謝絶しているとのお話。なにしろ人と会った後が大変らしい。
すぐさまのお見舞いに行けなかったことを謝して、様子うかがいの電話を入れる許しだけは頂いて電話を置いた。
同じグランドで苦労を共にした好漢H君の笑顔を思い浮かべながら回復の大ならんことを祈るのみ。
病一つが人生の明暗を分けることになる。・・・(H君の現状報告)
昭和3年創設以来栄光をほしいままにし、相和22年には全国制覇を果たしたが、昭和45年Bリーグ落ちいらい平成15年Aリーグ復帰までの33年間の悪戦苦闘を経て、めでたくAリーグ復帰。そして今年80周年を祝うがごとく関西制覇成る。
なんだか人ごとのような気がしなくて、TV画面に見入った。やはり若い牟田至監督が引っ張って、ここまで来られたようだ。その監督さんはCリーグのどん底経験者であるとか。いまや100名を超す部員も分け隔てなく一団となって日本の頂点を目指す意気に燃えていることも。
いい手本が目前・身近にあるではありませんか。
彼らに出来て、我々に出来ない筈が有りません。現役諸君、やってやってやり尽くそう。
そして目標を2部復帰など、小さいことを云わずに、1部復帰といこうではありませんか。
別のニュースでは、この突然の不景気な御時世。企業が求めている人材の第一条件は体育会系であることという内容。全学生に占める体育会系は1割ながら、有力企業採用者に占める体育会系は35%に達するという統計結果があるそうな。
サッカーに打ち込め。力を尽くせ。そしてOBは現役の就職先まで心配しよう。・・・まかせなさい。
私が前に会長をおおせつかってから、関西で夏の総会以外に宴会形式の集まりは初めてのこと。
さっそく淡水サッカーのHP・会員専用ページに現役への激励の言葉をUPした16人とG22真鍋清志、G30大西敏夫両君に現役新主将・新田夏樹,副将・兼折深の出席。計21人でありました。
会が始まる時間まで少々ここ南の猥雑極まりない街をぶらついてみた。なにせ鮨屋の多いこと天下一ではなかろうか。亀寿司、喜多鮨、と軒を並べている姿は壮観にすぎる。間口一間の昭和初期のカフエを想わせる古びたお店があると思えば、結構郷土料理を売りにしている店もある。室戸なんていう名前も嬉しい。カツオタタキと看板に大書してあります。お初天神にもお参りして、これは専ら間じかに迫った前立腺がん手術の無事をお願いいたしました。ある露地には「ごん地蔵」さまを初めて見つけたり、ニューオリンズジャズの聖地・ニューサントリーファイブの店内の様子と、ライブ予定表を貰ったり。
ころを見計らって会場へ向かう。会場は今時の居酒屋。隣のグループとの境は御簾が垂れているだけ。
会が始まり昔の体育会の乗りに戻れば全くとなりの女学生の嬌声も気にならなくなった。
会の進行は幹事新谷君のなかなか洒落た司会で、面々は何時も通り、想いの丈を吐露していく。
矢頭会長の就任早々の逝去という突発事に遭遇してから、会長代行の的場君、野間君のコンビにより、今までにない盛り上がりを見せているのは、現役の悲願の2部復帰を果たし、矢頭君の霊前に報告しなければという一同の気持ちが大きな連帯をなしているからに違いない。
秋季のリーグ戦は一位の好成績を残したこと、現役が来年3回中心の、現有メンバーがほとんど変わないことから、来年を逃してはチャンスなしとの意見も一致。これに応えて新田・兼折両君が力強く目標達成を誓ってくれました。・・・2部復帰祝賀会はこんなもんやないで、しかし。
最後に的場会長代行より、春季リーグ第1戦を矢頭会長追悼試合とすべく、試合会場も本学になるように交渉するとの提言、およびせっかくこうして始まった忘年会を今後「やっとう会」と命名して続けたいとの発案を満場拍手でもって了承。最後に新谷永久幹事の関東一本締めにて散会となりました。
今回の殿村氏訪問で頂いた古い資料の中に、学部2回・外島昭二郎氏が25-30年前に、兵庫のサッカー史編纂のため依頼された、淡水サッカーの歴史を「我がサッカー部」と題してまとめておられた文章コピーを頂戴した。その中に「戦前の黄金期」の項があって、そこにあの幻の東京オリンピックの日本選抜候補の一件が記されてあった。
昭和11年(1936年)ドイツ・ベルリンでのオリンピック開催は、ヒットラー率いるナチス。ドイツの完全な宣伝の手段として完璧なまでに執り行われた。その演出、全体主義の成果は今回の北京の比ではなかったといえる。当時後の三国同盟を結ぶほど近しかった日本も、それに続けとばかりに、昭和15年(1940年)東京でのオリンピック開催を予定していた。
その前年昭和14年といえば、我が淡水サッカーが戦前の最盛期を迎えた頃で。、関西一部リーグ戦では、今までに一度も勝てなかった名門京大を3:1で撃破し、強豪関学には0:3で惜敗したものの、念願のBIG2を果たした。そして、昭和15年正月、始めて第4回朝日招待サッカー大会に駒を進め、関東学生サッカー界の王者明治大学に対戦して、専門学校チームが一歩もひけを取ることなく、0:2で敗れたものの俄然全国サッカーフアンの注目を受け絶賛を博した。その当時のレギュラーメンバーを調べてみると、なんと神戸一・二・三中出身が9名に県立神戸一商が2名と戦前の一時期中等学校サッカー界を制覇した兵庫県下の名門校卒業生で占められていたことが分かる。
昭和14年夏に東京オリンピックの候補選手の強化合宿が慶大山中湖畔のグランドで計画されて、当時のメンバーの中から、室山和(9回)・水沢淳也・小畑儀広・小川陽次(11回)の4選手が選ばれた。特筆大書すべき快挙でありました。・・残念ながら合宿出発のため神戸勢が三宮に集合した所で、オリンピック中止となり、涙を飲んで自宅に引き返したそうである。まさに我が淡水サッカー全盛期の泣くに泣けない痛恨事でありました。
写真は高商11回ー13回の写真でありますから、かの幻の東京オリンピック日本選抜候補の3名が写っている筈。超OB回りをして確かめて参りますから。
淡水サッカーを語るとき、必ず登場するのが、朝日招待サッカー大会であり、第9回大会昭和26年1月13・14日開催の試合で商大が関東一位の早稲田大を3:2で破るという一大快挙の歴史的勝利であります。Jリーグが始まるまで、サッカーの花形は関東・関西学生リーグと日本リーグ(JSL)でありました。正月には実業団と学生リーグの一位が日本一の座を争う天皇杯が楽しみの一つだったものです。
昭和41年頃でも、関東リーグの決勝戦、早稲田の釜本と明治の杉山との一騎打ちなど固唾をのんでTVにかじりついて観たものです。
それ以前のまさに日本一を決める場としての朝日招待サッカーは、サッカーマンの夢の球宴でありました。この大会の結果、東西学生選抜メンバーが選出され、名古屋会場で東西戦が行われたものです。この第9回の朝日招待後、淡水サッカーからHB藤川、FW北村・殿村の3名が選抜されている。
この朝日招待サッカーがいつまで続いていたのか検索してみるに、朝日招待サッカー自体のWIKIPEDIAが有りません。是非とも朝日招待サッカーを詳しく調べてみる必要があります。ラグビーでは朝日招待ラグビーが56回を数えて盛んに開催されているのに。
この時の朝日招待サッカーの記事を当時の朝日新聞大阪運動部の大スポ―ツ記者・大谷四郎氏が、負けた早稲田をあげつらうことなく、よくぞ勝ったと神戸商大をべた褒めに書いております。日頃辛口で手厳しい評論を展開する大谷記者が、よくよく嬉しかったのか、商大の健闘を褒めたたえる記事を書いてしまったのには事情があって、記者の長兄で当時ブラジル東洋紡の社長をされていた大谷一二氏から、一二氏の母校、神戸商大サッカー部の指導をするように厳命され、このシーズンをコーチとして鋭意指導した結果の商大勝利であったからです。記事にはどこを探しても、この事実は出てこないが、
選手が教えを忠実に守って、小気味よくGOALを重ねていく、それも前半0:1からの後半の逆転劇とあらば、腹の底から快哉を叫びたくなつたのも分かります。
(引用)タイミング・・またまた神商大を引っ張りだすが、対早大戦におけるFWの
攻撃はパスのタイミングが良かったことに多くを負っていた。意識していたか否か
は知らず、相手をひきつけ過ぎない内にパスした。インサイドなども一人を抜けば
2人と欲張らずにパスした。この早い球離れが相手バックスの動きかけた出鼻を
かわす結果となってボールは楽に味方へ渡った。 (大谷四郎記者)
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)