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abecfb6e.JPGタイトルどうり吾が人生のバックボーンの一つ、淡水サッカークラブ(神戸高商・神戸経専・神戸商大・兵庫県立大学神戸)が2010年に80周年を迎えるのにあたり、この2年を準備期間として、記念事業の一つとしてHPを仮開設したのに伴い、そのコンテンツの柱として、OB列伝を取材掲載することになりました。そこで、まずは今も終身ヘッドコーチとして現役を指導して下さっている殿村先輩をお尋ねすべく半月も前からご都合を伺っておりましたのに、私の本業の方で、BIG案件の成約直前作業が重なり、やっと今日、お話を賜る運びとなりました。写真は100分の対談後の、少しは語れたかなとの表情であります。詳しくは、tansui-s.com淡水サッカーのHPにUPいたしますが、同時に殿さんの半生をも、お話いただけ、永年抱いていたイメージとはまた違った人格を発見したここちでありました。
お話のテーマは、一貫して商大サッカーに拘ってきたし、これからもそれを貫くことの一点に絞られたものでした。その元となるものは、先輩諸氏が営々と積み上げてきた実績であり、好不調の差こそあれ代々の部員が全力で励んできた事実であります。そのことから是高商1回から始まる部の歴史を再認識することから始めようと、詳しい資料をどっさり準備してくださった。そのなかで特に会報第1号昭和26年8月発行がそも始まりとなった頃の、熱気を実に克明に伝える貴重な資料であることは間違いありません。
一方、何故サッカーなのかに話が及び、殿さんの来歴にふれ、なにしろサッカーが好きでたまらなっかったこと。すべての進路選択がサッカーをやれることを最優先してきたことを話された。ここが全く今までの私が抱いていたイメージと違うところで、私を大阪ガスに呼んでくださった際、お役所的な大ガスにピッタリとおもった殿さんが、大ガスを就職先に選んだのは、戦後実業団でサッカー部が続いていた数少ない会社であったからだそうです。もとより神戸商大もサッカー部を目指して入学されたとのこと。昭和2年生まれの殿さんはサッカーに励んでいた甲陽中学4年で海軍飛行予科練習生に志願し、飛行機にのるつもりが、飛行機なぞあるわけのない状況になり、和歌山・田辺の海岸へ海上特攻要員(特攻艇震洋・人間魚雷回天等)として配備されそこで終戦を迎えられた。一つ間違えれば特攻帰りの闇屋で終わっていたかも知れないところ、やはりサッカーしたさに神戸高商に進むことにしたと断言された。同期の藤川氏・北氏も同じ復員学生であったそうな。2回の外島氏の回想文にも、高商入学に際して、軍歴が問題となり、田中教授に助けられたと述べられておられる。サッカー部にはそんな気の荒い兵隊帰りがゴロゴロしていたわけです。
ずっと殿さんの内に秘められた熱さに共感を覚えていたが、実はそれ以上に、その奥に無頼の風が吹いていたわけで、自分と同じ匂いを感じてのことだったんだと改めて納得した。

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7月12日、淡水サッカークラブ総会に出席。今回は超OBの皆さんを捕まえては、確認事項と質問に忙しい一日を過ごすことになった。まず驚いたのは、私が4回生の代で、監督をお願いした芝田薫先輩が亡くなっておられたこと。それもかなり前のこととか。あれだけお世話になりながら、残念な知らせとなりました。次に1973年刊行の1部復帰祈念特別号に掲載されている16-20回集合写真に写っている3人の女性について。それまでのサッカー部といえば、彼女が試合の観戦に来ることなど、絶対と言えるほどあり得なかったなか、4回生時、私が弘子ちゃんをほとんどの試合に連れていっていました。その写真は卒業するまでの2・3月ころの練習に押し掛けた際に撮ったもので、珍しや、3人の女性が写っています。いまどき女性マネージャー花盛りの有様を見ると、羨ましいやら、悩ましいやら。悩ましいいと言うのは、変な意味ではなくて、気になってサッカーに打ち込めないだろうとのこと。われわれの時代、商大には同級生に全校でただ一人の女学生、渡部知子さんがいたのみだった。その渡部嬢も、名簿では一年遅れの卒業で、住所不明となっています。たぶん、淡水サッカーの現役集合写真に女性の姿が現れた最初ではなかったか。その一人は、弘子ちゃんで、さて後の2人のうち、吉田君の後ろに恥ずかしげに座っているたぶんまだ女子高生を今までずっと、吉田君の細君である聖(ひじり)さんとばかり思い込んでいて、もう一人の女子高生は一体だれなのか、横にいる細見君の彼女だったか頭を悩ましていたわけです。(ずいぶんと暇)さっそく吉田君を捕まえて確認する。答えは「2人とも当時家庭教師で教えていた女学生です、聖ではありません。」今まで時たま吉田君の自宅にTELを入れた時には、電話に出てくる細君とこの写真の彼女のイメージで話していたのに。・・・
 次に先輩諸氏のスピーチでの新しい発見があった。学5回酒井保氏のお話に、卒業生最年長の大谷一二氏が極最近亡くなられてた報告があり、大谷先輩が部に寄せられた功績として、ブラジル東洋紡績社長とはるか離れた勤務であったにもかかわらず、令弟・大谷四郎氏(神戸一中・東大法学・当時朝日新聞スポーツ記者)を戦術コーチとして派遣され、朝日招待の際のユニホーム一式まで寄贈されたとか。なにしろ大谷兄弟は当時のサッカー界のSUPERSTARであったことの説明を拝聴。さらに、昭和16年、太平洋戦争開戦のため幻となった東京オリンピックの候補選手として、高9回深田篁一(大阪商船取締役)・室山知(松竹)、高11回水沢淳也(東洋国際石油)、小川陽次(戦死)の4選手が選ばれていたこと等、瞠目するようなお話を記憶に刻むことができました。
 予定通り、会長交代の動議了承され、矢頭徳樹新会長G22が引き継ぎ、80周年を迎える抱負を述べられた。また吉田会長が最後に挨拶され、途中感慨胸に溢れて、言葉に詰まる場面では、我々もこみあげる熱き思いを噛みしめながら、「思いが繋いだ80年」および「80周年を2部で迎えよう」との決意を披露されて満場拍手喝采。戸田圭哉主将の力強い後期リーグ戦全勝宣言を心地よく拝聴した。

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さても不思議なことに、たった4年の間走り回ったに過ぎない淡水サッカー倶楽部の総会ともなると、齢60余歳にして、未だいそいそと出かけて行く。これは一体なんなんだろうと考える。いまさら、球を蹴るわけでもなく、ましてや100メートルも走れないに違いない。しかし、OB戦観戦中、現役・OBのサイドに拘わらず、GOALチャンスとなると、身体が知らぬうちに反応して、思わず喊声をあげている自分に気がつく。きっと商大サッカーで培われたGOALを目指す本能・野生がまだ、身体に息づいている証拠だと感じる。どれほど試合に臨んで我がほうが劣勢であっても、一身を持って敵GOALを目指す。いくら跳ね返されても、失敗しても、TIMEUPの笛を聴くまでは、点差がいくら開いていようと攻撃の姿勢を崩すことは決して無い。この実にストイックなまでの試合・練習の繰り返しが本能・野生にまでなっている。お蔭で、卒業して後の実社会での、苦難の波を被る際、困難を察知する前に、身体に一種電流のごとき緊張が走り、危機到来を知らせてくれる。追い詰められたとき、知らぬうちに思わぬ手段に打って出て場面を打破する。要するに球際に強いことで、どれほど助かったことか。事実サッカーにおいてもFWとBKの一対一のGAMEで、FW朴木(ほうのき)と対して10戦10勝だったことを覚えている。この戦局感と身の処し方を学んだことを武器にして、この40余年を凌いできたと言って過言で無いと思う。・・・このごろ去年の10月頃をピークに不動産業界の雲行きが怪しくなってきており、一般企業も企業立地・収益物件取得に弱気を見せだした。そのことを我が本能が感じて警鐘を鳴らしだした。売り手・買い手双方に満足のいく取引でないとまず成立しないご時世の到来であります。そしてこの状況こそが、我々街場の業者にとって望ましいものなのです。景気がよければ、我々のレベルに降りてくる前にBK間で取引成立となってしまう。我々の出る幕も無い。しかしこのように落ち日和ともなりますと、買いNEEDS側に立って、売り物を嗅ぎ当てる我々の出番となるわけです。また倒産・破産物件の任売相手を探しですのに、日ごろの好奇心で集めた情報を駆使する機会到来となる。曰く不動産アメーバー。この存在がないと物は動かない。
執拗にプランを組み立て、フォーメイションを変えてGOALを飽くことなく目指す。要は実業のフィールドでご臨終の鉦が鳴るまでサッカーをやっておれば良いだけのことか。

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平成9年の総会にて現吉田進会長にバトンタッチというより、タスキを放り投げてから、はや満12年を迎えようとしています。オムロンの執行役員であられた吉田会長は、東京勤務にも拘わらず、リーグ戦ともなると、春・秋とも週末京都本社に用事を作り、必ず観戦督励を欠かさない。合宿ともなれば、これも必ず参加して現役を見守る。また、OB会に関しては、従来から盛んに会合を重ねていた東京支部の充実と、神戸周辺の若手OBの結集を図り、会費集金にも励んだ。会は見る見るうちに、組織として躍動感を帯びてきた。現役の指導に当たっても、殿村終身ヘッドコーチを中心に、イズミヤの人事をやっていたG15.楠瀬強氏が、部員の一人一人を注視して、助言褒め上げに徹する。G18濱口章氏も現役個々に声がけしてきめ細かいアドバイスを送る。ほんと現役OB一体となって2部復帰を目指して頑張って頑張っての12年。その間2部復帰を瞬間果たしたことが、多分1度ありました。その時期は、部員も多く、選手ばかりでなく、スカウテイング機能をもっプレイイングマネージャーの役割に徹したスタッフの存在があり、この体勢が継続できれば、2部にまずは留まり続けられれのではと期待したこともありました。近年は、総会にて何とか2部復帰を果たし、吉田会長の労苦に報いて欲しいとの懇願を繰り返すばかりと成っています。今年も7月12日には同じお願いをすることになるでしょう。ただ、去年の総会後吉田会長から、次期会長候補者に誰を推すかとの打診がありました。そのときは2部復帰条件付で具体名を一名挙げはしましたが、これは私の出すぎといまは反省しています。どうか自分の納得のいく人物に次期を託して下さい。それが今期であるのが望ましいと考えています。というのも後2年で創立80周年の節目がやって来ます。その周年を期して、我々の歩んできた道の集大成を計るための旗を振る中心は吉田会長をおいて他居ないからであります。・・どこまでもついてゆきますから。

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自営業の宿命は、景気の変動に左右されることでしょう。満5年間自分なりの原理原則を守って淡水サッカー会長を辛うじて務め、現行の総会形式も定着して来た頃。ちょうど平成7年の阪神大震災の復興景気も一段落をむかえると、明石駅前での我が生業も陰りを見せ始めてくる。同時に手がけていた不動産仲介業は順調に実績を伸ばし、本業の赤字を十分補う程になってくる。股裂きのような日々の仕事を抱えて時間がいくらあっても足りない状況。さすれば、そろそろ会長機能を次なる人物にバトンタッチしなければと決意して、平成9年6月の総会に臨んだ。次期会長を託す人物選定には何の迷いも無くG17回の吉田進氏を指名して、快くご本人の了承を頂いた。私が会長職を拝したときから、次は吉田と決めていたのには訳があります。話は40年前、昭和40年秋季リーグを5位でやっとのこと乗り切り、次期主将の指名決定に迫られたとき、彼を主将にしようかと相当迷ったことがあります。その際、彼なら、副将であってもチームへの貢献に全力を注いでくれると熟考結論して、副将指名をした経緯がありました。好漢・吉田は我々商経学部の文系人間とは違い、商大に管理学科が新設された際の、第1期生でたぶん京大くずれ。初代管理学科・小笠原教授(後に兵庫県副知事・芦屋大学学長)の秘蔵っ子のバリバリ理系人間です。何事にも前向きで、頼りがいがあり、疲れというものを知らない、誠実一路の人柄です。そして責任感を重んじることこの上ない人物です。というのも、私と長本が抜けた、翌年の秋季リーグで、運悪く3部落ちの悲劇に見舞われてしまう。本当に運悪くとしか言いようの無い結果でしたが、このことを誰よりも深刻に受け止めたのが、誰あろう吉田進氏でした。幸い立石電機・OMRON-京都に就職した地の利に恵まれた彼は、卒業後早速現役監督としてグランドに現れ、卒業3年後の昭和44年(水野主将)には見事2部復帰に導き、責任を果たされました。この時代、44年ー52年の間は、1部復帰祈念特別号の会誌を出したほどの盛り上がりを見せた、戦後第2黄金時代といって良いでしょう。その12年あまりの間、黙々と監督を務めていた彼以外にバトンを託す人物がいるはずがない。・・・この選択こそが、私の淡水サッカーに齎した最大の功績となろうとは、この時はまだ気づいてはおりませんでした。

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