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龍馬甲子園なる広い括りの中で、さて第7回龍馬IN神戸のACTとして具体的に何をやれば良いのか、この1ヶ月考え続けてきたといえば少々大げさだけれど、常に頭の中にあったことは間違いありません。
今回の東京行きも、まず真っ先に今開催中のY150(横浜開港150年博)の会場に駆けつけ何かヒントはないものか探ってみたりしたところです。
横浜ものがたりのブースがベイエリア会場(馬車通り)の入口にセットされていたが、まことに簡単至極の展示で、これは開港資料館を除く必要があると考えるぐらいのもの。
ほとんど観客は素通りして、話題のフランスからやってきた巨大怪獣といってもP&Hを数台組み合わせた巨大機械蜘蛛のショーの方に流れてしまう。
ペリーの神奈川の開港要求にたいし、あまりにも江戸に近すぎるとして、当時100戸まあるかどうかの寒村であった横浜村が開港5港の一つとなった経緯も説明あり。西洋文明の窓口として、その後驚異的な発展を続けたわけだ。維新ぎりぎりまでもめた神戸開港とは違い、生麦事件などがあったものの流入する文明の大波は止めどなくこの港から関東一円に広がった。ということを改めてコロッケ主演のビデオで確認。
しかし、龍馬甲子園のイメージの参考となるものはありません。・・・
25日帰りの新幹線の中で、ウトウトしながらも、29日の県人会理事会で案として提示するケツが決まっている焦りを感じながら考えて、そうだ龍馬さんのことを語れと言ってみたところで、人様々で何を審査基準にすればよいかも定かではないなか、自分が龍馬さんに手紙を書くとしたらどんなだろうと考えた。
早速帰宅後、とるものもとりあえず「龍馬さんへの手紙」と検索してみる。結果、高知県立坂本龍馬記念館が来館者からの感想文を一冊の本にまとめて出版していることが判明。題して「ほいたら待つちゅうき龍馬」。
そうなれば早くこの本の中身を見てみたいとなった、深夜アマゾンに注文メールを出す騒ぎ。
28日には到着らしいから話はそれからだ。
「新国を開き候は積年の思ひ、一世の思ひ出」
これは龍馬が暗殺される9ヶ月前、長州藩士・印藤肇に宛てた手紙の一節です。
龍馬甲子園「龍馬ならどうする」をテーマに掲げようと考えながら、竜馬がゆく・狂瀾編を読み返す。
当時列強の開国圧力以上に脅威だったのが、ロシアの南下であった。
いくら船が大型であっても、英・米・仏が日本を植民地化しようと兵力を送ったところで、その兵站を維持することは不可能でしょう。ところが、ロシアと言えば対馬上陸という姑息な手段で失敗しましたが、
北海道を大軍でもって南下、奪取しようと思えばできる。このことを憂慮した日本人がどれほどいたかは疑問だが、すくなくとも一部幕閣、そして海舟・龍馬は痛いほど愁眉の問題として捉えていた。
この時季の龍馬は勝海舟のもとにいて東奔西走の身。とても蝦夷探検とはいかない。そこで北添佶摩らに現地調査を託した格好だ。
北添佶摩・安岡直行・能勢達太郎・小松小太郎の4人は文久3年(163年)5月2日敦賀港から函館を目指している。
この蝦夷地踏査は約2ヶ月。途中小松小太郎客死(6月7日函館)。
さて、龍馬の歯ぎしりが聞こえてきそうな「新国を開き候は・・・」は、もしこの蝦夷地開拓が実現しておれば、この調査直後、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で、北添と望月亀弥太を失ったこともあって、若く有能な浪士を多数死なせずにすんだのにという思いとともに、土方歳三以前に蝦夷共和国を考えていたことを証している。
事実、海舟、大久保一翁の尽力で蝦夷に浪人200人を移す船の手配も出来ていた。
龍馬が亀山社中にゆくか、蝦夷共和国を樹立するかは、ほんの紙一重の歴史のいたずらだったのだ。
そう、あの時代の混沌の中で、龍馬はここまでの見通しを持っていた。
この不況にあたって、生活給付金ぐらいしか思いつかない平成幕末の幕閣阿吏の頭のなかの貧しさと比べて驚きの見識力といえる。
そう、このダイナミズムを学びこの世に提言することが、すなわち「龍馬ならどうする」との問いに答える唯一の道でありましょう。
龍馬研究家の講演を聞く、討論会でパネラーの発言を聞いて何か違うだろうと感じる。なぜ俺は、私は龍馬さんに魅かれるのか考えてみる。ところで龍馬さんのことをどこまで知っているのか試したくなる。
龍馬検定なるものが有るらしい。試しに受けてみた。案外易々と合格した人、日頃龍馬さんのことについては十分自信があって当然楽勝と思っていてが、あえなく不合格となった人。ところで君は龍馬さんの何を語れるかと言われて、はたと困った。龍馬さんのコスプレで満足していたんではないか。なにか龍馬さんから得るところがあって自分の処世に生かしているのか。細かな知識だけは人にまけないが、果たしてそれだけでいいのだろうか。確かに龍馬さんは無念の死を遂げたが、無念だったのは龍馬さんだけだったのか。現代のわれわれにとって実に無念なことではなかったか。なぜ死なねばならなかったのか。時代の断層に押しつぶされたに違いない。もし龍馬さんが生き続けておればどうなったろう。この日本は変わり得たのか。なにも変わらなかったのか。そして今龍馬さんが生きておれば何をなすだろうか。あの時代龍馬さんが持っていた時代感覚の鋭さを現代人はなぜ失ったのか。ただ眼を覚ましていないだけなのか。・・・そう「龍馬ならどうする」。
事実外敵、西洋帝国主義を一番警戒した一人であった龍馬。
薩摩・長州という不倶戴天の両者の手を握らせるために龍馬はなにを以てしたのか。徒手空拳、天下の素浪人、土佐脱藩・草莽の身一つ。天が龍馬さんにその運命を与えたとしか考えられない。
龍馬の死後、彼を取り巻いていた人々はどう変わったのか、変わらなかったのか。・・・・・
と思っていますが、いいんでしょうね。
かくなれば、本格的に腹を据えて実行策を練り上げなければ。こうやって自分を追いつめてゆく手法はいつものこと。がしかし、皆さん何か良いアイデアがあれば是非トタックバックお願いいたします。
今日はいまから、四国八十八ヶ所高知県・修行道場へお参りに出かけます。28・29日の弾丸ツアーいざ出発。窪川・岩本寺から行けるところまで宇和島路を駆け上がります。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)