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先生曰く、昨夜一時ころまでワープロを打っていて、高知の龍馬記念館・三浦学芸員からの電話で起こされたのが午後1時だったとか。ご老体に鞭打って、より正確ないろは丸始末を語ろうとのこと。ごくろうさまの一言。
北の龍馬・浦臼小学校の15名からの手紙も頂いたと報告。驚いておられた。
話しの続きに5月2日には五島列島に行くんだと仰る。
五島列島と龍馬さんと云えば、ワイル・ウエフ号遭難のことと思い、池内蔵太ですかと尋ねる。
そうなんだ、5月2日は新上五島町(旧有川町)潮合崎沖で亀山社中の練習船となるべきワイル・ウエフ号が遭難した日なんだ。こんどその地に日本で3番目に大きい龍馬像が建つ。その除幕式に招かれているだ。
そうか、ワイル・ウエフ号は薩摩の小松帯刀の了解を得て、薩摩援助のもと、長崎のグラバーより購入した洋型帆船で、亀山社中の練習船として使用をまかされた船だ。
船籍が薩藩であるため、命名式のために慶応二年(一八六六年)四月二十八日、長崎を出航、長州藩の蒸気船ユニオン号に曳かれて五島灘を鹿児島に向けて南下していた。
ユニオン号は、ようやく成立した薩長連合による第一回の親善大使という含みもあって長州米500石を積んでおり、船脚を揃えるために両船はロープでつなぎ合わせていた。
五月一日午前六時頃から東風が激しくなり、夜十時頃には大暴風雨に発達、両船を繋いでいたロープは衝突を避けるために切断した。
ワイル・ウエフ号の船長黒木小太郎は天草に避難しようとしたが叶わず、北に流されて五月二日午前六時頃、島影を認めたと思つたとき船は浅瀬に乗り上げ、船将黒木は腰の刀を海に投じて神に加護を祈ったが、空しく大波にのまれ、士官浦田運次郎、薩藩士村上八郎、水夫市太郎、三平の四人のむが助かり、黒木以下十二人が死亡する悲惨事となった。その中の一人が龍馬さんが弟のように可愛がっていた池内蔵太だった。
龍馬さんは寺田屋事件でようやく難を逃れて左手の傷を鹿児島で療養中であったが、六月十四日鹿児島より下関に赴く途中、社中の一行を連れて五島に渡り、自分で碑文を書き、土地の庄屋に碑を建立させ、同志の霊を慰めた。江の浜の墓地には今も碑文、遭難者名を刻んだ墓碑がたっている。
土居先生に私も連れて行って下さいよとおねだり。ついでに長崎にも。
拝啓 龍馬さん
一筆啓上仕候と書きかけて、さて龍馬さんはこの一筆啓上仕候で始まる手紙を何通書いたのかが気になり、宮地佐一郎先生編の「龍馬の手紙」を開きました。
結果11通を確認。これは、現在知られている手紙総数139通の1割弱にあたります。そのうちの5通が、父八平と兄権平宛の手紙の書き出しとなっています。二男と云う厄介の身としては乙女姉さんへの手紙のように自由闊達には書けなかったんですね。そのうえ、この書き出しで始まる文は、どこかシャッチョコばって堅苦しい。重要な節目に差し出した手紙だからでしょう。
さて、この平成維新とも言うべき政権交代が実現したものの、半年を待たずして、はやくも鳩山政権の迷走止まるところを知らず。政権メルトダウンの様相を呈してきました。そして、巷には龍馬さん、あなたの再来を希う声が満ち溢れています。それは、薩長同盟、亀山社中、船中八策等の事跡がもたらす英雄としての貴方の再来を望み、この時代、龍馬さんがおればなんとしただろう、何をしてくれるだろう、どんな方向を指し示してくれるだろうとの切なる願いからに違いありません。もちろん自身龍馬の如く生きることを願う若者も数多。
原文では読みにくい年代の方もおられることから、津本陽先生の現代語訳を引用します。
しかし、ほぼ海軍のかたちをととのえたのは、貴兄の知るところです。
数年来東西に奔走するあいだに、しばしば土佐藩の上士たちに会い、知らぬ顔をして通り過ぎました。
人として父母の国を思わないものがあるでしょうか。望郷の情を耐え忍んで故郷の人にも気付かぬふりをしたのは、情のために道を踏み誤り、宿志を遂げられなくなることを、おそれたためです。
志を達することが出来なければ、どうして君公の御顔を拝することができましょうか。
これは私が浪人として天下を往来し、仕官することなく、半生の労苦を辞さないところです。
貴兄は私をかわいがってくれるので、ここに日頃の志を述べるところです。お察し下さい。』
本当に多くの友人知己を喪う悲しみに耐え、なおそれを乗り越え、『それハそれハおそろしい義理というものあれバこそ、ひとりのをやをうちにをき、玉のようなる妻ふりすて、ひきのようなるあかごのできたに、夫さへ見ずとおけいとハ、いさましかりける次第なり。』(慶応2年1月20日池内蔵太家族あて・原文ママ)と池の家族に諭す手紙を書いている龍馬さんの覚悟を皆さんは知っていましたか。
そして、今どれ程の人々がこれ程の覚悟を背負うことが出来ることでしょうか。
本当にその覚悟が有るのか無いのかと龍馬さんから厳しく問われている手紙に思えます。
神戸高知県人土陽会会員のN沢さんの尽力でのこと。
もう少し早くこの企画を知って居ればもっと広報の方法もあったのだがとの言葉を頂く。
それでも、早々にJ:COMで選考会と龍馬講演の広報を打って下さる。
おまけに、当日取材も行って下さる。時間にして2分ぐらいにまとめてニュースとして流す予定とのこと。
ところで、このJ:COMという固有名詞を最近よく耳に、目にすることから早速検索してみました。
住商資本のケーブルテレビで、各地の既存ケーブルテレビを吸収して、どんどんネットを拡大中だ。
神戸芦屋局も最近三木まで範囲を広げてホームパス世帯(直ちに接続可能な世帯)が767,700とあった。
全国では1236万のホームパスに対して視聴契約している世帯は326万。
とすれば、30%の歩留まりとして、22万世帯にこの予告とニュースが流れることになります。
おまけに、今日高知新聞大阪の西村記者からも電話取材あり。
彼には1年も前から記事にしてくれと散々頼んでいたが、どうも気が進まなかったようだが、これ程世間が龍馬ブームとなった今、本社から何故取り上げないのかとの指示が有ってのことなのでは。
いよいよ、大賞選考会と龍馬講演へ向けて機運が高まってまいりました。
皆様のご協力に心よりの感謝を捧げます。
「それより種々龍馬より申し上げ、(渡辺、本山は)大いに時勢を御看破に相成り、実に薩長と同心協力尽くさずんばある可からずと云われ、それより小銃のことも無論に受け取り候事に致すべしとの御結論は運ばず・・・」
岡内はこのように佐々木に報告している。そのうち夜も更けたので、今夜限りではなくさらに会談しようということになり、「この語の出会いは吸江の寺にすればよろしからん」ということになった。
それから「御三所より白酒をお持たせ」だったのでそれを飲みながら上士、下士の差もなく、しばらく楽しい話が続いた。
会談はその後も吸江の寺で再三行われ、ライフル銃買い上げの案件は龍馬の希望通りに処理された。
JR神戸休暇への記事中神戸ウオーキング協会主催のJRふれあいハイキングのうち4月18日の「龍馬と陸奥宗光の足跡を訪ねる」が2時には終わることを見つけ、2時45分からの龍馬講演会への案内ビラ配りの了承を得た。
そして今日31日、究極の手段である新聞の大々的な取り上げの幸運に恵まれることとなりました。
神戸新聞・三宅記者から突然の取材申し込みと龍馬さんに対する質問の数々。
ちょうど今日は丸山にある適寿リハビリテーション病院会議室で作業部会と龍馬甲子園2010段取り打ち合わせがあることから、その様子の取材写真撮りとなった。
三宅記者がかなりの場面を撮って行く。
手元の原稿案もかなりのボリュームだ。
何気なく、どのコーナーでの掲載になるか聴いたところ、青空主義ですとの返事だ。
青空主義と云えば月いちほぼ一面を使っての特集組だ。
なんと大変な取り上げだったんだ。龍馬ブームもここまで来た訳だ。
ほんと龍馬さん侮るべからず。最後の最後に強烈な援軍を贈って頂いた。
記事掲載は4月9日の予定。18日にはギリギリ間に合う。
何時も龍馬イベントを催すたびに感じる見えない大きな力の助けを今回も痛感。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)