書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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サッカーのリーグ戦第2戦会場が奈良教育大グランド。ただ応援に行けば良いのに、生来の好奇心がそれを許さない。おまけにグランドのすぐ裏手に萩の寺の表示がある。
こうなれば、時間の許す限りお参りして、もろもろのお願いを託さねばなりません。

萩の寺即ち新薬師寺は今はこじんまりとした構えとなっているが、創建当時は光明皇后が聖武天皇の病気平瘉を願って建立されたもので、新薬師寺と七仏薬師像を造営したと記されている。
ところが創建から33年後の宝亀11年(780)、落雷により建物の殆どを焼失している。
金堂は平安時代に倒壊、何時の頃からか、他の目的で使用されていたお堂が金堂(現本堂)に転用それた。
今、眼前にある薬師如来坐像は平安初期の制作とされる。
周りを囲む十二神将立像は奈良時代の日本最古の像とされますが、もとは新薬師寺のものではなく、近くの岩渕寺から移したものと伝えられる。

薬師如来様を取り囲む十二神将。この取り合わせはとても説明のような寄せ集めたものには見えず、最初からこの様に組み合わされ、神将は未来永劫、憤怒の面で薬師如来様を守り通そうとしているかに思える。
その中でも、写真のバサラ大将像がお気に入りで、暫くはその前に立ち尽くして睨み合っておりました。
堂内にこのバサラ像の復元写真があり、創建当初の煌びやかさを彷彿させる見事な色どりを見せている。
今は、神さびて、時代がかり、モノクロに見える結構から祀られた像全てが、この様な極彩色の光輝いていたことを想像するうちに、当時の庶民の目にこれらがどう映ったことだろうか考えさせられる。
それこそ、この世の極楽浄土ならんと魂を抜かれるほどの驚きで見上げた事でしょう。
必ずあの世はあって、この苦界である現世から一刻も早くお淨土に召されたいと願う姿。
思わず千年を遡って手を合わせておりました。・・・祈る必勝・2部復帰。

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 能登各地で繰り広げられる夏秋の祭りには「キリコ」と呼ばれる巨大な御神燈が担ぎ出され、夜を徹して町内を練り歩く。
「キリコ」とは「切子燈籠」を縮めた呼称で、中能登周辺では「奉燈」とか「御明し」(おあかし)と呼ぶところもある。
この「切子」が、神輿の渡御にお供して道中を照らし、神様をお守りしながら漂い、乱舞する祭りが「キリコ祭り」。
能登で「キリコ祭り」が行われるところはおよそ80-100ヶ所と言われ、驚くばかりだ。
7月から9月半ばまで、能登のごこかの町や村で、毎夜の如く、若衆の威勢のよい掛け声と笛、太鼓、鉦の音が聞こえてくる。
大きなもので高さが14-16メートルというキリコがあるが、もとは神行行列で子供が一人で持ち歩いた笹きりこがルーツで、これが永い年月をかけて、現在のような「担ぐ山車」ともいえる、巨大で華麗なキリコに発展した。
その他、この半島の祭りの多彩さは群を抜いていて、そのどれもが奇祭と言える特色をもっている。
その上、他に見られるような優雅な踊りなどはほとんど見られず、日頃の鬱憤を爆発させるような激しい若衆の身体と身体のせめぎ合いが繰り広げられる。
神輿にしても、川・海に落としたうえ、なお水中に抑え込まないと祭りは終わらない。
御陣乗太鼓を打つ狂気に通じる神狂いの風土が有るに違いない。凄まじくも美しい。
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 NHK龍馬伝の毎回必ず姿を見せるのが山内容堂である。御隠居様、老候と言われているが、まだ33歳の筈。しかし、近藤正臣演じる容堂の髪はかなりの老人を彷彿させる。人物考証もしっかりやって欲しいもんだ。
その容堂は井伊大老から一橋派とみなされて土佐藩品川下屋敷で安政6年9月4日から文久2年8月11日まで37ヶ月謹慎させられている。
謹慎生活といってもあまり応えた様子は無く、漢詩と酒を愛した酔鯨公の名に恥じぬものだったようだ。
しかし、桜田門外の変で井伊直弼が首を打たれるの知らせに接するや否や、次のような詩を詠じ本心を吐露している。

亢龍喪元桜花門    亢龍元(くび)を喪う桜花門(おうかもん)
敗鱗散与飛雪翻    敗鱗は散り飛雪となって翻う(まう)
腥血如河雪亦赤    腥血河の如く雪亦赤し
乃租赤装勇無存    乃租の赤装勇存する無し
汝到地獄成仏否    汝地獄に到りて成仏するや否や
万頃淡海付犬豚    万頃(ばんけい)の淡海犬豚に付せん

多分大雪の朝、品川下屋敷で雪見酒を煽っていた容堂のもとに桜田門外の変が伝えられた直ぐ後に詠んだに違いない。
乃租とは先祖の事であり、赤装とはかの有名な武田の赤備えをいい、井伊がその遺臣を多数召し抱えて赤具足として勇名を馳せていた。その赤具足の勇者などおりはしなかった。お前は地獄に落ちて、成仏など出来る筈が無い。淡海(琵琶湖)など犬豚にくれてやれと罵る。
相当恨みは深かったようだ。
 武田勝頼土佐の会によれば、かの武田信玄の4男である甲斐武田家20代当主「武田勝頼」は定説では天正10年(1582年)天目山で自害したとされているが、高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ち延びたとする。
その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後名前を「大崎玄蕃」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(1609年)8月25日64歳で没し、鳴玉神社に葬るとの記録があるとのことだ。
丁度今年は没後400年の年に当たり、伝えられる玄蕃踊りや玄蕃太鼓を催して勝頼を偲ぼうと盛り上がっている。
その勝頼の長男信勝は津野町に入り、大崎五郎と名乗り、葉山を流れる川を甲斐の川と名付け(現・貝の川)、玄蕃踊りを広め大崎神社を勧請したという。
津野の地での恩義からか、天正13年に長宗我部元親が秀吉の四国征伐に敗れて、土佐一国のみの領有を許された際、元親の3男津野親忠が人質として差し出されたのに御家人として信勝が付き従ったとされる。
関ヶ原の合戦直前に親忠が盛親に詰め腹を切らされたのちも、一族が大阪夏の陣に馳せ参じたとの話も伝わっている。我が一族と意外や武田との濃厚な繋がりが有ったかも知れない。
これも歴史のロマンと言っていいんだろう。


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 輪島と言えば朝市、朝市と言えば輪島。ある旅雑誌の記事を見て予約を入れた「八汐」は、かなり期待を裏切った。鯛の活造り風と鯛シャブと鯛づくしで、明石の我々には余り嬉しくは無い。むしろ地魚の活きの良いのが御馳走なのに。その不服分は、窓外の日本海の眺めと、日の出の見事さで辛抱しようか。
8時には始まると言う朝市を目指して早めにチェックアウト。港の一角、朝市専用駐車場に車を置けば、そこは朝市通りの入り口だ。
月曜日とあってまだ観光客の姿はまばら。そう朝市は完全に観光化していて、地元の買い物客の姿は見かけなかった。
朝市が開かれている通りのお店は永年の朝市の恩恵で、立派な店構えが並ぶ。一方、屋台・出店を開くおバアさんや女性店主は、昔と変わらぬ佇まいで、思わず声を掛けたくなるような姿で商いに励んでいる。
中には、永年屋台で儲けて元銀行の跡ビルを買い取り、食事所とお土産・観光案内所としているやり手の売り子さんもいる。もちろんいまだに屋台を出し続けているんだとか。
教えられた51番に行ってみたが、活地魚・一夜干しなど輪島らしい品ぞろえで、これは商売が上手と感服。
思わず、のどグロの一塩を買ってしまった。
勿論輪島塗のお店の多い事。それぞれが工夫を凝らしての客集め。
値段も塗物に関しては朝市内での競争からか、ホテルの価格の半額で同じものが店頭に並んでいた。
昼食を取った割烹・名月の親父さんに、今度泊るとしたらどこが良いかと尋ねると、ルート・インに泊って夜はうちでお料理を食べるのが一番と返事が返って来た。
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