書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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今年は一念発起、東北の櫻を観に行こうと、その気に成ったのは、2月24日神戸新聞夕刊の大広告を目にしたことからか。3月3日にはもう申し込みの電話を取っていた。そもそも長期の団体ツアーに参加した経験は5-6年前に2泊3日の北海道ツアーに行ったぐらいで、殆どが車で出かけて、途中からとんでもない方向に計画を変更し、あとで「何でこうなるの」の言葉が飛び出すような仕儀に相成るのがお約束。しかし、東北となると土地勘まるで無く、大学1年の10月に函館であった全日本吹奏楽コンクール一般の部で優勝したあと、他のメンバーは十和田湖・奥入瀬見物をして帰るところを、私は関西大学サッカーのリーグ戦があるため、泣く泣く一人ぼっちで東北本線を南下したことぐらいのこと。未だに、秋田・岩手・山形・宮城の位置関係が分からない。このツアーのテーマは青森・弘前城ー岩手・展勝公園ー秋田・角館の東北三大櫻を愛でることとある。そな間、近場の櫻も観ていこうという欲張ったプラン。後で、旅程を辿ってみると、バス移動だけでも1,000K弱の強行軍であったといえる。・・勇躍新大阪千成瓢箪前に集合して初めて11組夫婦22人のメンバーと判明。比較的少人数の少々贅沢なツアーといえる。まあこれなら、ユッタリト旅をたのしめるのではとの予感あり。東海道新幹線はこれも初めてのグリーン車を体験。まあゆったりしたものだ。そして、東北新幹線へと乗り換えに。このホームに立つのも初めてのこととて、いろんなデザインの見慣れぬ新幹線車輌に目を奪われる。特に今回乗車するやまびこ209号のグリーンは2階車輌になっているとか。ホーム上を「MAXとき」やら「こまち」やらの顔を写すのに忙しい。車窓から眺める景色も、2階席の高さ故か、なかなか新鮮な感じがする。あっという間に大宮を過ぎる。ここなどまだ充分東京への通勤圏でんな。・・郡山へは2時間とかからない。人もまばらな駅前ターミナルにバスガイドさんのお出迎え。乗車のご挨拶の第一声は三春の滝櫻も青々と美しいとのこと、一瞬耳を疑がった。
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あの愛想のわるい親父も元気でいることを確かめて一安心。
地名をとったのか「ひなせ辛幸(からこう)店」とあった。こんなところで引っかかるのはやはり花より団子の血筋の故か。その辛幸峠が山道の始まりとなっている。旭川に沿って目指すはたけべの森公園。
やっと不動の瀧休憩所に辿り着くころには、もう帰ろうかとのぼやきが飛び出すこと数度。ここで弘子ちゃんはギブアップとなりました。本音はここから引き返したいところながら、ここで帰れば三十三ケ所の納経が完成しなくなるし、またのお参りは考えられないと考え直し、それでは俺が往ってくると重い腰をあげる。・・見上げるばかりの階段は延々と眼前にあり、足腰に迫る乳酸の高まりを堪えながら、50段も上がらぬうちに、腰を切り株に降ろして一休み。それを何度繰り返したことか。それでも17丁の石柱を過ぎるころ、もう少しで上りは終わりですよと声を掛けられて、心なしか歩みが軽くなる。上りきったところに境内入り口と表示あり。やれ嬉やと進む下りの参道の楽なこと限りなし。右手にはるか下界の展望が開け、もう目指す札所のまじかなこと間違いなし。・・上醍醐准胝堂の旗がはためいた頂まで、それでもまだ80段ほどの石階段を登らねばなりません。お参り・納経を済ませて、セルフで撮った我が姿を見てみると、その疲れ具合が伺えるほどの応えよう。この山中にも係わらず、不思議と携帯はバリ3状態で、今から降りると弘子ちゃんに電話したのが3:57.。この際帰り道の段数だけでもカウントして記録に残そうと一歩を踏み出した。おかげで肝心の醍醐水を頂くのをコロッと失念。最近この手の
もの忘れを度々繰り返している。・・不動の瀧で合流して下醍醐の山門に辿り着いたのはもう5時過ぎとなっていました。結果発表・・・参道入り口ー不動の瀧 400段・・・不動の瀧ー境内入り口 険しい730段 境内入り口ー准胝堂 141段 合計 1271段 たぶんこの参道の段数のカウント数を発表した最初とならんことを期してここに明記いたしました。
今年の櫻は開花が順調とか。3日夜の天気予報では、この週末から天気が崩れるとのこと。急に思い立って4日、醍醐寺の櫻を見に行くことに決定。・・・醍醐寺は『秀吉の醍醐の花見』として知られているが、醍醐寺そのものは、真言宗の宗祖・弘法太子の孫弟子にあたる理源大師・聖宝が貞観16年(874)、醍醐山上に草庵を結び、准胝・如意輪の両観音像を彫刻し、堂宇に安置したことに始まる。
開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって、次々に堂塔が建立され、天暦5(951)年には五重塔が完成。山上山下のまたがる大伽藍が整ったといわれている。・・その秀吉が醍醐の花見に際して、翌年の花見のためにもと秀吉自らが基本設計をおこなったのが三法院庭園である。作庭は4月ころから始められ、その年の8月に秀吉が死去したあとは義演の指導のもとで続けられた。作庭は義演が亡くなる1624年(元和10年)までの27年間にわたった。三宝院境内のしだれ櫻はとくに有名で天下の名石『藤戸石』とともに必見の名勝であります。・・そんな秀吉でさえ見ることがかなわなかった櫻の盛りを見るうちに、恩賜館展示の前大納言・中山愛親が記した醍醐山の名花という絵巻に目を奪われてしまった。櫻の其々の姿を描き、その微妙な差異を見過ごすことなく書き上げてある。其々に似つかわしい名前が添えられ、その名からだけでも、たたずまいが想像できる。その名を記すと・・・小さくら・紅の小桜・きさらき桜・かさねの小桜・糸さくら・単の伊勢・重の伊勢・青葉の山桜・三よし野・重の糸桜・赤紫の山桜・うばさくら・塩時・入相さくら・ひとえの江戸・地主・芳野・きりか谷・かさねの江戸・とらの尾桜・明ぼの桜・普賢象・しくれさくら・楊貴妃・奈良の八重桜・法輪寺・白のにほひ・樺さくら・ひとえの浅黄桜・廊間桜・常盤桜・重の浅黄・有明桜・重の有明桜・玉桜・・すこしは桜満開の情景が浮かんできましたか。
開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって、次々に堂塔が建立され、天暦5(951)年には五重塔が完成。山上山下のまたがる大伽藍が整ったといわれている。・・その秀吉が醍醐の花見に際して、翌年の花見のためにもと秀吉自らが基本設計をおこなったのが三法院庭園である。作庭は4月ころから始められ、その年の8月に秀吉が死去したあとは義演の指導のもとで続けられた。作庭は義演が亡くなる1624年(元和10年)までの27年間にわたった。三宝院境内のしだれ櫻はとくに有名で天下の名石『藤戸石』とともに必見の名勝であります。・・そんな秀吉でさえ見ることがかなわなかった櫻の盛りを見るうちに、恩賜館展示の前大納言・中山愛親が記した醍醐山の名花という絵巻に目を奪われてしまった。櫻の其々の姿を描き、その微妙な差異を見過ごすことなく書き上げてある。其々に似つかわしい名前が添えられ、その名からだけでも、たたずまいが想像できる。その名を記すと・・・小さくら・紅の小桜・きさらき桜・かさねの小桜・糸さくら・単の伊勢・重の伊勢・青葉の山桜・三よし野・重の糸桜・赤紫の山桜・うばさくら・塩時・入相さくら・ひとえの江戸・地主・芳野・きりか谷・かさねの江戸・とらの尾桜・明ぼの桜・普賢象・しくれさくら・楊貴妃・奈良の八重桜・法輪寺・白のにほひ・樺さくら・ひとえの浅黄桜・廊間桜・常盤桜・重の浅黄・有明桜・重の有明桜・玉桜・・すこしは桜満開の情景が浮かんできましたか。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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