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このツアーの魅力は今日の中尊寺・金色堂拝観でした。しかし後になって、東北ツアーの殆どに金色堂拝観が組まれていて、この後もツアーを利用する場合、何度もお参りすることになりそう。仙台の町には昭和41年11月20日全日本吹奏楽コンクール仙台大会に出場した時、青葉城を皆で巡ったことを覚えている。あれ、これも東北経験の一つにカウントしなくては。しかも就職一年目の秋だよね。つくづく喇叭が好きで頑張っていたんだ。勿論弘子ちゃんと一緒だよ。仙台の宿舎で二人っきりでいると、隣室から余計な心配をする声が聞こえてくる。「二人だけにしたらあかんがな。子が出来たらどないすんねん。」丸っきりの明石弁の主は高雄弘文君。一年後輩でのちには明石駅前・酒道場を引き継ぎ、OB吹奏楽団の世話を焼いてくれた好漢でパートはチューバ。名手であったが先年さっさと逝ってしまった。明石名物・玉子焼きの宣伝普及に多大なる貢献をしたことが忘れられない。夏休みの合宿で彼が苦手の英語を何故か教えたことも忘れられない思い出だ。この時は自由曲「カレリア」で結果は第2位。これが我々の全日本吹奏楽コンクール出場の最後となった。・・さすが中尊寺・金色堂拝観のため参道を埋め尽くす人波金色堂の前での記念写真屋も大忙しの態。永年の憧れであった金堂が間近に見えてくる。中尊寺は天台宗東北大本山。ご本尊は阿弥陀如来さま。山号を関山といい、慈覚大師を開山(開基850年)とします。12世紀のはじめ、奥州藤原氏の初代清衡公が多宝塔や二階大堂など多くの堂塔を造営。その趣旨は前九年・後三年という長い戦乱で亡くなった人の霊をなぐさめ、仏国土を建設するものであったとか。
14世紀に惜しくも堂塔は消失しましたが、今なお金色堂をはじめ3000余点の国宝や重要文化財が伝わっている。そのなかでも(国宝)金色堂は天治元年(1124)の造営で、中尊寺創建当初の唯一の遺構です。皆金色の阿弥陀堂は荘厳の限りが尽くされ、まさに極楽浄土を現世にあらわしています。ご本尊は阿弥陀如来。その前に観音菩薩、勢至菩薩、左右に三体づつの六地蔵、最前列には持国天と増長天が仏界を守護しています。仏壇(須弥壇)・四本の巻柱、長押は螺鈿細工・蒔絵の粋が施されています。夜光貝(螺鈿)・紫檀・アフリカ象の象牙などの材料は、当時の交易の広さを物語ります。中央の須弥壇の中に初代清衡公のご遺体と泰衡公の首級が納められています。・・続
銅像の前に回りこみ、その銘板を確認してみると、高橋清治郎翁像とある。初代鳴子町長さんで、この日本人のみの手になるわが国最初のアーチダムである、鳴子ダム建設に尽力された。いまも、鳴子ダムを見渡すこの地で、ダムを見守っておられる様子。気骨ある明治人の一人です。・・最敬礼ののち、我々は厳美渓へと急ぐ。かの仙台藩主・伊達政宗公が「松島と厳美がわが領地の二大景勝地なり」と自慢しては、度々この地を訪れた地である。エメラルドグリーンの水流と四季により色調が変わる両岸の岩と渓谷の織り成す自然美を堪能したといわれます。たしかにその渓谷の美しさも愛でるのに吝かではないが、この渓谷は今では「空飛ぶ団子」・郭公だんごで有名を馳せている。流れを挟んで、渓谷東屋から、対岸の郭公だんご屋さんに、ロープが渡してあり、御代400円を籠に入れて、木版を鳴らすと、お団子とお茶のセットが、するすると届けられる。どうと言ったことはないが、関西でこれをやっても、こうは受けないだろうが、この渓谷を取り巻いて散在する名物おだんごのなかでは、一人勝ちの様子。商売のアイデアはどこでも転がっているものよ。
一泊目の目的地は、鬼首(オニコウベ)温泉の「ホテル オニコウベ」。東北自動車道・古川ICを降りて47号線をひたすら北西に向けて走る。鳴子峡を渡り、鳴子温泉郷といわれる東北随一の源泉数を誇る一帯のうち、荒雄湖のどん詰まり、リゾートパーク・オニコウベのスキー場・ゴルフ場両備の附属ホテルが今夜の宿泊地。外観からしてチロル地方を模した造りで、木組みをふんだんに使った、本格建築。
内装もまるでスイスに遊ぶようなロッジ風。一時アルプスの少年・少女となって過すのもわるくない。
11組の夫婦が一同に会しての夕食も有る意味奇妙な風景で、風雪の30-40年を耐えた番いが、これまでの経緯を水にながしたように、いい雰囲気で打ち揃う。案外よその夫婦のことは気にかからない。
というのもどう見てもうちのカーチャンがナンバーワンですわ(とみながそうおもっている)。そんなこんなで其々が部屋に引き上げ辺りは静まってゆく。その客室も広々とした設えで、おまけに窓の向こうにはスキー場のリフトとゲレンデが広々と広がり、禿高源の山頂へと裾野が続いて行く。照明灯の光が照らす先にはまだ名残の雪さえ見える。少し雨が降ってきたようだ。・・・一夜あけて、窓外はモヤがでて一面乳白色のベール。午前6:00起床す。もう一風呂浴びて、美人の湯を愉しむ。朝食のバイキングを終えるころには、なんとモヤが晴れ、夕べの雨が汚れを洗い流した故か、透き通るような青空をバックに、新緑の山肌が萌えるよう匂っている。そして雪渓の白がキラキラと輝いてまなこに入ってくる。2日目は上々の天気に恵まれそうである。
見事に葉桜となった姿が飛び込んできた。小高い丘の中腹に位置する滝桜は、その威容は十分で、辺りをウロツク民草を見下ろして1000年以上はこの場所に屹立し続けて来た訳だ。この丘にやってくる道すがら、民家の庭先、山間に咲いていた紅下垂は全部が三春滝桜のDNAを有しているとのこと。その根元の周囲10.5メートル、目通り幹周り9.5メートル、枝の広がり東西約22メートル、南北約17メートル、枝垂下して地表近くに及び、その花濃紅艶美とある。大正11年10月、わが国の櫻を代表する巨樹として天然記念物に指定されたとか。その際同時に5本の櫻が指定されたが、それ以来そのうちの山梨県の「山高神代櫻」・岐阜県の「根尾薄墨櫻」および三春滝桜は「日本三大櫻」とよばれるように成ったらしい。櫻御本体よりも、上記のような説明書きに目がいくようではしかたがないと、丘の上の神社にお参りし、坂を下っていく途中、公園の脇に接して建つ、大きな萱葺き屋根をトタンで化粧した民家の庭先に、立派な鯉のぼりの力強い泳ぎとともに、6流の武者幟が風にハタメイテいるのを目撃。さっそくまじかまで近づいて、見上げると、上に二引きの黒線をあしらい、6流とも同じ家紋がその下に配され、またその下には、其々違った家紋が染め抜かれている。その下は、鐘馗幟に土地柄か、牛若丸と弁慶、川中島の戦い等、ねぶたの画材と同じ趣の武者絵が染めこまれている。察するに、6人の男児がいて、其々の嫁側から、端午の節句のお祝いに贈られたものなのか、一人の長男誕生に、親戚一同が祝ったものか、私にも3人の男の孫がおりますが、ここまで十分な節句の祝いはしてやれてないことに、少し反省の態。この家の男児はすくすく雄雄しく育つこと間違い無しと見ました。
『さびしさの波間に見ゆる桧原湖の秋』1967.10.17・・・なんのことやら。
ところで肝心の三春の滝櫻が青々と美しいとの現況を知らされて、このツアー参加を決めた後、日本列島を襲った異常気象ともいえる今年の櫻開花の早やそうな予感が的中したわけ。三春から十和田湖畔までまっすぐ走っても480Kはあります。そんなに広い範囲のなかで、目的の櫻全てが満開であるはずがないことは承知ながら、みごとに花が落ちた滝櫻のもと、決められていた櫻祭りが開催されているさまは、思うようには行かない自然相手の厳しさを知らされているような感じ。しかし、せっかくはるばるとやってきた三春町、滝櫻といえば東北の三大櫻のまだ上をいく、日本の三大櫻に選ばれて名高い。せめて、散り残りの匂いでもと整備された観光山道を辿る。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)