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人生の曲がり角に際して、神頼み・仏頼みと言う訳か、最近神社仏閣詣りばかりの日々。この22日は我が67歳の誕生日ということもあって、かねてから弘子ちゃんが行こうといって聞かない香嵐渓紅葉狩りと伊勢神宮お参りに出発。同時に旅すがら25日のがんセンター行きの際いよいよ決めねば鳴らない前立腺がんの治療方法を決めようとの思いがある。すでに開通久しい新名神とやらも走ってみたい。
香嵐渓は名にしおう紅葉の名所という前知識を頼りに、三州足助観光教会のHPをプリントアウトして出発。
距離にして260Kはあるらしい。久しぶりに第二神明経由で向かうつもり。上りの吹田SAで遅い昼食をとる。
京阪レストラン・刈羽は下りの大盛況と違って客が明らかに少ないだけ、でてきたハヤシライスの肉もライスも盛がよろしい。さておそくからの出発ということで、香嵐渓は夜のライトアップをとりあえず観て、豊田市あたりでホテルに泊まり、翌日早朝にもう一度、香嵐渓を見直そうと計画を立てる。
結果的にはこれが大正解で、かくも狂乱といっていい紅葉狩りに巻き込まれる被害が少なくて済んだ。
草津Jからの新名神は爽快そのもの。まるで雲の上、空中を飛んでいるような気持ちだ。あっというまの亀山J。実はここからが大変で、四日市ー亀山J間の渋滞は常態化している模様だ。なにせ新名神に従来の名神の交通量の三分の一が流れ込んでくる上に、伊勢道路からの上り交通量も結構なものだ。交通量集中で混みもしますわ。
渋滞をやっと抜け出し東海環状線へ豊田東Jから入り豊田松平ICで地道に下りる。ことは順調に運び、そろそろ暗くなり始めた空を見上げて、もうすぐ香嵐渓と思ったのが甘かった。
県道39号に入り、北上を続け、153号と合流。ここまでは良かったが、ここで車はピッタットと止まり、眼前にはどこまでも続くテールランプの帯。右に巴川の川音がするのみで、テールランプの帯は右に大きく曲がりその先はまったく見通せない。
結果、この渋滞を抜けるのに90分を費やし、距離にして4Kあまり。香嵐渓の看板を右に曲がって早々に臨時駐車場に誘導されそこから歩くこと15分。着いたころには7時を回っていたでしょう。まるで門前にてんこ盛りに屋台が並び、押し合いへし合いの大変な人波。名所の待月橋を渡るのも一苦労の有様。
ここで、皆様に忠告。もし香嵐渓お出ましの予定あらば、スムースに観紅葉が出来る現地情報および秘訣・要領をお教えいたしますから。決して黙って行かないで下さい。
2年ぶりの坂本龍馬・中岡慎太郎墓前祭に参加した。欲張って前日朝早くから京都入りし、西国三十三所のうち、まずは石山寺と岩間寺へ納経。とくに石山寺は蓮如ゆかりの寺で、その寺容の壮大さには圧倒される。
丁度、源氏物語千年紀IN湖都大津の一環として源氏夢回廊と題し石山寺豊浄澱・紫式部展も開催中。
紫式部が源氏物語を書くにあたって、石山寺の一室に七日間篭ってその構想を練ったとされている。入山料と展示場入場券がセットでお得といわれれば、そうするのが人情。お山に入る前に長々と源氏物語に付き合いさせられることになった。田辺聖子氏の源氏が展示してあり、最近は神戸新聞・明石版に「源氏物語」明石の巻を読むと題して京都橘大名誉教授・鈴木紀子さんのエッセイで忍従の人・明石の君を拝読しておりましたので13帖あたりを丹念に呼んでおりましたら、弘子ちゃんが十二単を纏ってみるといいだした。(写真・左)
まあかなりしもぶくれの顔の紫式部が出来上がったが、そのころの美人の基準は長い黒髪と、下膨れ顔であったらしく、辛抱してパチリ。
やっと展示場を抜けだして、参道の階段を登りつめた境内に広がる石山の威容は、おりから射す日光に照らされて輝く紅葉の彩りと相まって、思わず感嘆の声を漏らすほど。本堂は国指定天然記念物の珪灰岩(石山寺珪灰岩)という巨大な岩盤の上に立っている。瀬田川の右岸に位置し琵琶湖からの流水が音を立てて流れる。
納経を済ませ次に訪れたのが岩間寺。雷除観音で有名なこの寺の名物は日本一の大桂と芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を詠んだと伝わる池があること。といても由緒ある池とは言われるまで気も付かない不勉強。
沖縄旅行の仕上げはやはり、国際通り散策でしょう。6:30の神戸行きANAに乗るには、ゆいレール・牧志駅に5:30着けばいい。このモノレールの便利なこと。時間的な段取りを頭に入れて、国際通りに下り立ったのが時過ぎだったか。通りそのものは日本のどこの街にでも見かける町並みが続く。ただハブ酒の店頭にハブが大口を開けてこちらを睨んでいるにに出くわした
り、南国フルーツSHOPがこれでもかと色とりどりの果物を並べて客を誘う。びっくりするのがおきなわ屋泡盛蔵の店舗の多さ。カヌチャリゾートで古酒をお土産に買った時からもう何軒の泡盛蔵を見かけたことやら。
国際通りはむつみ橋あたりから、沖縄県庁あたりまでを指すのだろうか。沖縄土産と沖縄料理と泡盛屋が軒を並べる表通りから、ちとせ商店街ビルへと向きを変えると、それこそあたりの風景は一変した。なんだろう終戦後の闇市を想わせる活況と、南国色の洪水。応対にでる人の表情の柔らかさ。いくら冷やかしでも失望を顔に出さない。ウチナンチューの純情故か。
御約束の第一牧志公設市場に足を踏み入れた途端、またもや情景は変化し、東南アジアのマーケットにワープしたかのような商品の山。豚の顔がずらり並んでこちらを睨んでいる。魚やの売り台の上は熱帯魚のような色の魚。あらゆる食材のデパート。
そんな店の一軒、仲田鮮魚に引っかかった。大きな伊勢海老に惹かれたからだ。内地で見る伊勢海老の優に2倍は有りそうな雄姿に驚いて思わずこれ下さいと声が出た。この市場では2階の食堂に、買った食材を持ち込んで料理をしてくれる。リーゾナブルな金額で。
伊勢海老だけでは物足りない感じがして、他に何かお勧めはないかと聞いてみる。すかさず貝が美味しいとの返事だ。それも夜光貝。かなりな大きさで、内地では絶対お目にかかれない。私には変な収集癖があって、この15年来、時々お邪魔する、日生(ひなせ)の炉端ひなせに息子たちを連れて行った時は必ずニシ貝の有無を聴き、あれば一番大きいのを頼んで食し、そのカラを持ち帰る。今そのうちの一番おおきいのを(二男夫婦と食した)比べてみるだに、今回の夜光貝のいかに大きいかが分かる。
2回の食堂ツバメに上がって刺身と海老汁のできるのを待っていると、となりの店先が騒がしい。何事かと見てみるとTVでおなじみのダチョウ倶楽部の上島竜兵と寺門ジモンが収録にやって来たらしい。まあお笑いタレントよりも伊勢海老・夜光貝? 夜光貝は食ってみないことにはどうこう言えないし。
やっと届いたお刺身と白みそ汁と夜光貝半分のバター炒め。伊勢エビは内地と比べて歯ごたえが違った。やはり南国の暖かい海で育ったらしく、身にしまりがありません。一方夜光貝はその名前からの印象と違って、コリコリとした噛み心地で、その身の大きさから中々の食感。バター炒めも上出来と言っておきます。
この2階のツバメをはじめとして、お店のほとんどの従業員は中国人なのだろう。聞きなれないイントネーションのたどたどしい日本語が飛び交う。・・・「お客さんこの貝殻持って帰るか」
アジアの夜店で食べているような気になる雰囲気、その猥雑感は捨てがたいものがありました。
10時にはチェックアウトをして、名残惜しいが早、帰り支度となった。ホテルから那覇への途中、万座毛を覗いて琉球村に着いたのが正午。
ある意味、この琉球村こそが沖縄の源風景をかろうじて残しているのではないのかな。古い民家を移築して、島の生活・民俗を見せると同時に、その家屋を舞台に見立てて、あたかも沖縄の日常御祝の席に紛れ込んだような、観客を巻き込んでの島歌と踊り。思わず知らず踊りの輪の中に入ってしまう楽しさだった。
一踊り済めば、演者全員が勢ぞろいして記念撮影を勧めてくれる、もてなしの壺を心得た演出でありました。
このあとエイサーと琉球舞踊の2つのステージを堪能して、またパチリ。サトウキビ絞りの水牛もお昼休みで一寝入り。附属陶房でキジムナーの人形を購入、シーサーもいろいろ並べてありますが、どうも気に入った御面相が見つからず終い。家に帰ればもう6体はあるのよと弘子ちゃん。それでも壁掛けの私によく似た一体を買うはめになった。なにしろ、今度の沖縄旅行で弘子ちゃんが、面白いシーサーを見つけるたびに、私をその横に並べて写真を撮ろうとする。私も負けずに鼻の穴をおっ拡げて期待に応える。奴は永年俺のことをシーサーと思っていたに違いない。
プライべートビーチの砂浜を見ながら、プールサイドでトロピカルドリンクを頂き、美女の泳ぐ姿を見るつもりが、なにやら妻やらトドやらが、水しぶきをたてております。あとは子供ずれのファミリーが如何にも楽しそうにはしゃいでる。007のようには参りません。
沖縄の海の青さに魅入られたように午前中ずっとプールサイドで過ごす。これほど贅沢な旅の時間の過ごし方は恥ずかしながら初めてでございます。
ツァコン状態の嫁に午後の予定を聞いてみると、美ら海水族館に行来ましょうとの返事。確か海洋博公園のなかにあって、巨大水槽がうりものとかは聞いておりました。
海洋博で思い出したのが、昭和49年(1974年)明石ダイエー東館が完成して、それまで映画館の2階で営業していた喫茶リオ・ブラジルが地下のメイト明石飲食街への移転を余儀なくされ、1年半の仮営業ののち、やっとのことでオープンした翌年の夏。かねてから、屋上の有効利用をもくろんで、ビアガーデンの営業を申し入れた際、仮営業で体力を消耗していたことから、椅子テーブルの十分な準備にも事欠いた。
初年度ということで実験的に営業してみたらという有利な条件のもと、ビールメーカーのキリン・アサヒにイス・テーブルの貸出をいらいするが、いい返事が返ってこない。思い余って、サントリーに勤めている同窓の三木氏に電話を入れて泣きついた。もちろん見ず知らず、ただ同窓の誼ということだけで。
それがちょうど沖縄海洋博が終わった直後で、ビヤガーデンに使っていた、少々傷んだイス・テーブルならお使い下さいとの返事を取り付けた。実際届いたテーブルはかなりの痛みで天板がハゲハゲ。これじゃーいかんということで山陽広告の親父さんに頼んでペンキで塗りあげた。そんなこんなで250席を確保しての開店にこぎ着けた。ビル8階の屋上は眼前に淡路島を眺め、北に明石城と向き合うビアガーデンには御誂えむきの立地でした。なれないなか、この年の売り上げはかなりの手ごたえ。これがこのあと23年ものビアガーデン営業のはじまりであったとは。・・・着きましたよとの声に目覚めた目前に、広々とした海に面した美ら海水族館のエントランスが広がっておりました。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)