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土佐清水の町は清水鯖で超有名、かならず食べなくては。車を足摺スカイラインに向けた。
県人会で当たった高知フェリーの乗船券で足摺にやってきたのはもう10年も前、平成12年4月8-9日のこと。その頃はお寺詣りなど考えもつかないことでした。この時、帰明した日に高知市宮原伯母の訃報があり、また取って返して12日の葬儀に参列した。
足摺岬の入り口に到ってそうそうここだとの声が出た。しかし以前よりは随分と静かな様子だ。
確かジョン万次郎記念館ももっと人影があったはず。ただ岬の雄大な眺め、洋洋たる海の表情は全く変わらない。しばし展望台に佇んだ。
窪川・37番岩本寺門前にたどり着いたのが7時過ぎ。安和、久礼、七子峠を経てかっての土讃線終着の窪川。名前だけは知っていて、幡多地方の中心地であり、土佐の人物の主生誕地でもあることは知っておりました。県人会の麻野名誉教授の古里でもあることを昨夜の理事会で聞き及んでおりました。おまけに先生は金襴の納め札を持っておられ、それはなんと八十八ヶ所一三一回目巡拝とありました。
私が平成16年11月6日から始めて丸4年半でやっと六十八所を終えるとこまで。気の遠くなる回数に感服。
実はこんな早朝からのお参りは初めてのことで、納経所が五時までのことは知っていたが、さて朝は何時からだろうと境内をのぞくと、すでに何組かのお遍路さんの姿が見える。七時から始まっているとのことだ。
今は四万十町窪川となっていて道案内に谷干城生誕地の表示を見つけていた。
谷干城と言えば坂本龍馬を厚く尊敬し龍馬が暗殺された時には、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態だった中岡慎太郎から事の仔細を聞き出し、生涯かけて龍馬の暗殺者を追ったことで有名だ。また西南戦争の際には熊本鎭台司令官として西郷軍と対峙、熊本城を守り抜いて戦争の勝敗の流れを変えた人でもあります。
土佐ッポの私としてはお参りせざるを得ない聖地のひとつ。早速岩本寺に続いてお参りする。
二十八日午前十二時53分出発。第二神明大久保ICから明石大橋までは15分とかからない。この時間に明石から淡路に渡るのは初めてのこと。世の中には、こんな機会にすぐさま反応して便乗する私のようなイチビリなど山ほどいるに違いないと、SAを横目に眺めてみるに、駐車している車は少なかった。前後に車の陰もほんの少し。こんな深夜から走り出す馬鹿も少なかろう。鳴門の料金ゲートを通過。割引1000円と表示された時には弘子ちゃんと思わず歓声を挙げた。高松道を板野で乗り換える。250円と表示。そこから徳島道をひた走り。いつも立ち寄るハイウエーオアシス吉野川までノンストップで179.5K。午前3時8分だった。
僕の目論見では納経所が始まる朝7時までには37番岩本寺(窪川)の門前に到着しておかなくてはならない。
若干の仮眠を取るつもりが、そうは易々と眠れない。それではということで走り出す。川之江JCTから高知道だ。高知ICまで後80Kほど。最近2車線となって、ますます走りやすい。トンネルの多さも半端じゃなくて19ヶとあった。土讃線のトンネル数にはかなわないけれど。土佐PAに着いたのが5時20分だったから多分高知Ic通過は4時45分ころだったか。
こんな時悪い癖で、すぐ昔のことをおもいだしてしまう。車を運転しながら昭和63年12月16日のこと。
ブラジルのビルへの補償金を担保に借りていた日新信用金庫の残債1500万の返還を迫られ、おまけに運転資金の調達をいれると2500万の資金繰りが必要。八方手を尽くそうにも金額が大き過ぎる。遂にギブアップかとなって、最期に頼った先が従弟のM君が娘を嫁にもらっている須崎市のマリンゼネコンの総師である西村のおんちゃんだった。親父ともガキの時分からの付き合いがあって、須崎では知らぬものがない、創業社長。若いころから潜水服を着て海中に潜り、マリンゼネコンの草分け的存在で個人名義の自動車学校を経営するなど地方の財閥だった。
なんのアポイントもとらず、そのころはまっていた深夜ドリームラーメンを営業を早めに終えて、予備校の送迎に使っていたハイエースに飛び乗って岡山を目指した。後で聞くと、この時おふくろはもしかして伸一は帰ってこないんじゃないかと思つていたらしい。確かに大歩危小歩危でハンドルひとつ切り間違えば簡単に一貫の終わりとなります。
けれど高知へはまだ旧道の頃で、せっぱつまった気持で車を走らすのは避けて、岡山駅前に車を置いて宇野まで電車で行き、窪川ゆきの南風号始発に飛び乗った。たぶん須崎についたのは午前10時ころではなかったか。
今や、苦心惨憺して走った須崎の近くまで僅か4時間でやって来れた。
もちろん須崎での2500万の調達は奇跡的に成功して、人の温かさに巡り会え、その後の立ち直りのきっかけを得ることとなりました。
そんな思いを馳せて土佐PAでの一服後、須崎東の料金ゲートを通過。またも割引1000円と表示。
この昭和63年と平成21年の落差は何なんだろう。
今日帰ってみると、先日12月4日に行った保津川下りの記念写真がクロネコメール便で届いていた。
確か、保津川下りの3分の1くらい下った、トロッコ駅から降りられる岩場。それもちょうど船が真横にその前を通り、流れもゆったりとした絶好の場所に、カメラマンがたった一人、カメラを構えてスタンバイして、我々の船をパチリと写しておりました。それも船頭さんも声を揃えて「ハイ、チーズ」ときた。
おもわず、今撮った写真を船着き場でわたしてくれるのかと船頭さんに聞いてみる。船頭さんは苦笑いして、いくら便利な世の中でも、そこまではできませんとの返事。後日御宅へ郵送しますから、ご希望の方は今回す回覧板に住所・氏名・写真の大小・枚数を書き込んで下さいとなった。
そのことは、もうすっかり忘れていて、今日着いた記念写真を見て驚いた。これが中々の優れもので、構図・タイミングどれをとってもかなり、これまでするには苦労しただろうという代物。もちろん一組買うことに。
ところで、世に名所旧跡に行けば、どこでも撮影の絶好ポイントがあって、写真やさんが手ぐすね引いて待ちうけていても、団体さんならいざ知らず、個人客はそんなの関係無いとばかりに、それぞれが写真を撮りやっこする。がこの船上では、全てのお客が記念写真に収まる仕掛けだ。
事実、この写真でも23人のうち顔が写っていない人は1人。最前列の私に回覧板が回ってきたときには11件の注文が書き込んでありました。とすれば二人ずれが一組注文しています。それが夫婦なら一組ですむが、友人同士なら2組となる。
年間30万人がこの川を下り、二人が一組の写真を買っても150,000組。8掛けでも120,000組。
最低でも 120,000組×1500円=180,000,000円 多ければ225,000,000円。これだけを独りのカメラマンが映し出す。
もちろん船会社・船頭さんへのバックマージンもいるだろうが、ざっと考えてもこれほど効率の良いビジネスモデルはありません。
振込先を見れば、有限会社 保津川写真 だって。 所在が亀岡商工会館内とあるから、これほどおいしい果実を一人が独占出来る筈がない。きっと既得権益の巣が張り巡らされているんだ。
・・・ああ、私もなりたや保津川写真に。
JR山陰線と同じ軌道を走るトロッコはもともとは嵯峨野線としてJRの支線であった訳だ。このように廃線を観光資源として活用して成功した代表格がこの嵯峨野観光鉄道株式会社。
何せ当今、旅に出れば大手旅行社のツアーが顔を利かし、どこもかしこも団体バス客最優先。このトロッコからして、個人客の予約は受け付けず、当日現地窓口に並んで席を取らねばならぬ不便さだ。
この日も指定席は全部売り切れていて、立ち席ならどうぞという調子。仕方なく4号車立ち席に乗り込んだが、意外やこれの方が進行方向右指定座席にすわるよりよほど左右の見晴らしが良く、20分ほどの乗車時間があっという間に過ぎて行った。
この線は6つのトンネルを潜り、保津川を5回渡る7.3キロ。眼下・眼前・眼上のは保津峡を往く川下り船が何艘も連なり、船上の乗客からは、トロッコを見つけるたびに、盛大な歓声が挙がる。
沿線には開業当時植えられた桜と紅葉が、10余年を経て、立派に成長し、渓谷美と相まって、船から見上げる景色とはまた違く味わいを醸し出している。
12月29日から2月末までは冬季運休となるが、保津川下りが年中無休なのから比べれば、JR西日本の完全子会社で余裕をかましてるんじゃありませんか。
列車車掌がのっけから懇節丁寧にガイドしてくれて、いまやトロッコの名物となっております。途中駅からは大江山の鬼さんの乱入もあり、写真ポイントでは列車を止めてサービスに勤める。これでなくてはいけません。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)