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a675b40fjpeg弘前から今夜の宿泊先・湯瀬温泉へは東北道をつかえばものの70キロ。秋田県鹿角(かづの)市八幡平(はちまんたい)の湯瀬ホテル。ここがなかなかの宿で、フルムーン旅行の締めくくりとしてTRAPICSも少し気を使ったのが分かる。米代川の両岸に8F・12Fのタワーを建て、渓流に渡り廊下を設えて、半ばには昭和8年造の日本庭園を見晴らすベランダまで用意してある。その宿の佇まいに心惹かれるてなことは滅多に経験しないことなのに、この宿は何故か少々お気に入りと言えるかな。シンボルのみみずくを各所にあしらい、玄関から見上げる搭屋にはウインクみみずくが描いてある凝りようだ。
しかしなんといっても圧巻は、日本庭園に屹立する今盛りの枝垂れ桜の見事さ。部屋に落ち着き窓外を見晴らすその眼前に、まったく目線の高さで枝を広げる。さらに驚きは、暮れなずむにつれて、明るさを増すライトアップの光の中に、青空の下とはまた違った美しさ・味わいを見せはじめたことです。430c7575jpeg

























今までに桜見物といえば,野中の一本櫻を目指したり、桜並木を通り抜けたり、吉野山のごとく全山見晴らすことはあっても、座敷に座したままで、窓外の桜と対面するのは初めてのこと。渓流の音に包まれてしばし桜の精に魅入られた如く時を過ごす。通された部屋もまさに庭園を見せる趣向を尽くし、どうやらかなり道楽が入っているんじゃないとの直感は当たっていて、かの玉川温泉・新玉川温泉で稼いだ分をこのホテルにつぎ込んだとのことだ。もうひとつ驚かされたのが、夕食バイキング会場でサービス係としてかいがいしく働くクーニャン達の躾の良さです。名札を見ると王・林・李と記されていて、研修名目で6ヶ月契約でやってきているらしい。鬼首の韓国ツアーユースといい、中国人が中国人を日本の地で接待している様など、この鄙びた東北の田舎にまで押し寄せている国際化の波。ほんとこんなことになっているとは知らざった。お土産を買い足して、ロビーに店開きしている宅急便で荷造り完了。
この旅の最後の夜もなにごとも起こらず過ぎていく。

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                                                                  s-CIMG7381.jpg
























津軽氏の領主としての始まりは、南部氏の家臣であった大浦為信が1571年に独立して津軽と外ヶ浜を強奪したこととされている。そして津軽と外ヶ浜を占領した為信はその後豊臣秀吉から所領を安堵され、近世大名としての地位を確立しました。このころ大浦より津軽に改姓。徳川家康の時代に入ってから為信は家康に属して関ヶ原の合戦に参陣。この弘前城は、津軽統一を成し遂げた津軽為信によって慶長8年(1603)に計画され、二代藩主信枚が慶長15年(1610年)に着手し、翌16年に完成しました。以後弘前城は、津軽氏の居城として廃藩にいたるまでの260年間、津軽藩政の中心地でした。人々が愛でる桜は、明治末期ごろから市民による寄贈が盛んになり、ソメイヨシノ・枝垂れ桜・八重桜なだ約2600本が、園内を埋め尽くす今に至っております。この津軽藩と南部藩はこれをきっかけとして以来今日まで、同県内において確執が絶えないといわれる。桜のあでやかさに隠された両者の言い分は南部衆に言わせると「南部藩の家臣だった、津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」と言い、一方津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り戻しただけだ」と主張する。津軽藩の江戸時代の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩は通さなかったという。幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍についた。しかし目前の公園を埋め尽くす人々の表情からは、どなたが南部で、どなたが津軽なのか、我々には分る筈もない。s-CIMG7365.jpg咲き誇る桜もそ
























んなことに頓着するわけもない。とおもいながらも、もしかして未だ嫁取りなどで、両者の意地の張り合いなどキットあるに違いない。身近な例でも、親父の次姉が同姓の津野に嫁入りしたが、この嫁入り先の津野を平民描字必称令(明治8年・1875年)の際はじめて名乗った偽津野であるといいしゃぎっていたのを思い出す。この一家はかのブラジル移民として戦前に移住してコーヒー園で成功を収め、孫の代では、医師・歯医者などを輩出しているとの風の便りを聞いている。土地にまつわる怨念もふくめた津軽の風土。もう一度太宰を読み直すことから勉強しなおすのも一興かな。

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芦野公園から弘前城にいたる道筋、両側に拡がるりんご園の見事さには目を奪われる。りんごも最近は品種改良と冷蔵設備が行き渡り、年中美味しくいただけるようになった。そういえばりんご園とともに、JAらしき大型の冷蔵倉庫もよく見かけた。日にも在来のりんごがありましたが、ほとんど食られないりんごであります。特に青森の西洋りんごの始まりは、明治8年(1875年)米国人宣教師ジョン・イング師が、教え子や信者などに分与した「りんご」が西洋りんごとして青森県に紹介されたことです。
青森りんごの開祖と称される菊池楯衛が明治10年、農業研究団体「化育社」を結成し産業としてのりんご作りを根付かせたとか。平成17年で苗木が移植されて130年。国内およそ100万トンの半分を生産、生産額は1千億円規模をほこるまでになっています。その間の苦労たるや、われわれの想像を絶する人々の血と汗と涙の物語があったことでしょう。特に、平成3年(1991年)観測史上最高の瞬間最大風速53メートルを記録した台風19号により、県内全域に被害額1741億と言われる大きな被害を蒙った。この19号台風には私も散々な目に遭わされている。明石駅前、今では懐かしくさえ聞こえる「ダイエー明石店東館」屋上で昭和50年(1975年)以来夏季営業しているビアガーデン用の仮説ステージが根こそぎ吹き飛ばされたのはたしか9月27日か28日。同じビルの地階で居酒屋ブラジル営業中、一階隣の酒道場のおばちゃん店員が、お店の2階屋根に、なにやら大きなものが落ちてきたような音がしたが、もしかして屋上ビアガーデンの備品でも落ちてきたのではないのかとの通報。ビアガーデンはその年の営業は終わり、しっかり後片付け、養生はしてあるはず、何が落ちるものがあろうかと、半信半疑で屋上に上がってみると、屋上中央に設えてあった仮説ステージの姿が無い。広さにして3メートル×9メートル高さ80センチの舞台が陰も形も無い。人が15人乗って歌いまくっても大丈夫な頑丈な作りだったのに。・・吹き付ける強風に、屋上に出る塔屋のガラス戸を開けることもママならず見渡してみると、屋上の庭園灯のポールが頑丈なコンクリート造の柵の上方に弓のように曲がって、何かがそれをカタパルトにして、上空に飛び出したかのよう。おまけに、その横のダイエーの広告塔の側面がベッコリ凹んでいるのがみてとれた。この状況を見て初めてことの重大さに気が付いた。舞台が宙を舞って、山陽電車明石駅の駅舎・線路上に落下しているに違いない。まさに事態は絶体絶命であります。しかし、ここで我が人生のうちのベスト3に数えられる「不幸中の幸い」がまっておりました。幸いなるかな、その年の4月7日山陽電車明石駅は高架が完成し、JR明石駅に隣接並行する位置まで北に移転しており、旧の駅舎・線路もやっと撤去されて、舞台が舞い落ちたところは、ただの広場となったところでした。これが、実際運行中の駅・線路上となればそのための事故が発生し、業務上過失・莫大な損害賠償などが発生。いまの私は確実に無いことになっていた。そのころ店にいた中国人留学生のケツを叩いて大急ぎでの跡片付け。私はなお吹き盛る強風のなか、一部引っかかってバタバタはためいている舞台の残りにロープを懸けて、それを身体に巻きつけ必死に引っ張る。しかし地上9階の吹きさらし、体は凧になったかのように振り回される。ほんと生きた心地がしなかったとはこのことだ。格闘3時間余、綱引きに強くなったのはこの時の経験故か。いま思い出すだに身震いする、悪夢の一夜。その台風が青森にも空前の被害をもたらしていたなんて。・・・俺はまだ幸せ者だったんだ。

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20歳のおれならば多分バスを飛び降りていたことだろう。北へと向かう101号線の分岐。右へとれば「斜陽館」の表示あり。しかし、バスは非情にも左へと進む。せめて館の前を通り、一目だけでも斜陽館を見ておきたいとの、ささやかな願いは打ち消され、今やかなり色褪せた桜への想い。金木小学校の校庭を見下ろしながら、バスは芦野公園に到着。この公園も今や桜祭りの真っ最中とか。繰り出した人々は、桜よりもギッシリと立ち並んだ露店に群がる。この光景は日本全国みな同じだなあ。あろうことか、公園随一の紅枝垂れの枝下に、ブルーシートで囲った屋台あり。これだけは許せないと思った。商売人も美意識を持たなくっちゃ。噴水の水面を覆う桜の花びら。なおひらひら散り盛る向こうに津軽鉄道・芦野公園駅を見つける。s-CIMG7326.jpg五所川原ー中里間20Kを走る津軽鉄道は旅情漂う景色の中、夏は
風鈴列車、秋には鈴虫列車、冬になるとダルマストーブが社内に設置されストーブ列車となります。春は線路の両側に桜が並び立ち、今散る花びらがベールを掛けたように舞盛る。その時、線路に伝わる列車の響き。思わず線路わきまで駆け寄った目前を、黄色い車体に、緑のラインが引かれた5両連結の電車が通り過ぎてゆく。その時目に飛び込んできたのが「走れメロス号」の文字。斜陽館への立ち寄りを断念した私を慰めるかのように、その文字を記した電車はスピードを増して、五所川原方面に走り去ってゆく。「走れメロス」の話はあまり好きになれなかったけれど、人間長い距離を走る間に、さまざま、いろんなことを考えながら走るんだとの点では実感を共有できたものです。サッカーの練習のUP時の鬼の先輩が発するもう何度目か分からない最後の一本の掛声を聞きながら、頭の中はいろんなことを考えていたもんです。

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東北自動車道ー高速浪岡ICをおりて101号線を五所川原市に向かう。つきあたり、左右振り分けの道路の正面に「立ネブタの館」の大看板が見える。そうか、ここ青森といえばねぶただ。s-CIMG7303.jpg五所川原立ね
























ぶた祭りは「青森のねぶた」と「弘前のねぶた」と並ぶ青森三大ねぶたの一つで、高さが最大で20メートルを超える山車の壮大な運行が魅力となっている。前々からの憧れの的。東北の紅葉とねぶたは必見ものだ。必ず来るぞと心に誓う目前。岩木山を見上げる。「別称津軽富士。青森県西部にある休火山で鳥海火山帯に属す。標高1625m。山体は円錐形で山頂部は中央の岩木山、北の厳鬼山、南の鳥海山の3峰からなり、津軽平野に富士ににた姿でそびえる。古くから霊山として農民の信仰を集めた。南麓に岩木神社があり、江戸時代からお山参拝の行事がある。」水山ガイドさんの流れるような説明を耳にしながら、岩木山・津軽富士とくれば思い浮かべないわけにはいかない人物・太宰治に思いは遊ぶ。そう大学浪人している最中。大道予備校での受験勉強をほったらかして全日本文学全集を読みあさるうちに、太宰治にはまっちゃった。太宰の影響は凄いの一言。「女生徒」じゃあるまいし、書く文体まで太宰そっくりになってしまう。彼独特の言い回しを真似て、お伽噺作りに熱中した。弘子ちゃんに出した手紙も今みれば、読めたもんじゃない。太宰調そのもの。しかしあの頃はそれで真剣そのものだったんですよ。「生まれてきてすみません」の心境。「走れメロス」の世界に共感。そんな文学的麻疹ともいえる凝り固まりから抜け出したのは、神戸商大に入学し、それもサッカー部へ入部。それこそなまった身体をグランドで鍛え直し始めたころだろうか。またまた話は遡るけど、小学校時代、不思議と付属小での校内大会競技はサッカーでした。それこそ占領下、野球全盛の時代どうしたことか。あとで分かったことは、体育の吉井先生が兵庫県国体サッカーの補欠だったらしく。無理やり、自分の得意とするサッカーを教えようとしたことからだそうな。けれどそのお陰で、私は名センターフォワード・エースストライカーの名前をほしいままにするほど巧かった。と自分では未だに思っている。そんな経験を思い出して、商大に吹奏楽部がなかったことから、サッカー部に飛び込むこととなりにけり。

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