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桂月先生の遺徳を偲びつつ、奥入瀬を抜け、弘前城の桜を目指す途中、五所川原市の芦野公園の桜まつりに立ち寄る。道中、バスはあの八甲田山を越えるという。かの名高い「死の雪中行軍」・八甲田
越えである。私の中では、八甲田は八甲田山という単独の岳が聳え立つているというイメージでいたところが、名ガイド・会津若松の士族のながれを誇る水山さんの、「八甲田とは、那須火山帯の中の、八甲田火山群地域を八甲田連峰と称し、高田
大岳(1585m)、井戸岳、赤倉岳、前獄、田茂萢(やち)岳、、小岳、硫黄岳、石倉岳、雛岳の10の山々を北八甲田と言い、櫛ヶ峰をはじょめ6峰の山々を南八甲田と言います。」との説明にまず先入観の過ちを正される。そしてかの新田次郎氏のベストセラー「八甲田死の彷徨」はこの史実を脚色したあくまでも小説であるという。作中登場する青森隊と弘前隊を対比して、同時並行的に話を進めているが、実際は、両隊が其其計画立案した、雪中訓練が偶然時を同じくするタイミングとなり、その結果は青森隊は210名中199名死亡。弘前隊は37名全員無事帰還とまるで正反対の結果となったとのこと。その無謀な作戦を推し進めたものは、時代はあたかも、満州でロシアの圧迫を受けていた日本陸軍軍部が、極北での対ロシア戦にそなえて、予想される耐寒訓練と雪中行軍を先取り・研究することを急いだために違いない。・・s-CIMG7276.jpgその八甲田連峰の山間を
























我々は易易とバスで越える時代に生きている。おりから強烈な吹雪となり、八甲田雪の回廊と名された102号線の雪の壁の間を悲劇を悼みつつ通り抜ける。酸ヶ湯温泉の「まんじゅうふかし」を左に見て、城ヶ倉大橋を渡れば道は394号と名を変えて、黒石市へ入る。高賀野ICから再び東北自動車道に乗り、スピードを上げて疾駆する車窓の両側は見渡す限りリンゴ園がひろがっている。

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大町桂月・詩人、歌人、随筆家、評論家は、土佐国高知北門筋士族大町通の3男として明治2年(1869年)1月24日に生まれた。名は芳樹、雅号は桂浜月下漁師、月の名所桂浜に因み「桂月」と称した。・・「見よや見よみな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」・・軍人を志したが近眼のため断念して、明治29年東大国文科を卒業、島根県の中学校教師を経て明治33年博文館に入社『文芸倶楽部』『太陽』『中学世界』などに随筆を書き、美文家としてしられた。韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩で和漢混在の独特な美文の紀行は広くよまれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。晩年、満州(中国東北部)まで旅した。北海道を旅行し大雪山系「桂月岳」(右から2番目)、「黒岳」(右端)「層雲峡」の名づけ親でもある。・・とここまでが、桂月先生の略歴といえましょう。晩年は十和田湖近くの蔦温泉に居住し、大正14年(1925年)4月には本籍も同地に移したが、程なく胃潰瘍のため死去。57歳・・いがいと若死にの感があります。高知生まれといいながらも、少年時代は東京・番町に住み、大叔父の多賀宗義(陸軍少佐)に養われながら番町小学校を明治15年に卒業している。我々が思うほどの土佐人ではないのかも知れない。しかし先生の十和田湖・奥入瀬への
傾倒は半端じゃなかった。先生が初めて十和田湖を訪れたのは、明治41年のこと。五戸町出身の鳥谷部春汀が、「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい。」と誘ったことが始まりとか。初秋の十和田湖を訪れた桂月は、あまりの美しさに、すっかり心をうたれてしまいました。
その風光を「日光に勝るとも劣らぬ、まさに天下の絶景」と、名句を連ねて褒め称えました。「奥羽一周記」という題で、雑誌「太陽」に掲載した一文によって、十和田湖は全国にその名をしられるようになったとさ。とくに十和田湖と奥入瀬の景勝を、あまねく世に紹介したものとして知られる歌碑が焼山奥入瀬観光センター前にありました。
s-CIMG7217.jpg 住まば日の本、遊ばば十和田、歩きゃ奥入瀬三里半
しかし、圧巻は辞世の句
極楽に、越ゆる峠のひと休み、蔦のいで湯に身をば清めて
先生が酒で身を清めていたことだけはたしかで、中秋の名月の晩には桂月を偲び銘酒を桂月碑にそそぐ慣わしまであるとか。大正7年桂月は久しぶりに故郷の土踏み、桂浜に遊び心行くまで盃をかわしたそうな。



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翌朝霙さえ降る悪天候の中、湖畔に佇む『乙女の像』へ。バスが乗りつけた提携お土産店の店内を通り抜けて湖畔にでて、波打ち際を進む。かなりの距離があって、この寒さの中、なかなかの苦行となっ
s-CIMG7211.jpg























た。遊歩道の行き着いた広場に、かの智恵子抄で有名な高村光太郎作『乙女の像』は端正な表情をたたえつつも、かなりたくましい体つきの乙女の裸像が2体、左の手のひらを重ね合わせて、迎いあっている。水に映った姿を現しているとのこと。どちらが、本身でどちらが水面なのか。と想いながら、ガイドさんの説明に耳を傾ける。その設立理由を聞いて少しビックリ。と言うのも、その像の佇まいからして、そこにあるのはロマンチックな謂われがあるに違いないとの思いに反して、「十和田湖国立公園設立に始まる、十和田開発の三功労者と言われる、県知事・村長ともう一人・歌人大町桂月らの功績を讃えるために、昭和28年10月、国立公園指定15周年を記念して顕彰碑『乙女の像』として湖畔の休屋に建てられたものとのこと。ただ光太郎が智恵子さんの『東京には空がない』との嘆きを汲んで、阿多多羅山の空・古里の空に近いこの地に、かくあるべしとの智恵子像を創ったと言うことだろう。その表情は智恵子さんを、その身体は地元の健康そのものの乙女をモデルにしたと伝えられている。・・吹きさらしの中、お土産店に飛んで帰り、ストーブにかじりつくやら、熱いお茶をいただくやらで、やっと人心地がついた。
さて、大町桂月のこと。恥ずかしながら桂月を真剣に知ったのは、県人会総会のたびに戴く古里の銘酒が『桂月』・土佐酒造で、澤田社長が日本一小さな美術館と自負する大町桂月館を主宰されていると教えられたのが最初。むしろ与謝野晶子との「君死にたもうこと勿れ」の詩に対して、反戦歌ととらえたことから、皇国の国民として陛下に不敬ではないかと猛烈な批判が沸き起こり、特に大町桂月は「晶子は乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加えるべき罪人である」と糾弾したことから、国士詩人ぐらいの認識しか持っていなかった。

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十和田湖畔・緑水館で一泊。外はかなりの吹き降りのようす。夕食バイキングを済ませる頃、館内放送で津軽三味線の演奏がホールであるとのアナウンス。これは聞き逃すべからずと、前列2列目の好位置を確保。現れたのは長身痩躯の20代イケメン。金木町である津軽三味線奏者の登竜門といえるコンクs-i-1.jpg
































s-i-2.jpg
ールで準優勝の腕前とか。開口一番、今年は一週間後の、弘前&金木での大会で優勝を狙い今猛練習の最中とのこと。確かに、彼は雰囲気を持っていて、スター性も兼ね備えているように感じる。もしかして、化けるんじゃないかとの期待さえ感じさせる。実際、その演奏振りは、今流行の軽い感じの三味線ではなく、一本筋の通ったしっかりした技術をベースにしながらも、興が乗ればどこまでもアドリブを利かせて行く。「まるでJAZZやな」が正直な感想です。津軽あいや節・・に始まり、津軽じょんがら節でフィナーレとなったステージが終わると、何組もの人が感激の握手を求めて、列をつくる。思わず、カーチャンと並んじゃった。実際こんな風に気持ちを表すことなんて初めてじゃないだろうか。やはり、琴線に響くものが大きかったと言うことだろう。あつかましく記念写真もパチリ。津軽三味線もいいもんだね。・・・インターネットは便利だねー。この稿を書くにあったって、津軽三味線・十和田湖畔・緑水閣で検索すると、たちまちにかの津軽三味線イケメン君のブログに行き当たった。曰く『コウヘイのじょっぱりマイ・ソウル』。渋谷公平君・青森県黒石市出身27歳。一週間後のコンクールは其々、「第27回津軽三味線全国大会(弘前市)』と『第20回津軽三味線全日本金木大会』で、その後、どちらの大会でもA級一回戦にて敗退したことが判明。まあそんなときもあるさ。しかし相当な悔しがりよう。彼はキット一流に成ると見ました。     http//star.ap.teacup.com/applet/doitomasa/20080505/archive参照

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中尊寺の結構を拝観しての最大の感想は、日本が黄金の国ジパングといわれた所以を実感したの一言に尽きましょう。藤原三代その後の武田黄金埋蔵金伝説にいたるまで、この国の金産出はもっぱら砂金によるものであったとか。それにしてもこの時代、かくも多量の金が採取できたことに驚く。その金を独占していた統治者と庶民との今で言う格差を想ってみると、今のご時世も捨てたものでもないことに気が付く。確か伊達の殿様もこの財力をもって徳川幕府に執って変わるべく、その統治体制を、時の幕府とまったく同じ組織に組んでいて、幕府しか使わぬ奉行職名を使っていたとか。・・そんな日本のエルドラドを後にして目指すは十和田湖湖畔。当初の計画では、この途中に北上展勝地の桜を訪ねる予定が、緑青々との情報を得て、急遽変更して、小金井牧場の一本桜に立ち寄る。NHKの朝ドラ『どんど晴れ』で有名になった一本桜。折から天気一変して吹き降りの中、凛々しく屹立するその姿は思
わず「オー」との喚声を上げずにはいられない。これが晴天の下であったならとの贅沢な望みはあるものの、今が盛りの姿に出会えたことの喜びをかみ締めさせる迫力に脱帽。同じ牧場内にある「七つ田の弘法櫻」(樹齢800年・天然記念物・雫石町)も捨てがたい風情を醸し出している。この小金井の名前の由来も薀蓄あるものながら、土佐で言えば、岩崎弥太郎の息子が開拓に関わり、この名の小林・井上・岩崎との命名の一つであることぐらいは書いておかないと。・・東北道に戻り、岩手山(南部富士)・八幡平を左に見て、発荷峠から十和田湖を見下ろすころには、はや夕闇が迫っていた。・・本日走行 320K越え。

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