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御宮は東と西があり、神官の案内で東宮に参る。岩戸が祭られている神社だ。
8人ばかりがグループとなり、恭しく神域へ導かれる。
ここ千何百年手がつけられていない原始の森の木々が風に揺れて、なにか神さびた趣。
撮影禁止とあったが、思わずシャッターを押しておりました。
なにせ御神体ゆえ、誰も覗いたものはいないし、たぶん洞窟はすでに崩れて、その面影はないだろうとの説明があった。然し、ここで岩戸が手力雄命の手であけられて、やっと大和の国に光が戻ったわけで、DANがそうさせるのか、おもわず頭を深々と垂れて柏手をうっておりました。
神楽殿を拝見して、鳥居前の手力雄命の像に御挨拶。向かったのが天岩戸温泉。ちょうど10時過ぎで開いたばかり。それでも地元のおじいさん達が3人入浴中。肌になめらかな温泉につかり、眼前の高千穂の山波を望む。太古の神々もなしえなかった贅沢なひと時ではありませんか。
このあと急ぎ回った高千穂峡もすでに人人人で、大変な賑わいだった。
この高千穂峡ではボートに乗って絶景を見物するのが一番だけれど、すでに3時間待ちとなっては是非もない。
この」機会を逃しては大変と、ホテルの部屋に荷物を放り込んで、神楽会場へと急いだ。
高千穂神社境内、本堂の右脇にある神楽祭場は、ついた頃には満員御礼状態。下足袋を片手に人並を掻い潜って舞台右脇に顔を出すのが精一杯でした。
この夜神楽は、天照大神が天の岩戸に隠れられた折に、岩戸の前で天鈿女命(あまのうずめのみこと)が調子面白く舞つたのが始まりとされており、古来毎年11月末から翌年の2月にかけて、各村々で33番夜神楽を実施して秋の実りに対する感謝と翌年の豊穣を祈願されてきた。
その夜披露されたのは、(1)手力雄(たじからおのみこと)の舞(2)鈿女(うずめ)の舞(3)戸取の舞(4)御神躰の舞の4場面で、我が祖先が伝えた津野山神楽と比べても、実に素朴なお神楽でありました。
手力雄命が岩戸を取り除いて放り投げた先が信州の戸隠であるなど、面白い発見もあり、目の前で奏でられるお囃子拍子も心地よく、夜神楽せり唄のノンノコサイサイもよく耳にした合いの手。
(4)の舞は国生みの舞とも言われて、男女のなにを象徴する原始の営みを彷彿とさせるもので、エロチシズムの元形そのもの。そのおおらかなこと。
昔、宮崎のフェニックス街道が新婚旅行のメッカであった頃、青島神社も必ず訪れた名所の一つ。
鬼の洗濯板と称される奇岩の島に鎮座まします山幸彦・日子穂穂手見命(ひこほほてみのみこと)を祀った神社。
ほんと一つ間違えば波にのまれそうな海辺近くにあって、弥生橋は干潮時はシッカリ陸続きに懸っているのがわかるが、はや私達が帰る頃には満潮を迎え橋の下は左右から打ち寄せる波がぶつかって実に不思議な光景を見せていた。
確か高校の卒業旅行の際訪れているはずが、まったく初めての光景に思える。 洗濯板に踏み入れて磯の生き物を探す子供たち、はや波と遊ぶ子供たちの声が何故か嬉しい。
十分お参りして、橋を渡ったところにはカキ氷屋が待ち構えている。顔も隠れるぐらい盛り上げた氷を気が付けば平らげていた。それほどここまでは晴天に恵まれた。
青島を出たのが2時過ぎか。 さあこれからは、ぶっ飛ばして今夜は高千穂泊まりのつもり。
宮崎市街の表示を横目に、バイパスを延岡に向け通り抜ける。宮崎と延岡間は100キロを超す距離があり、意外と離れている。シーガイアもこどものくにも立ち寄る時間がありません。
これまでの経験を生かして、早めに高千穂観光案内所に電話して、今夜空いているホテルはないか尋ねると、
ビジネスホテル・かなやを紹介される。神話の郷にもビジネスホテルかと感心しながらR218に入る。
まさに夕暮れ、あたりに靄が掛かり始めいかにも神さびた雰囲気になってきました。それでも標高は600メートルは超えていないようだ。
急ぐにはわけばあって、高千穂神社で夜8時からあの夜神楽が催されると聞いていた。
ホテルに確認の電話を入れると、確かに今夜夜神楽ありますとの返事。
津野山神楽の源流を是非にも確かめないと話にならない。・・・急げや急げ。
神宮へ至る道は、南光港から細い参道で、早くも第一駐車場は満員だ。導かれた第二駐車場から山道、階段をたどってやっと御宮の正面に出た。
どこまでも青い太平洋が眼前に広がり、断崖絶壁を伝って下った左に大きな洞窟があり、その中に神社は鎮座されている。この洞窟は約300坪はあろうかという広いもので、続々と続く人波に押されて正面に運ばれ十いった感じ。一瞬御神鏡に我が顔が映った様な気がしてシャッターを切る。弘子ちゃん曰く、そんなことをしているのはあんただけよとノタマウ。この神社の御神徳は縁結び、安産、育児、海上安全となっているからには、孫授かりのお願いと、3人の孫ちゃんのお守りを頂かないと。
霊石、亀石の背中に空いている穴に直径2センチほどの素焼の玉を、男は左手、女は右手で願いを込めて投げ入れる運玉占いもやってみたが中々入ったもんじゃありません。
それより気になっていたのが、参道入り口の民宿に「伊勢海老料理」と大書してある看板に弘子ちゃんの目は釘づけ。お参りの帰りにここに寄らないことには、次なる青島には行きそうにありません。
ちょうどお昼になって頂いた伊勢海老の活造りと味噌汁の美味しかったこと。それもりーゾナブル。
お店の名前は伊勢海老民宿「南光」とありました。
南郷町の港際で[びびんや]の看板を見かけて、行き過ぎていたのを引き返して海鮮料理やとあるのを確認する。魚のことを土佐では「びんび」と言い、日向では「びびん」と言うらしい。それだけで嬉しくなって飛び込んだ。カツオ丼が美味しかったこと。あとは受けを狙いすぎて献立の方向が違っているように感じた。
日南市・ホテルリッチに部屋をとったのが午後8時を過ぎていた。
日南市は思いのほかこじんまりとした街で、駅前もさびしいものだった。ホテルリッチもエレベーター無しの3階建て。素泊まり専門で、気さくなママさんが心安く応対してくれる。
このあたりで見るべきものはと尋ねると、即座に飫肥へ行きなさいとの即答。飫肥を見てから鵜戸神宮へお参りすればいいとの助言。なにせ明日は、高千穂まで辿り着こうと考えている。
飫肥は九州の小京都といわれる、苔むした石垣、白壁の武家屋敷、清流に遊ぶ錦鯉、時代を超えた400年の昔にタイムスリップしたような佇まいを見せる。
伊東飫肥藩として安定したのは、天正15年義祐の子・祐兵(すけたけ)が豊臣秀吉に仕え九州進攻に従い戦功をたて飫肥城を拝領以来幕末までt続いた。伊東氏は、それ以前にもこの地で活躍しており、薩摩に敗れて大友氏、四国河野氏を頼り、最期に頼って秀吉によって、再び日向に帰ってきたわけだ。
特に藩校・振徳堂から日本近代外交の礎を築いた明治の外交官・小村寿太郎が出たことをこのたび初めて知った。また小倉処平と小村との関係など現地に行かねばその気分は味わえないものであります。
等身大の小村寿太郎写真は意外と小柄で華奢な姿でした。しかし、その風格たるやロシアを相手に一歩も引かなかった気骨を表したものでした。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)