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 弘子ちゃんの同級生でブラジル・クリチバ市の公園局で同市の公園美化に手腕を振るった中村矗(ひとし)が定年引退後もブラジル政府の要請で、ブラジリア職員として活躍中。その様子は、4月3日のテレビ東京の番組で世界を変える100人の日本人の一人として紹介された。
度々講演の要請があって日本へ帰ってくるたびに、同級生が集まり旧交を温めているが、この際「ちょこさん」がいるブラジルを旅しようとの声が上がり、昨日三宮の飲み屋で基本計画の打ち合わせがあったとか。
当初は、ああいっていても、多分ブラジル行きなんて出来はしないとたかを括っていたが、どうやら実現しそうな雲行きに少々慌てている。
旅程は前後7-8日間は見ておかないと。旅費にしてもどの程度かかるものか分からない。
何時ごろの計画かと聞くと、3月下旬ー4月と即答が返ってきた。ちょうど夏の時候だそうな。
リオでサッカー観戦も。マラカナンサッカー場、実に11万5千人が詰め掛ける、南米のサッカーのメッカだ。
これには、かなり心が揺れる。
それと、親父の兄姉のうち次姉が戦前、土佐からブラジルへ移民している。
津野から津野に嫁入りして、最初はコーヒー園の経営をやり遂げるまで相当な苦労があったと聞いている。
もうかれこれ15年ほど前、叔母さんの息子夫婦が日本へやってきた。そもときの親父たちの歓迎ぶりといったら大変ななもので、一方息子夫婦はまるで竜宮城の浦島さんのようで、その歓迎ぶりに心底驚き喜んでいた。
今は手元に、その際太寺の実家での団らんの際の録音テープと、1995年元旦と書かれたブラジルからの年賀メールが残っている。
挨拶の最後に「ブラジルにおいで下さることをお待ちしています。」と追記もあります。
住所はMARINGA州 RUA ANTONIO となっている。この所在が、クリチバに近いのか遠いのかも分からないが、ここは腰を据えて案を練ってみることになりそう。

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 明日の土曜日から16日の日曜まで大企業はお盆休みに突入だ。
今まとめに入っている大型案件の一方が天下の大企業様で、契約内容の検討をお願いしているところが、今日展開が無かったらしく、お盆休みとなってしまった。
これで確実に10日は空白だ。
売り手・買い手それぞれの都合の調整ほど難しいものはありません。
この案件も最後の調整にきて絶対的な時間の壁が立ちはだかっている。なんとか、双方の満足行く結果に運んで行く努力だけはしなければ、仲介の役割を果たせないことになる。
今にいたって、買い手さんの決済時期をもう少し時間のあるものと思い込んでいた節もある。
反省しきり。
こうなれば、じっと盆休みが明けるのを待ってばかりいても仕方がない。
ひとつよさこい祭りと阿波踊りの梯子でもするかとなって演舞場の予約サイトを覗いてみる。
両方を見るには11日と12日に行くしかないとわかった。
この日は生憎1000円割引はないけれど、この際元気をだしていって来ます。

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 広島といえば弘子ちゃんの爺さんが江田島の地続き能美島で海運業を営んでいた関係で、原爆投下直後、市内太田川河口に仕事で出かけていた伯父さんの安否を気遣って捜索に行ったとか。その為被曝し、激しい症状までには至らなかったが、60歳にして胃がんを患って亡くなった。
その広島でこの60年、市内120ヶ所はある原爆慰霊碑を一日3-4ヶ所巡っては献水を続けている伊根利枝さん(90)のことを報じていた。
その水もわざわざ教順寺という広島市内を眺められるお寺の滝の観音から汲みとっての献水であるという。
このことは『夏の花びら』という本にまとめられているとか。
被爆した人々が最後に求めたのが一杯の水だった。彼女はその時、その求めを叶えてあげることが出来なかったことを悔いての60年だ。
たまたま幸運にも命拾いをした人でさえ、ここまで心の重荷を背負わせた原爆。
このあと、長崎の原爆と続いたにも拘わらず、日本の戦争指導者、特に陸海軍部は国体護持の確証あるまではポツダム宣言の受け入れを峻巡した。
この時とばかりに、広島・長崎でそれぞれ違うタイプの原爆を実験投下した米国も米国なら、御前会議でのポツダム宣言受諾の是非を問われて、10人中5-6人が反対・時期早尚を唱えた。ただ一人、切腹してけじめをつけた阿南陸軍大臣のみが、最期まで反対に回ったと知らされていたのとは違った真実があったのだ。
日本人の優柔不断もここまでくると殆ど病気だ。そしてこの傾向は雲上人のみならず、我々市井の民に至るまで持ち合わせている。・・・一体このザマはどこから由来しているのか。戦国武将があれほどの気概を持っていたことは確かで、何時の頃から日本人はかくも柔くなってしまったんだろう。

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 今年もまた終戦記念日(敗戦記念日とは言わない)が近づくにつれてNHKが毎年の恒例といったように『兵士の証言』シリーズを放映する。
そして私はその番組をせっせと録画。けれど、今はこの番組を見ようとは思わない。否、思えない。正視出来ない。
『坂の上の雲』等であれほど日清日露の戦争を書いた司馬遼太郎氏が、なぜ昭和の戦争を書かないのかと聞かれて、『私には昭和の戦争は到底書けない。これほど酷く馬鹿馬鹿しい戦争はなかった。そして意味もなく命を散らした人々のことが、あなた書けますか。』と。
私も少年時代、『丸』とかいう戦記雑誌を愛読して、坂井三郎の撃墜王とか紫電改が如何に素晴らしかったとか、人間ロケット桜花、4発爆撃機開山それから仁科博士の原爆開発等、血湧き肉踊らした頃もあったけれど、年を食ってこの大戦の真実を知るにつれて、よくもここまで幼稚で浅はかな決戦に踏み切ったのか訳が分からなくなってからは、何故なんだという究明することさえも力が萎えて出来なくなっている。
ちらっと見た番組でかのインパール作戦に臨んで日本軍兵士が待たされたのはたった一週間分の弾薬と食糧だったという証言を聞いた。ほんとかよー。陸大恩賜の時計組の秀才参謀がいくら馬鹿だといってもこれはないだろう。本土決戦に用意された武器のほとんどが竹やり、斧、鎌だったって。
この時代の陸海軍が陥った神国日本主義への一本道まっしぐらの事情を、堺屋太一が著書『時代末』で明解に謎解きしてくれている。
流行作家のように現代を読み解く堺屋本も10年後に読んでみると以外に的を射ている。
とくに、昭和の日本、それも軍部が陥った錯覚と妄想については、実に納得の解説を書いておられる。

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