書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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このショック状態を引きずって勤めにでるも、まったく仕事が手に付かない有様。もともと親離れしていない、長男の甚六の弱さ、脆さがいっぺんに噴き出した。とりあえず明石に帰ろうと、退職を申し出したところ、それなら元の広畑に戻ってはどうかととりなされた。とりあえず引き揚げが先とばかりに、親父に明石での社宅を探させて人丸町の4戸一軒の文化アパートに引っ越し、広畑に通い始めたのが10月20日。
広畑黒川所長はじめ一同の皆さんはよう帰ってきたと慰めと励ましの言葉をかけて下さった。・・感謝
そのころ、例の明石のGOD FATHER 永田政一が駅前の神戸銀行の角、明石銀座と国道2号線の交差点の郵便局跡に建築中の藤田ビル4F建のテナント割り当てを決めた。!Fは家主が花やを、2F津野お前てんぷら専門店、3Fは二星君バーベキューを、4Fは人丸花壇の小谷社長がクラブを開業せよとの御託宣。
この命令には絶対に背くことが出来ないらしい。喫茶一筋の親父が、天ぷら専門店とやらを学ぶことから始めて、店作りに頭をひねっておりました。
丁度5ヶ月後の3月17日、ビル落成と同時に、てんぷらマル一を開店した。このマル一は津野の家紋・渡辺星の略紋を言います。明石の地に津野の旗を立てる気概を示したかったんだ。しかしお店はどう見ても和風喫茶風にできあがっておりました。
開店となれば、顔に出さぬわけにはいかない。餓鬼の頃からお店を手伝うのは生活の一部のようなものです。
かくして入江商店に勤めるかたわら、夕方からはてんぷらマル一の店番をすることとなった。
おまけに、弘子ちゃんが明石に帰った頃から、気分が悪い日々が続いて、出産したばかりなのにまさかと思いながら三河産婦人科に行かせたところ、予定日が6月半ばとの診断だった。これは静伸の生まれ変わりとしか思えない。今度こそ無事生まれてくれることを祈る日々。この三河老先生は私を取り上げてくれた先生で、その産ませ上手には定評がありました。不思議な御縁にもう大丈夫との思いがありました。
広畑黒川所長はじめ一同の皆さんはよう帰ってきたと慰めと励ましの言葉をかけて下さった。・・感謝
そのころ、例の明石のGOD FATHER 永田政一が駅前の神戸銀行の角、明石銀座と国道2号線の交差点の郵便局跡に建築中の藤田ビル4F建のテナント割り当てを決めた。!Fは家主が花やを、2F津野お前てんぷら専門店、3Fは二星君バーベキューを、4Fは人丸花壇の小谷社長がクラブを開業せよとの御託宣。
この命令には絶対に背くことが出来ないらしい。喫茶一筋の親父が、天ぷら専門店とやらを学ぶことから始めて、店作りに頭をひねっておりました。
丁度5ヶ月後の3月17日、ビル落成と同時に、てんぷらマル一を開店した。このマル一は津野の家紋・渡辺星の略紋を言います。明石の地に津野の旗を立てる気概を示したかったんだ。しかしお店はどう見ても和風喫茶風にできあがっておりました。
開店となれば、顔に出さぬわけにはいかない。餓鬼の頃からお店を手伝うのは生活の一部のようなものです。
かくして入江商店に勤めるかたわら、夕方からはてんぷらマル一の店番をすることとなった。
おまけに、弘子ちゃんが明石に帰った頃から、気分が悪い日々が続いて、出産したばかりなのにまさかと思いながら三河産婦人科に行かせたところ、予定日が6月半ばとの診断だった。これは静伸の生まれ変わりとしか思えない。今度こそ無事生まれてくれることを祈る日々。この三河老先生は私を取り上げてくれた先生で、その産ませ上手には定評がありました。不思議な御縁にもう大丈夫との思いがありました。
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けれど、明石の人丸花壇での結婚式には、親父のグループの面々がズラリと顔を揃える中で、仲人を神戸商大ゼミの恩師・栗田真造夫妻にお願いし、来賓に、明石付属中学担任の神谷好先生・明石高校3年担任の住田圭司先生・神戸商大サッカー部顧問田中博教授・同じく教養ゼミとドイツ語の竹馬事件でお世話になった鈴木照雄教授と恩師の皆さん全てをお招き出来た。残念ながら一番お世話になった神戸大学付属明石小学校担任の清水一郎先生は連絡が取れず、お招きできなかったことは覚えている。
たしか新婚旅行も一任されていて、ほんと間際になって佐渡島・会津・福島と巡るコースを選んでお茶を濁したこと。結果、とても季節の上でも良い選択で、十分旅をたのしんだこと。結婚式を済ませて、新婚旅行に旅立つタクシーも神戸までの筈が、もったいなくて舞子で下りて国鉄の乗り換えたこと。新婚旅行の帰りに木更津駅前の布団屋で頼んでいた、寝具一式を受取、担いで新居に帰ったこと。
ままごとのような新婚生活が始まって、すぐに妊娠、出産予定は翌年8月となった。その間、啓三・郁子が遊びに来て、兄弟でフラワー道路・館山にもいこました。国立競技場での全日本対アーセナルの試合も弘子ちゃんと観にゆきました。スタンド最上段で選手の姿がほんと小さく見えたものです。
そんな夢のような生活。もちろん入江商店のお仕事は無我夢中の取り組み。家に仕事を持って帰って、徹夜で仕上げて、翌日遅刻しちゃうような間抜けぶり。ほんと勤め人の自覚がありませんでした。
弘子ちゃんは木更津駅近くの葛田医院で御世話になっておりました。なにしろツワリが酷くて、医者にみせてもまだ妊娠の兆候なしと言われる時点で、盛大にえづき始める。腹が落ち着くまで、寝たり起きたりして、辛さを凌いだ。そんな苦労もその時の私には十分わかってやれてはいなかった。木更津の先、富津の大花火大会に連れだしたり、若気の至りのへまをやらかしたような気がする。
8月11日、出産は無事?済んで、母・男児ともに無事との報告を受けた後、看護婦から、どうも赤ちゃんのお腹が段々大きくなっているようだとの知れせがあった。先生はと聞くと、出産後散髪に出かけて不在。慌てて、明石のオヤジに電話を入れたところ、親父の姉で高知で産婆をしている叔母に聴いてみろとなって、さっそく電話を入れる。6000人は取り上げたというベテランの産婆も、お腹が膨れる理由が思いつかない。けれどただ事で無いことだけは確かだ。こうなれば新生小児科に駆け込むより手はないという判断で、救急車を手配した。
ちょうどできたての千葉大学医学部新生小児外科に綿貫教授がおられるということで、どうして大学へ駆けこんだものか。かすかに救急車のなかで赤ちゃんを抱き締めていたことだけは、いまも手の感触まで覚えている。
綿貫教授の診察を受けた結論は、体液が何らかの理由で、腹腔にあふれ出ている状態で、生命の安全は確保が難しい。一か八か開腹してみないことにはどうしようもないとの見立て。この生まれたての赤ん坊にそれだけの手術に耐える体力があるとは思えないし、昭和43年頃の新生小児外科のレベルなんて、今からみれば幼稚なもんでした。しかし、このまま手をこまねいてはおれず、断腸の思いで開腹を決意する。
結果、病状としては先天性胃窄孔。小さな胃が風船が破れたように孔が開いていたそうな。ここで言う先天性とは、どう考えても先天的に異型があったということではなくて、生まれる過程で、なんらかの理由で胃が破れていたということ。たぶん出産時に羊水を飲む、あるいは胃中に圧をもって流れて、その為胃が破裂したに違いない。息を引き取った小さな亡骸を抱き締めてただ佇むことしかできなかった。バットで頭を思いっきり殴られたようなショックで、それからの10日間ばかりを過ごすこととなった。
出産時にちらっとしか赤ん坊の顔を見ていない、ましてや抱かせてもやれなかった弘子が不憫でたまらない。
明石から飛ぶようにして駆け付けた親父も姿を見せても、慰めの言葉も出ない。
そんななか、人一人がA点からB点と生死の処が違えば、水子としての扱いではなく、出生届けを出して後、死亡届を出してからでないと、荼毘にふすことも出来ない。なんとあっけない人生だったことか。しかたなく静伸と命名。我が第一子となった。
手狭な木更津の事務所から、君津製鉄所前の君津出張所へ新築移転したのは、そのあと直ぐのこと。まっさらな2階の一室を与えられて、その夏を過ごす。夜の9時ともなると、事務所に降りて行って、連日明石の弘子ちゃんと長電話する。藤井所長が「このごろどうも電話代がやけに高いが、若松君長電話は禁止だよ。」と大声を出している。濡れ衣は若松氏に行ったようで。
製鉄の現場は、工場が立ちあがり、機械類の据え付けも始まったが、それらは殆どが本社契約で現地の売り上げにはならない。現地は独自の営業成果を上げないと、おまんまにありつけない。そこで工場の地下・地面に目を付けて、地元千葉のコンクリート業者から、ヒューム管・道路の縁石・歩道用平板等手当たり次第に仕入れては売り込んだ。
明石を出るまえから、一人での木更津暮らしを気遣って結婚話が進行しており、10月15日と日程も取り決めていた。6年ごしの交際期間満了となる。木更津と君津の中間、桜井という地にバンガローに毛が生えたような一ヶ家が六棟ばかり新築しいぇいたのを見つけ新居とすることに。
そんなばたばたな日々を送る間も、入江商店の営業として接待にも励まなければなりません。木更津は江戸の昔から木更津芸者でならしたところ。朝早くから、海苔の仕事を終えた旦那衆が昼日中から芸者を揚げてドンチャン騒ぎの土地柄。そこにこれも遊びでは引けを取らない八幡製鉄のアイアンマンが参入。木更津の街は俄かに鉄鋼景気で沸き立っている。何しろ製鉄の社宅が団地単位で建設され、九州八幡からは連日工場単位で人がやってくる。これを称して民族大移動。はてわ鉄鋼マンを追いかけて、八幡のママさんたちまで移住して木更津にお店を開く始末。怪しげなオカマが走り回っておりました。酒が飲めない体質を恨みながら、WCでゲロを吐きながらの接待のつらかったこと。
一日、製鉄の掛長が、彼も酒は飲めないらしく、金谷のストリップに連れて行けとのリクエスト。私を追いかけるように君津所長で配属されていた河井所長にご足労頂いて、ともに金谷に出かけた。
金谷銀座の行き詰まりにその劇場はあって、賑々しくストリップ大公演の真っ最中。舞台中央の出べそ間近に陣取って踊り子を待つ。ふと見ると河井所長は私の対面に席を取っている。彼もなかなかストリップを知っている感じ。踊り子が出現して、これまた下手なラジオ体操のような退屈な一踊りがすんで、出べそステージにせり出しての観音様御開帳と相成ります。思わず踊り子の股ぐら近くに頭をもたげると同時に、だれかの頭とゴッツンコ。「こら津野、痛いやないか。」の大阪弁は河井所長の声にかわらん。
河井所長に叱られたのは後にも先にもこの時だけだったことを思い出した。
製鉄の現場は、工場が立ちあがり、機械類の据え付けも始まったが、それらは殆どが本社契約で現地の売り上げにはならない。現地は独自の営業成果を上げないと、おまんまにありつけない。そこで工場の地下・地面に目を付けて、地元千葉のコンクリート業者から、ヒューム管・道路の縁石・歩道用平板等手当たり次第に仕入れては売り込んだ。
明石を出るまえから、一人での木更津暮らしを気遣って結婚話が進行しており、10月15日と日程も取り決めていた。6年ごしの交際期間満了となる。木更津と君津の中間、桜井という地にバンガローに毛が生えたような一ヶ家が六棟ばかり新築しいぇいたのを見つけ新居とすることに。
そんなばたばたな日々を送る間も、入江商店の営業として接待にも励まなければなりません。木更津は江戸の昔から木更津芸者でならしたところ。朝早くから、海苔の仕事を終えた旦那衆が昼日中から芸者を揚げてドンチャン騒ぎの土地柄。そこにこれも遊びでは引けを取らない八幡製鉄のアイアンマンが参入。木更津の街は俄かに鉄鋼景気で沸き立っている。何しろ製鉄の社宅が団地単位で建設され、九州八幡からは連日工場単位で人がやってくる。これを称して民族大移動。はてわ鉄鋼マンを追いかけて、八幡のママさんたちまで移住して木更津にお店を開く始末。怪しげなオカマが走り回っておりました。酒が飲めない体質を恨みながら、WCでゲロを吐きながらの接待のつらかったこと。
一日、製鉄の掛長が、彼も酒は飲めないらしく、金谷のストリップに連れて行けとのリクエスト。私を追いかけるように君津所長で配属されていた河井所長にご足労頂いて、ともに金谷に出かけた。
金谷銀座の行き詰まりにその劇場はあって、賑々しくストリップ大公演の真っ最中。舞台中央の出べそ間近に陣取って踊り子を待つ。ふと見ると河井所長は私の対面に席を取っている。彼もなかなかストリップを知っている感じ。踊り子が出現して、これまた下手なラジオ体操のような退屈な一踊りがすんで、出べそステージにせり出しての観音様御開帳と相成ります。思わず踊り子の股ぐら近くに頭をもたげると同時に、だれかの頭とゴッツンコ。「こら津野、痛いやないか。」の大阪弁は河井所長の声にかわらん。
河井所長に叱られたのは後にも先にもこの時だけだったことを思い出した。
泉大津・日鉄ドラム構内の一番奥まったところに、現在河井雄輔氏が経営する ナニワプロジェックス事務所が有った。営業品目をHPで拝見するに、放射能検査機器を主に、やはり入江商店で手掛けておられた分野の取扱が並ぶ。河井氏とは平成2年頃か、医療廃棄物処理に関する新規事業という分野で、一瞬ご一緒して、八幡まで出向いたことが有って以来、もう18年も会っていない。
かなり大きなドラム缶製品倉庫に隣接の事務所とあって、2階への階段がすこぶる高い。前の社名が博多商工とかで、その後の名前を聞いていなかったので多少の迷いはあったが、前回2-3年前か、この泉大津・臨港町に工場用地を探しに来た時に、会社所在地近くまで行きながら、時刻が遅くて会えずじまいでいた。
思えば入江商店・広畑出張所配属が昭和41年(1966年)4月。それから1年は、9時出社、即スクーターで中門前のめし屋に直行、遅まきの朝飯を頂いて一服。やおら製鉄所構内に入って一日中、各所御用聞きに回ることに専念した。おかげで製鉄所の隅隅まで探検できた。おもな取扱いは酸素発生装置のメンテナンス。ここの神戸製鋼製のSRM圧縮機のローターが頻繁に焼きつけを起こし、そのたびごとに、高砂工場へローターを抱えて走ったり、圧延ロールの荷降ろし作業に立ち会ったり、定期修理時の化成工場他の冷却パイプの酸洗工事となにせ汚くて、重くて、臭い現場での一年だった。その翌年、河井氏が課長として本社から転勤して来られて。今聴くと初めての現場勤めで、左遷扱いでかなり臍を曲げていたらしい。そんなことは知らない私には連日、事務所のガレージ前で、ゴルフの素振りに余念のない河井課長に余裕をすら感じていたことです。
そんな年の7月、急きょ千葉県君津出張所への転勤を命じられた。いよいよ君津製鉄所の建設が進み、入江の得意とする機材関連の受注据え付け作業が増え、現地での手が足りなくなってきたことかららしい。
明石駅で母親・桜町の菊枝伯母・弘子ちゃんに涙ながらに送られて単身、秋葉原から房総西線に乗り換えて木更津を目指す。湾岸の化学・石油工場のイルミネーションに目をうばわれながら着いた千葉駅で乗り換えて、木更津までは単線だ。木更津市富士見町にあった出張所には50歳はいっているように見える30前の若松氏と商大サッカーの9年先輩の森本係長が先遣。藤井所長は入江でも一匹オオカミとの噂の高い曲者らしい。・・・まさに流れ流れて木更津のお富さん気分だ。
かなり大きなドラム缶製品倉庫に隣接の事務所とあって、2階への階段がすこぶる高い。前の社名が博多商工とかで、その後の名前を聞いていなかったので多少の迷いはあったが、前回2-3年前か、この泉大津・臨港町に工場用地を探しに来た時に、会社所在地近くまで行きながら、時刻が遅くて会えずじまいでいた。
思えば入江商店・広畑出張所配属が昭和41年(1966年)4月。それから1年は、9時出社、即スクーターで中門前のめし屋に直行、遅まきの朝飯を頂いて一服。やおら製鉄所構内に入って一日中、各所御用聞きに回ることに専念した。おかげで製鉄所の隅隅まで探検できた。おもな取扱いは酸素発生装置のメンテナンス。ここの神戸製鋼製のSRM圧縮機のローターが頻繁に焼きつけを起こし、そのたびごとに、高砂工場へローターを抱えて走ったり、圧延ロールの荷降ろし作業に立ち会ったり、定期修理時の化成工場他の冷却パイプの酸洗工事となにせ汚くて、重くて、臭い現場での一年だった。その翌年、河井氏が課長として本社から転勤して来られて。今聴くと初めての現場勤めで、左遷扱いでかなり臍を曲げていたらしい。そんなことは知らない私には連日、事務所のガレージ前で、ゴルフの素振りに余念のない河井課長に余裕をすら感じていたことです。
そんな年の7月、急きょ千葉県君津出張所への転勤を命じられた。いよいよ君津製鉄所の建設が進み、入江の得意とする機材関連の受注据え付け作業が増え、現地での手が足りなくなってきたことかららしい。
明石駅で母親・桜町の菊枝伯母・弘子ちゃんに涙ながらに送られて単身、秋葉原から房総西線に乗り換えて木更津を目指す。湾岸の化学・石油工場のイルミネーションに目をうばわれながら着いた千葉駅で乗り換えて、木更津までは単線だ。木更津市富士見町にあった出張所には50歳はいっているように見える30前の若松氏と商大サッカーの9年先輩の森本係長が先遣。藤井所長は入江でも一匹オオカミとの噂の高い曲者らしい。・・・まさに流れ流れて木更津のお富さん気分だ。
今日11月4日かねてより依頼のあった堺市堺区築港八幡町の新日鉄株式会社所有地の調査に出向く。
昭和41年4月なんとか潜り込んだ入江商店に入社してのち、本社研修を経て、現場研修の地がここ八幡製製鉄所ちかくの堺営業所だった。
同期生は3人。大西・広瀬と私。この3人が泊まり込みで堺営業所の業務内容をどう勉強したのか、まったく覚えていないのはなぜなんだろう。広大な製鉄所構内を見学して、ただただその雄大さに圧倒されたことは覚えています。この現地研修ののち配属されたのが、姫路市にある富士製鉄広畑製鉄所正門前の広畑営業所。
黒川所長以下総員10名足らずのメンバーのうち、神戸商大の先輩方が西沢・岸田の2名もおられた。
たしか前年の40年には同じ姫路市にある製鉄業の山陽特殊製鋼が倒産という大事件が起こり、入江商店もかなりな債権焦げ付きを出していたが、社員全員の頑張りで会社存立をなんとか保ち一息ついた直後でありました。
営業所は明石から山陽電車で飾磨乗換の広畑と約1時間余りにあったので自宅通勤となった。出社そうそうまたも製鉄所構内を西沢係長に案内されて見学する。延延と続く構内道路の向こうに陽炎が揺らめくほどの広い工場。出入りの門だけでも正門・中門・東門とあり、夢前川べりには冷延工場が独立している。もちろん24時間操業であり、重厚長大の象徴のような代物。しかしそこには基幹産業として日本の土台を支えているという自負に満ちた人々の顔があった。
そんな広大無比な工場内をオンボロスクーターに乗って、製鉄原料以外の資材・消耗品の二ーズを嗅ぎまわり、大きなプロジェクトが有ればなんとか代理を賜っているメーカーを押し込もうと情報をとりまくる。
そうなるのに約1年、まったく知識の無いものが、パイプの径は2Bといわれても首を傾げる状態から、うっすらと鉄の製造工程のあらましを理解するようになるんだから、我ながら驚きです。
そんなころ、本社から転勤赴任されたのがやはり神戸商大G9の好漢・河井雄輔課長。
きょうは、定年退職後起業されて泉大津・臨港町に居られることを聞きつけて、急遽訪問することとなった。
一枚頂いた写真をUPしようとデジカメからSDカードを取り出すつもりが、変なtころを操作して、せっかくの画像を飛ばしちゃいました。・・これはもう一度会いに行けとのことなのか。こんなドジをしたのは初めてです。
昭和41年4月なんとか潜り込んだ入江商店に入社してのち、本社研修を経て、現場研修の地がここ八幡製製鉄所ちかくの堺営業所だった。
同期生は3人。大西・広瀬と私。この3人が泊まり込みで堺営業所の業務内容をどう勉強したのか、まったく覚えていないのはなぜなんだろう。広大な製鉄所構内を見学して、ただただその雄大さに圧倒されたことは覚えています。この現地研修ののち配属されたのが、姫路市にある富士製鉄広畑製鉄所正門前の広畑営業所。
黒川所長以下総員10名足らずのメンバーのうち、神戸商大の先輩方が西沢・岸田の2名もおられた。
たしか前年の40年には同じ姫路市にある製鉄業の山陽特殊製鋼が倒産という大事件が起こり、入江商店もかなりな債権焦げ付きを出していたが、社員全員の頑張りで会社存立をなんとか保ち一息ついた直後でありました。
営業所は明石から山陽電車で飾磨乗換の広畑と約1時間余りにあったので自宅通勤となった。出社そうそうまたも製鉄所構内を西沢係長に案内されて見学する。延延と続く構内道路の向こうに陽炎が揺らめくほどの広い工場。出入りの門だけでも正門・中門・東門とあり、夢前川べりには冷延工場が独立している。もちろん24時間操業であり、重厚長大の象徴のような代物。しかしそこには基幹産業として日本の土台を支えているという自負に満ちた人々の顔があった。
そんな広大無比な工場内をオンボロスクーターに乗って、製鉄原料以外の資材・消耗品の二ーズを嗅ぎまわり、大きなプロジェクトが有ればなんとか代理を賜っているメーカーを押し込もうと情報をとりまくる。
そうなるのに約1年、まったく知識の無いものが、パイプの径は2Bといわれても首を傾げる状態から、うっすらと鉄の製造工程のあらましを理解するようになるんだから、我ながら驚きです。
そんなころ、本社から転勤赴任されたのがやはり神戸商大G9の好漢・河井雄輔課長。
きょうは、定年退職後起業されて泉大津・臨港町に居られることを聞きつけて、急遽訪問することとなった。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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