書きますよ~皆さんついてきてくださいね!
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飲食街の真ん中の島には、GOD永田が苦労して誘致したレストラン・ブーンが入った。このブーンはダイエー総師中内功氏の弟で、同じく神戸商大の先輩にあたる中内力氏が兄貴と袂を分けて設立した飲食店経営のシンエーフーズのチエーン店。ハンバーグをジュウジュウと鉄板に乗せて供してたちまち明石の人気店となり、連日行列のできるお店となりました。
他に、うどんやの親父が見よう見まねで出店した炉端焼き・神鷹も物珍しさから人気を博し、うどんやそっちのけでお酒を売ることのボロサにのめりこんでいった。・・・このうどんやの親父とは後に死闘を繰り広げることになる。
ところで、このダイエー明石店東館は衣料を中心としたファンション館で、JR明石駅側、すなわち北側にメインの入口を設けていた。私の考えは、これらダイエー3棟を地下街で結んで、店内に取り込んだお客を外に逃がさないようにすべきだろうというもの。特に中央・西館の地下食品階は魚棚を上回る集客があった。
もうひとつ、この8階建てのビルで気になっていたのが屋上の利用である。
設計段階で、地下飲食街から屋上まで直通の大型エレベーターが付いていることは先刻承知。親父に是非屋上利用権を確保してくれと、口を酸っぱくして頼んでいた。
地下飲食街入居のうち、建設中仮営業を凌いで頑張ったのは我が喫茶リオ・ブラジルのみであることから、せめて屋上の利用くらいこちらにまわしてもいいだろうと考えた。
うっすらと思っていたのは、たぶんこの屋上からは南に明石海峡・淡路島、北には県立明石公園と錦江城が望める絶好の展望となっているに違いないということだ。きっとビア・ガーデンを開店して、この景色を見ながらジョッキを傾ければ気持が良いに違いないと、この下戸の私でさえ思い浮かべる。
他に、うどんやの親父が見よう見まねで出店した炉端焼き・神鷹も物珍しさから人気を博し、うどんやそっちのけでお酒を売ることのボロサにのめりこんでいった。・・・このうどんやの親父とは後に死闘を繰り広げることになる。
ところで、このダイエー明石店東館は衣料を中心としたファンション館で、JR明石駅側、すなわち北側にメインの入口を設けていた。私の考えは、これらダイエー3棟を地下街で結んで、店内に取り込んだお客を外に逃がさないようにすべきだろうというもの。特に中央・西館の地下食品階は魚棚を上回る集客があった。
もうひとつ、この8階建てのビルで気になっていたのが屋上の利用である。
設計段階で、地下飲食街から屋上まで直通の大型エレベーターが付いていることは先刻承知。親父に是非屋上利用権を確保してくれと、口を酸っぱくして頼んでいた。
地下飲食街入居のうち、建設中仮営業を凌いで頑張ったのは我が喫茶リオ・ブラジルのみであることから、せめて屋上の利用くらいこちらにまわしてもいいだろうと考えた。
うっすらと思っていたのは、たぶんこの屋上からは南に明石海峡・淡路島、北には県立明石公園と錦江城が望める絶好の展望となっているに違いないということだ。きっとビア・ガーデンを開店して、この景色を見ながらジョッキを傾ければ気持が良いに違いないと、この下戸の私でさえ思い浮かべる。
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1974(昭和49年)12月1日ダイエー東館が完成、と同時に地下をダイエーとは独立した飲食街もオープンを迎えた。
喫茶リオ・ブラジルは地下街の北の一角に移り、約50坪の大箱。いま振り返れば借り物のお店に、精一杯の内装を施すなど、馬鹿としか言いようのない、凝りに凝ったお店が出来上がった。店内東半分の一段高く設えたフロアーにはグランドピアノを据えて、連日夕刻に生演奏。これで人気が出ない訳が有りません。
当時国鉄明石駅高架に伴って、ステーションデパートが誕生し、そのテナント募集の際、明石駅前の有力飲食店に入居の声がかかり、親父も誘いを受けていた。しかし、親父はゴッドファーザー永田のグループの一員で、このGODは駅前一帯を民活で再開発していると変わらないビル建設を手がけていて、義理からステーション出店と言う訳にはいかなかった。
ところがこの明石ステーションデパート内の喫茶・飲食がはやりにはやり、親父が悔しがること。
その積年の想いに区切りを付けることができる程のお店の出来栄えに、胸を張って駅前で30年と高らかに開店を宣告いたしました。
思えば、私がお店を手伝うようになって5年目のこと。・・実際これぐらいで大人しくしておけばよかったのに。
喫茶リオ・ブラジルは地下街の北の一角に移り、約50坪の大箱。いま振り返れば借り物のお店に、精一杯の内装を施すなど、馬鹿としか言いようのない、凝りに凝ったお店が出来上がった。店内東半分の一段高く設えたフロアーにはグランドピアノを据えて、連日夕刻に生演奏。これで人気が出ない訳が有りません。
当時国鉄明石駅高架に伴って、ステーションデパートが誕生し、そのテナント募集の際、明石駅前の有力飲食店に入居の声がかかり、親父も誘いを受けていた。しかし、親父はゴッドファーザー永田のグループの一員で、このGODは駅前一帯を民活で再開発していると変わらないビル建設を手がけていて、義理からステーション出店と言う訳にはいかなかった。
ところがこの明石ステーションデパート内の喫茶・飲食がはやりにはやり、親父が悔しがること。
その積年の想いに区切りを付けることができる程のお店の出来栄えに、胸を張って駅前で30年と高らかに開店を宣告いたしました。
思えば、私がお店を手伝うようになって5年目のこと。・・実際これぐらいで大人しくしておけばよかったのに。
創業さんよう喫茶が地下の狭苦しいエレベーターピットの底が飛び出した猫の額ほどのところに押し込められたのは、ダイエーが明石店を開くため、それまでの古い映画館を建て直したためだ。
明石に初めての本格スーパー誕生とあって、1966(昭和41年)10月28日の開店の日には、人並みが大明石町一帯に溢れかえった。今ジュンク堂書店が路面で営業している明神ビルがそれだ。
狭い上に、ど真ん中にエレベーターピットの底が天井から突き出てる、そんな場所に押し込められた親父は一計を案じて、親しかった設計士と施工の明石土建に無理やり当初計画に無かった地下2階まで掘り下げて、巧みに営業面積を拡げてしまって。最終ビル側も了承することになったんだろうが、喫茶開店の時まで極秘の工事だった筈。もちろんその掘り下げに拘る費用はこちらの負担。この時の貸しを返してもらうのは33年後のことになる。
2005(平成17年)8月31日にダイエーが撤退してから、3棟に増えていたダイエーテナント店舗のうち、両端のビルが明宝興業所有で、真ん中が今言う明神ビル。運命は分かれて、明神ビルは築43年ながらほぼ満タンにテナントで詰まっている。一方1974(昭和49年)ブラジルを移転開店したダイエー東館と言っていた第二明宝ビルは船井総研からデイべロッパー兼北へと転売されてしまった。西館といっていた明宝ビルもこの12月16日期限の競売に掛けられていたが、任意での取り下げになったのか、入札が無かったのか、入札結果一覧には出ていない。。しかし、先日ビル屋上にレリファ(株)の名前の垂れ幕でテナント募集しているところをみると、兼北あるいは船井総研に渡ってしまったようにも思える。・・かって絶対的存在であった明宝ビルが人手に渡ってしまうとは、栄枯盛衰のことわりを目前に見るようで感慨一入。
先に結論・結果を言ってしまったが、24年間に及ぶダイエー明石東館地下飲食街での喫茶リオ・ブラジルへの移転・開業作業の一切を親父は私に任せてくれた。
明石に初めての本格スーパー誕生とあって、1966(昭和41年)10月28日の開店の日には、人並みが大明石町一帯に溢れかえった。今ジュンク堂書店が路面で営業している明神ビルがそれだ。
狭い上に、ど真ん中にエレベーターピットの底が天井から突き出てる、そんな場所に押し込められた親父は一計を案じて、親しかった設計士と施工の明石土建に無理やり当初計画に無かった地下2階まで掘り下げて、巧みに営業面積を拡げてしまって。最終ビル側も了承することになったんだろうが、喫茶開店の時まで極秘の工事だった筈。もちろんその掘り下げに拘る費用はこちらの負担。この時の貸しを返してもらうのは33年後のことになる。
2005(平成17年)8月31日にダイエーが撤退してから、3棟に増えていたダイエーテナント店舗のうち、両端のビルが明宝興業所有で、真ん中が今言う明神ビル。運命は分かれて、明神ビルは築43年ながらほぼ満タンにテナントで詰まっている。一方1974(昭和49年)ブラジルを移転開店したダイエー東館と言っていた第二明宝ビルは船井総研からデイべロッパー兼北へと転売されてしまった。西館といっていた明宝ビルもこの12月16日期限の競売に掛けられていたが、任意での取り下げになったのか、入札が無かったのか、入札結果一覧には出ていない。。しかし、先日ビル屋上にレリファ(株)の名前の垂れ幕でテナント募集しているところをみると、兼北あるいは船井総研に渡ってしまったようにも思える。・・かって絶対的存在であった明宝ビルが人手に渡ってしまうとは、栄枯盛衰のことわりを目前に見るようで感慨一入。
先に結論・結果を言ってしまったが、24年間に及ぶダイエー明石東館地下飲食街での喫茶リオ・ブラジルへの移転・開業作業の一切を親父は私に任せてくれた。
1974(49年)お正月の写真には、もう茶目っ気に走っている長男がひんがら目をしておどけ、次男が親父の膝を独占して悦に入っている。その傍らのしんどそうな顔付きの弘子ちゃんは、この17日後の1月18日に三男を産んだのだから、臨月もいいところだ。
このころ、喫茶リオ・ブラジルが2階を借りて営業していた、明石東映映画館が、ダイエーの増床計画により、建て替えることになりつつあった。
建て替え工事には約1.5年を要する大工事。その間、映画館側が仮営業の場所の確保だけは請け負ってくれたものの、仮営業のともなう損失補てんは一切なしの状態で、ただ新築のダイエービル地階に計画している食堂街への入居は最優先で、少々家賃も考慮して、仮営業損失の補てんに充てるというものでした。
てんぷらマル一のカウンターに座ったゴッドファーザー永田のこの駅前開発計画には従うしかなく、親父は虎の子のゴルフの会員権・大神戸、神戸明石の二つを売って仮営業を乗り切ることになる。
今もブラジルの開店日を調べてみると、19748(昭和49年)12月1日となっているところから、もうこの正月は建て替え工事に入っていたんじゃないかな。ボサリオのあった新納ビルの西隣。山陽電車の持ち物で、当時神姫バスの駅前車庫として貸していた広場のほんの一角にプレハブ2階建てを仮設して、その2階で仮営業となった。山陽電車との交渉にゴッドファーザーのお供をしたことを思い出した。
三男の誕生で、わがファミリーの態勢は整った。かくして20年にわたる子育て戦争もその序章を迎えたわけだ。
クラブの最終手段は、そんなヤクザ屋さんの出入りも大人しいものになったことから、弘子ちゃんをママに仕立ててお店を任せた。もちろんカウンター裏には私がいて、一時ヒモ状態の心地でありました。
弘子ちゃんがママとしてデビューして分かったことは、彼女がベラボウニお酒が強いこと。ヘネシーのWを10ハイお変わりした時は、それまでも散々飲んだ挙句で、腰が抜けたことがありましたが、その時以外は全く酔わない体質だ。アルコールアレルギーと言えるほどお酒に弱い私には信じられない飲みっぷり。
この体質は長男・次男に受け継がれていて、特に次男は底なしだ。
この手のかかるクラブを開いている間も、一方のてんぷらマル一をおろそかには出来ません。
コストの高いというより、色々癖の悪い板前さんを御断りするにも、最低自分でてんぷらを揚げられねばなりません。また調理師免許も取らないと。
と言う訳で、開店当初の写真では、カウンターの外に立っている私が、三男が生まれる頃には、鍋の前に立ち天ぷらを一人前?に揚げている姿に変わっていた。
PS・写真前列 左から親父・谷至康明石土建社長・永田政一ゴッドファーザー・林信太郎明宝興業社長・小生です。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)
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