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おまけにこの年の10月末、明石ジャスコ8階の残り半分を展示場として使っていた家具の加古屋が閉店・撤退となって、Kビル、N社長からまたまた何かアイデアはないかと聞かれて、ちょうど息子たちが中学受験の最中だったことと、教室をホールとして使えるようにしておけば、GOODTIME CIRCUS の集客にも役立つと踏んで、学習塾などどうでしょうと提案したところが、早速OKとなって、6000万の資金まで用意された。
結局は学習塾よりは中学・高校・浪人対象の明石予備校を開校することになってしまった。メクラ蛇に怖じず、
まあなんてことをしてしまったものか。
教室への内装工事は早々と、12月1日に完成、早速新年パーティーの会場に流用したのは勿論です。
姫路・淳心の副校長を校長に迎え、自身は理事長に納まった入学案内が今に残っています。
今読んでも冷や汗ものの挨拶が記載されています。その当時は本気で大真面目もいいところ。川村君という明石高校OBの後輩の操られて踊っておりました。
結果、二男が見事白陵中学合格を果たした。これには親父の喜ぶまいことか。
開校PRの進学講演会を市民会館中ホールで開催したりして、4月開校となった。
私が最初に任されたてんぷらマル一とクラブとして開店した旧ボサリオの閉店撤退は、結果対照てきなものとなった。
てんぷらマル一は明石の中心である、駅前交差点の北西角の2階に位置して、なんの商売も利くような目につくところにありました。そこで一計を案じ、そのころボツボツ流行りだしていたサラリーマン金融に目をつけて、白菊グランドビルの7階にあったサラ金・レイクにアプローチ。場所をもっと目について、便利な所に変わらないかと持ちかけた。幸い、支店長も場所の悪さもあって、お店の業績も捗々しくなかったことから、この話に飛びついて本社に言ってみるということになった。
そのころのサラ金といえば、今と違ってかなり胡散臭い存在で、大手といえども、まかり間違えばヤクザ屋さん相手よりも手ごわい存在でした。
一日、レイクの本社に行ってくれとのことで、忘れもしない大阪の本社とやらに出かけて行きました。
確か、黒っぽい煉瓦に包まれた自社ビルの重役室。担当の重役との面談で、条件交渉をすることに。
当方、内装その他、居抜きで600万と提示したことを覚えている。
話はあっけなく進んで、その条件で賃貸契約を継続できるよう家主の了承を取ってこいとなった。
実は、レイクとの交渉よりも、藤田ビルの了承を取り付ける方が苦労そのもの。
出てゆくなら、あとのテナントの世話までして貰わなくても結構ですとビル側。もっともなことながら、それでは
内装その他、現状に戻して帰らねばならない。600万どころか、工事代まで追加で必要となる。
そこは、ゴッドファーザー永田の一声でこお藤田ビルのテナントが決まった経緯を説明して、参拝九拝、土下座までして、なんとか了承を取り付けた。
その後、このビルは、レイクを初めとして、全階にサラ金が入り、見事なサラ金ビルとなりました。
一方、まだ山陽電車の高架以前の新納ビルは、後継のテナントを歯医者がいいと考えて、歯医者さんも見つけていたが、オーナーがそんな都合のいいことは認めない。結局現状復帰して返還することとなった。
このビルがいまや明石駅前の正面となり、2階には歯医者さんが営業しております。
年が変わり、昭和56年の5月。いよいよ明石駅前のダイエーとジャスコ屋上ビアガーデンの両方をオープンすることになった。ただし、同じことをしていても面白くないということで、ジャスコ屋上はそのころボチボチ出てきた飲み放題・食べ放題時間制とすることにした。
たしか広島のデパート屋上でやっていると聞き及んで、見学にいったもんです。
ダイエーが600席、ジャスコが300席、合計900席の的屋商売。これで最盛期雨が降ったりすれば、どうなることか。心配は尽きないが両ビアガーデンでいけるとこまで売上を伸ばさないと。
ちょうど昭和55年の夏が、冷夏到来ということで、売上も昭和53年5200万、昭和54年4600万が昭和55年3500万と3割減。この1500万の差が、当てにしていた8階の予算にもろに響いてきた。
なんとしてでも、両方で6000万ぐらいの売り上げをしないことには火の車も回って行かない。
今まで以上に、空を見上げる日々が続くことになった。
事実8階GOODTIME CIRCUC オープン時には、資金的に行き詰っていて、当時サントリーの営業課長が内装費の一部、1000万位はいいリース屋を紹介しますよとの軽い言葉を鵜呑みにして、いざとなったときなかなか応じるリース屋がなくて、結局妹の嫁ぎ先の吉川太郎氏に担保提供をお願いしてやっと手当がついた始末。N氏からは1億の保証が出ておりました。そのころの一般の貸付金利は10%を超えていたように記憶している。当時に今の金利なら事情は随分と楽になっていたのに。
オープンは伊藤隆文とボサリオ一座、メイトジャズオーケストラの生演奏を中心に、150名からの招待客で盛りあがったことは言うまでもない。
一方、奥の宴会座敷100席もなんと、鍋ガーデン窓口の亡新宴会で満杯の上上の滑り出しを見せた。
西部観光レストラン撤退あとのジャスコ明石8階は全面改装する必要があった。
調べてみると、レストランゾーンと奥にパーテイーゾーンがあり、その間に広々した厨房がしつらえてあった。
まるっきりコック・職人側からの設計となっている。料理出しだけは便利に考えてあった。
そこで、考え方としては、レストランゾーンをパブレストランとして、ボッサ・リオを移転し、JAZZライブとビデオカラオケのステージを有すパーテイーゾーンに、奥のスペースを鍋ガーデンと同じく、座敷宴会スペースとすることに計画。パブは100席、宴会座敷はスライデイングウオールで仕切って4区画、取り払って100席の規模となりました。
パブのデザインはその頃神戸で売り出しの小野原氏。テーマはDIXIEJAZZにちなんでアーリーアメリカン風。
真っ赤な電話ボックスも特注して、出来上がったお店は、我ながら惚れぼれする。
このへんが甘いところで、何で借り物スペースにそんな贅沢な設備を施す必要があるのか、馬鹿な限りだがその時は、無我夢中何も見えなくなっておりました。
お店はジャスコ8階の半分を占めていて、残りの半分は5・6・7階を占めていた家具の加古屋のうりばとなっていた。
その雰囲気を変えるため、お店のフロント部分に工夫がいって、まるでニューオリンズの街角に舞い降りたような店構え。パブと宴会座敷を一つに現す言葉をさんざん考えたすえに付けた名前が、GOODTIME CIRCUS
まったくひとりよがだと弘子ちゃんが言った。ついでい記すと、弘子ちゃんはこの8階出店は大反対でした。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)