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いよいよ身仕舞いの時、この年2月24日最後の砦・さんようも退去。
つまんでいた手形貸付の商工ローン・日栄とイッコー対策として手形不渡りを7月2日と8月3日だした。
この間、常々情報収集していたサラ金対策で有名な宇都宮弁護士に連絡を取り、神戸で同じ分野で連携のある神戸合同法律事務所・辰巳弁護士を紹介してもらい、逐一相談した上での手順でありました。
早速、『やってくれましたな』と怖い電話が懸ってくる。といっても迷惑をかけるのはこの2社のみ。
イッコーはこれまでの利息を差し引き計算すると元金完済となるので問題なし。
一方日栄はお付き合いの期間がまだほんの少しだったことから、弘子ちゃんの親父・義父から300万を拝借して弁護士を通じて弁済する。結局この問題が最終解決をみるのは平成14年7月150万の追加支払いまでかかった。ほぼ元金相当だ。7月26日にはこんな状況を心配して次男夫婦が夏休みの間ロンドンから一時帰郷。
8月21日には明石の親戚一同に声をかけてまことにささやかな食事会を開き披露のかわりとした。
このときのことが未だ心苦しい思い出になっている。二男には十分なことをしてやるどころか、余計な心配と経済援助の迷惑をかけた。おまけに7月26日と8月24日の2回、保証人として辰巳弁護士と面談までさせた。
この年、19月から平成12年3月まで、大貧乏時期が到来することになる。
なにしろ日銭が入らない。手を食って足まで食っていたんだが、まがりなりにもお金は回っていたのが、完全に止まった。
もちろん不動産仲介に励むしかないと頑張るが、不思議とこの時期成約がない。片手間でやっていた時の方が実績を挙げている。あまりの必死さが仕事に余裕を無くしていたんだ。
備忘録にも平成11年19月ー平成12年3月大貧乏と記している。
タバコを止めたのがこの時。何しろタバコを買うお金が無い。故に何の苦もなく止められました。
貧乏は健康に効きます。
この年、長男の嫁さんが作ったお節を初めて頂くことに。
三男も駆けつけてくれて、大変な状況ながらひと時心の安らぎを得る。
ちょうど木更津ー川崎を結ぶアクアラインが完成・開通した直後だったと思う。
正月2日5人で通り初め。海蛍で東京湾のど真ん中の雄大な光景を堪能した。実に爽快なり。
1968(昭和43年)ころ、木更津の出張所から大阪への出張はフェリーでこの湾を渡るのが一番の近道。
長男を亡した時、親父が駆けつけてきたのも、羽田から川崎・フェリーだった。
君津の町は腰を抜かすほど変わっていて、どこにもその面影はありません。水道管ようの異形管を君津駅貨物ヤードに引き取りに行った際の草茫々の風景は今も忘れることがない。
木更津駅前の唯一のレストラン・オランダ屋も見つからない。
ただ驚いたことに、新居ように新築で借りた桜井のバンガローのような一軒家数軒が残っていました。
当時はすぐ目の前に波打ち際が迫り、スコップで一掬いすれば、驚くほどのあさりが獲れた浜は立派な宅地に
先の先まで埋め立てられておりました。
ともかく、ここが我々の出発点・原点だと説明してしばし佇む。なんと32年ぶり。
振り出しに戻ったなと弘子ちゃんと感慨に浸った。
次男がロンドンへ飛び立った後、いよいよ腹を括った。
明宝ビルと交渉して7・8月最後のBGを開き、10月5日にブラジルを閉店退去することに決定。
このビル建て替えからでもブラジル25年、ビアガーデン24回開催の幕を閉じる。
ブラジル創業37年目。たぶんこのブラジルは2浪していた私の拠り所として親父が手を打ったもの。
幸いというか、不幸にもというか神戸商大に潜りこんで、チョイト学を着けたばかりに、今日の閉店の憂き目を見たものか。なまじ学をつけるより、水商売に徹することを教え込んだ方が良かったかも。
場所をさんよう喫茶(明神ビル地階)に移して平成11年2月24日まで粘りに粘ったのは、やはり親父に申し訳ないという気持ちからだったかも知れない。
しかし、お袋は駅前で借り物商売の厳しさを知っていて、私がトコトン苦労した姿を見ているからか、こんな商売するもんじゃないと慰めてくれていた。
ブラジルとBGの現状回復に一苦労。特にBGは仮設の厨房設備から、ステージまで電動カッターを片手に一人でやっつけた。さすがにブラジルは解体屋に頼んでの大工事となった。
とくにお店の半分を一段床あげをするのにコンクリートを打っていたのがトラブルの元。これの撤去に時間とお金がドッサリかかった。
賃貸店舗であれば、いつかこんな日が来ることは自明。とあれば解体現状復帰が簡単にできるように考えて内装すべきだったんだ。いまさらながら後で気がつく癲癇病。経験が後から付いてくる。
実に高い授業料を払ったものです。
PS・・・1999年の営業日誌を見返していると明石焼きのレシピ(割り)がでてきました。
この割りでの玉子焼きはなかなkに好評でした。
当時の一回の仕込みでの分量ですので、割合だけでも参考にして下さい。
メリケン粉 250G じん粉 250G 玉子全卵 16ヶ だし 2800CC
ベーキングパウダー 10G ウス口 万 素 塩 好みにて
これが1月20日。総額16億の大仕事。
今思えば思い切って突き進んでおれば事はすんでいただろうに。まだまだ初心者であるがため、この見切りが出来なかった。7500万の手つけまで打ったが、結局ドタキャン状態でこの取引を中止した。
いまさら、今の俺なら何としてでも成功させたに違いない。不動産仲介で唯一未だに臍をかむ痛恨事でした。
お店のほうは玉子焼きが旨いとの評判となって、毎日せっせと鍋をひっくり返しているが、その実忙しいばかりで絶対値は上がらない。
そんなころ、明石海峡大橋開通記念の大橋ウオークが3月26日にあるとかで、気晴らしを兼ねて参加した。
延べ5Kほどのウオーキングながら、ひごろの運動不足がと、大橋が弓型に盛り上がっていて、上り下りがかなりのことだったことから、不覚にも足ご攣ったりして、海を覗き込む元気もなかった。
ただ橋の中央あたりで玉津中のブラスバンドがパレード演奏を披露していた中に妹の長女が元気よくサックスを吹く姿を見つけて大喜びした。
この時の感想が、これで明石は橋の袂の町になってしまったという実感。この橋のためとんでもない規模の大土木工事が行われた証を目で確かめた。これだけの規模の土地買収からして、どれほどのお金が動いたことだろう。そのころ、淡路側の山林買収で思いがけず潤った淡路の地主が明石で収益物件をあさるという動きが
激しくなり、これを称して玉ねぎマネーといったものです。
岩屋の友達は早速特融賃のマンションを建築して、これがためいまや四苦八苦。
なににしても罪作りな大橋であることは確か。
元元喫茶であるはずが居酒屋座敷・玉子焼き・カラオケパーテイなどと一体この店は何屋さんと突っ込まれそうな有様。私自身の心中の混乱そのままのことになっておりました。
平成9年12月19日、海の中に沈みこんだような不景気の最中、どこで聞きつけたのか高知新聞・石井研記者が現れて来年4月5日開通と決まった明石大橋についての特集を連載しているので橋の袂である明石にいる高知人として取材させろとの申し出でだ。
この連載は「結ぶ」というテーマで43回にわたるなかなかの強力取材で、如何に土佐の人々がこの明石大橋の開通を固唾を飲んで見守っているか、その期待感が感じられるものでした。
しかし改めて紙面を見ますと、楽観的な記事は皆無で、特に神戸・明石近辺での取材記事は、大橋どころではない世情が書き記されております。
私の取材記事は明けて1月10日に掲載されました。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)