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振り返ればこの2年間本業と不動産業の売り上げが逆転しかねないこととなった。
もちろん本業の売り上げではおっつかない分を不動産仲介で補てんしている状況。
この状況に甘えて本業とおもっているブラジルの維持を疑うこともなくダラダラと続けていた。
この2年間で仲介料が2000万に上っていたからこの油断は仕方ないかもしれない。
実際はこの時に不動産へと全面的に舵を切るべきだったかもしれない。
というのも、平成9年3月と平成10年2月それぞれ4億と16億の仲介がドタキャンの憂き目に遭っている。
ビギナーズラックに酔って、細心の注意を払うべき交渉が疎かになったからか。片手間での取り組みが逆目にでたのか。この空振りはすぐさま応えて、9年6月には後に痛恨の一事となる商工ローンの日栄からつまむという、絶対やってはならないことに手を出していた。それも二男を巻き込んで。
もちろん嬉しい出来事もありました。その二男のロンドン留学が6月6日に決まった。
製薬会社のプロパーでは面白くないと会社からの留学制度を利用してMBAを習得に行く。
そんな矢先、いよいよ手元が詰まって家族全員が魚住の自宅に集合して、今後どうするかの話となった。
今まで自分の思うままにやってきて初めて子供たちの意見を聞くこととなった。
結果、子供たちが1000万近いお金を融通してくれて、もう少し店を続けることになった。
こう書きながら、いろいろ資料・メモを見てみるに、この当時なんでここまで金詰まりとなっていたのか分からない。不動産の仲介料もそこそこありながらのこの体たらくは本業の思いもよらない低迷からとしか思えない。
9月6日には突如私自身一時狂乱状態に陥った。それまでいくら金に詰まってニッチもサッチモいかない時でも
こうはなりませんでした。しかし、この状況が続けば次男のロンドン行きに影響が出かねず、彼の人生までフイにするかも知れないと考えると、ほんと頭を抱え込んで喚き散らしておりました。弘子ちゃんの驚いたこと。
この時は弟が駆けつけてくれていろいろ事情を聴いてくれるなどしてやっと平常心を取り戻しましたが、それでも3日間ほどは放心状態が続いたことでした。

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淡水サッカーの震災総会を終えてすぐに、先日がんセンターで出会った不動産業の師匠と手掛けた西明石駅前・2号線沿いのバブル物件の契約となった。
長年進和不動産管理と大書してある塀に囲まれた700坪ほどの一等地。
名前を書いてあるということは、売り物ですということ。それまで5-6年もお店に通う往復にその前を通る。
いやでも目に入る。
電話での手ごたえはまるでなかった。ほんとよく電話が掛かってきて、明日にでも買い手を連れてゆきますと約束して今まで一件も買い手の顔を見たことがないらしい。
三菱信託の子会社であることも判明。とすれば買い手を探すことと、三菱信託の親しい窓口を探すことが肝要。その時に思い出したのがこの師匠だつた。彼のパチンコ人脈で買い手を探し、私の商大ルートで信託窓口をさがした。
その経緯は前にも書いた如くだが、隣のパチンコ店に話を持ち込んでその気にさせる。信託は3年先輩のK氏が大阪で次長とかになっておられた。ここでの不思議は、この子会社の担当部長がK氏と同期の商大生であったこと。K氏もお安い御用とばかり、早速連絡を取っていただいて、君のことはよく言っておいたから連絡を取るようにと段取りをつけて下すった。
あとで判明したことだが、この時の買い手がとんでもない大物で、朝銀大阪の理事長さんの経営するパチンコグループだった。
そのあとの交渉は場所を朝銀理事長室で行われ、大金庫を背にした理事長主導で全てが運んだ。
物件前のバス停留所を動かすという難題はあったが、契約が成ったのが6月22日のこと。
この契約の最終決済は9月6日だったが、手にした777万の手応が我が行く道を指し示してくれました。
一方、日々のお店の営業を疎かにしているわけではありません。365日のうち362日は店を開け、BGを開け
何とか起死回生の策はないものかと考え続ける。
そこで考えたのが、2年後の迫った明石大橋の開通にともなう観光客の増加だ。
きっと明石にも客は来るだろうがその時の売りものといえば玉子焼き・明石焼きしかないだろうとなった。
早速安福の卵焼き鍋屋に押し掛けて、顔見しりを幸いに、鍋の手ほどきやら、材料のレシピやらの研究をはじめた。
そのころの卵焼きの売値が10ヶ500円。
一方で5億の契約をまとめ、一方では一鍋500円の明石焼きに没頭する。そしてそのギャップにさえ気が付かないで居る。確かにどこかおかしげなこととなっておりました。

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晋災フィーバーほぼ終焉のメモが5月15日大書。
街も落ち着きを取り戻し、売上も徐々に元にもどっていく。震災という人の不幸に便乗してのひと時のシノギはそんなに続くわけもない。それでも、無理をして板前さんを一人雇った。
というのも、ロスで留学中の三男から、大学の卒業式には是非来てくれとの連絡が入っていた。
思えば、この一時のにぎわいが無かったら、卒業式参列などとても行けたもんではなかったろう。
高校卒業と同時にアメリカ・ロスアンジェルスに放り出して、たよるコネは高知県人会ロスアンジェルス支部への尼崎県人会・玉川氏の紹介状のみだった。
それでも、入学のための英語学校通いから初めて、ロスアンジェルス・シティー・カレッジ(LACC)のなんと
MUSIC・COMPOSER科に入学。日本人街のしゃぶしゃぶやでアルバイトをしながら、本人曰く「生まれて初めて勉強しましたわ。」状態で、かなりハードな毎日を送ったはず。三男が大きく成長する切っ掛けとして本当に有益な留学となったわけ。今図書館にいると電話をしてくる。かなり辛くてめそめそ、こちらもたまらず、帰っておいでと声をかけるが、そうなるとこれが帰ってこないんだなあ。
そんな苦労に報いるためにも、どんなところで勉強し、生活していたのか確かめるためにも、是が非でもロスには行かねばなりません。
現地5月25日6:30から卒業式ということで、25日関空をロス向けて飛び立った。

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水・ガスなしでどうして商売が出来たのか、未だに不思議でならない。1月17日の大震災の翌日には、さんよう喫茶地階での何でも温かいものであれば飛ぶように売れた。着のみ着のままで辿り着くような人も多かった。
ビルと道路の間が陥没していたところにやっと架設の橋が掛かり、23日からはブラジルでの営業を開始した。
ガスはカセットボンベで、水はビルの高架水槽に残っている分を独り占めで使えた。というのも地下の他店は何と27日まで休業だった。
水道が復旧したのが28日、2月1日になってガスが回復した。
その間、難民救済の如き炊き出し風営業は多忙を極めた。ある意味、震災景気に預かったというわけだ。
メモを見ると。それでも1月29日には淡水サッカーの会長を仰せつかっていた立場から、会員の安否消息のため電話をかけ続けている。
②月14日にはやっと渡部浩太郎先生の身より先が判明、お見舞いの電話を差し上げることが出来ました。
ただ、一年後輩のN君の父君が圧死されたとか。なんと2月18日になってようやく西神の葬儀会館で葬式の順番がきたとかで、会を代表してと、友人として会葬いたしました。
東京から長男が、放出からは二男が心配して帰ってきたのが2月17日。長男は無事を確かめると、嫁の具合が悪いと、とんぼ返りで帰って行った。
19日、忘れもしない、二男が大阪に帰るのを、三宮まで見送ることにして、JRで神戸まで行った。
テレビではさんざん町の悲惨な様子は見ていたつもりが、須磨を過ぎてすぐ、焼けただれた家々、崩れ落ちたビルの光景が眼前に飛び込んできたときには、思わず悲鳴が周りから湧き出て、私自身も驚いて腰を浮かす始末だった。
確か、電車は神戸までで、大阪行きのバスは三宮のルートイン前からの発着だ。
基町通りを神戸駅から元町駅までたどる。この商店街は比較的被害が軽い印象だった。
凄まじかったのは三宮センター街。西電社もダイエーも倒壊状態。東門筋に回ったところが、ここも足の踏み場もない。そして三宮駅周辺の有様はもっとひどかった。
この時、神戸の復興は10年かかるだろうと言われたもんだ。
しかし、実際は他県からのにわか仕立ての業者も含めて、工事屋さんがひしめき、3年であらかた工事が終わってしまった。震災景気は3年と持たなかったわけだ。

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テレビの報道では、時間が経つに従って、被害がとんでもない規模に膨れ上がって行く。おまけに二次災害の火災の発生、それも関電が比較的早く通電したらしく、ガスもれに各所で火が付き、市内所所で火の手が上がった。消防が出ても、放水用の水が無い。地中埋設管のことごとくが断裂されている。ただ延焼を眺めるばかり。そのため地震での圧死に負けないくらい、火事によって建物の倒壊で逃げられない人々が焼死した。テレビが三宮駅前の惨状を映し出す。高架下から加納町への市電道にビルがそのまんま横倒しになって道路をもろ塞いでいる。さっそくこのビルが竹中工務店施工との情報が聞こえてきた。その後、このビル撤去の早かったこと早かったこと。
人間勝手なもので、須磨以東の地がひっくり返っているというのに、明石駅前は比較的静かな状況に一安心してしまう。
後で公文会長にお話をお聞きするに、公文病院、適寿病院は運び込まれる負傷者であふれかえり、野戦病院もかくやと思うほどの惨状で、一時は打っ倒れそうになったとか。つらく悲しい現場を数え切れないほど見たと言われる。
17日はとりあえず店内の片付けに専念し、いったん家に引き揚げた。
翌18日、駅前に東から逃げ出した人々があふれ出した。そして何かあったかい食べ物はないかと尋ねてくる。
ブラジルは地階口が陥没して入店できない。なんとか営業できるのはさんよう喫茶しかありません。
いま思い出してもどんな風に客を迎え入れたんだか、定かではありません。第一水道が止まっている。
しかたなく、ブラジルで高架水槽の水が残っているのを幸いに、ポリタンクに詰めては運び込む。
メニューも数点に限定して、アツアツの料理を出した。
冷たく、心細い一夜を過ごした人たちの喜ぶまいことか。・・・商売抜きの人助け。

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