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しかし、店は愛嬌だけではもたない。竹の半月筒に焼き石を敷き詰めて、魚介類を焼いて供すぐらいのメニューの珍しさもそうは続かなかったわけだ。
面積16坪、ブラジルと反対側の入り口で、BGエレベーターとてんぷらマルイチへの動線上にあった。
構想としては、カウンター天ぷらより庶民的に天ぷらを食わせる店が行けるんではないかな。たとえば銀座のハゲ天のように。・・・早速弘子ちゃんを伴って、東京の名店めぐりを敢行。すっかりその気になっちゃった。
一方、うどんやの親父が見よう見まねで始めた、炉辺焼き・神鷹がそれこそ明石で初めての炉辺店として大繁盛。その鼻息の荒いこと。同じ地下街に一山といううどんや2軒ある内、もう一軒炉辺焼きとして竹筒焼きを渦リ受けたいと申し入れてきた。
若かったんでねえ。いまなら、よほど店舗造作を唯同然に引き取れる以外は手をださないだろうに、競合者の出現もあって、結局そこそこの値段で引き取ることに決着。このあたりから、資金繰りを甘く見ていた私の躓きが始まったのかも。ファミリーてんぷらマルイチとして昭和52年3月1日新装開店した。
開業1-3年、苦労したのがチケット管理でありました。何十年とやってきた喫茶商売とは、扱うボリュームがまるで違う。それと、個人買いと団体・幹事勘定の両建て。食券は手作り、単数の10枚つづりを客の注文で切り分け、おまけに電卓で合計しなければならない。
ところが、親父にしてみればこうゆう作業は得意中の得意。喫茶業界では、そのころまだまだどんぶり勘定がおおかったころ、ちょっとした中企業もビックリの精密決算をしないと気がおさまらない。
さして、広くない屋上エレベーターホールの一角に、てんぷらマルイチで使っていた、お勘定カウンターを持ち込んで、お客を待ち受ける。チケットは正・副ミシン目入りで、勘定ごとにカーテンレールのマメに挟んで渡してゆく。屋上出入り口には、アルバイトを配置。常に5-10人はチケット受け取りと、着席確認を行うべく待機している。
初年度は5月をⅠとすれば、6月はその3倍、7月は6月の2倍で、8月になっても7月の7割の売り上げがあった。
減価と言えば場所代が5%、材料費30%、人件費10%、雑費5%といったところで、4年目のシーズンなどは
親父をして、こんなに面白い商売やったことがないと、万札を足もとのコーヒーの空き缶に掘りこみながら、声が裏返っておりました。
そう、昭和56年のシーズンまでの8年間、親父はBGのチケットと団体の裁きを、嬉々としてやってくれました。
それだけでも、ともに仕事をした思い出として、今の心に残り、懐かしく、あったかいメモリーとして蘇ってまいります。
造成地の入り口の75坪の土地に南向きのまるで学校の校舎やと皆さんがおっしゃるような2階屋の棟が上がった時には、周辺まだ一軒も家がありません。青空にそそり立つ姿を人丸神社の境内からながめたことを思い出します。
この新居では、両親と母方の祖母おしげさん、妹、そしてわがファミリー5人という大所帯となりました。
幼年の1月には祖母を見送ることになりましたが、親父と約8年間苦楽を共にする生活が始まった。
かなり無理なテンポでの新築新居ではありましたが、14年後、バブルを迎えた際、この家が我々を救ってくれることになろうとは。
2年目ともなると、椅子・テーブルはサントリーさんが張り込んで新調してくださるし、さてアトラクションに何か目新しいものはないかと考えて、思いついたのが、そのころやっと出回っていた8トラックの伴奏カラオケテープを一式買い込んで、お客を舞台に引っ張り上げて歌わせたら面白かろうというアイデア。
神戸を発祥の地とするカラオケ文化のまだ黎明期。小さなスナックの片隅で歌う人はいたけれど、満員で600人もの人の前で、それもプロ用のPAを使って、明石中に聞こえよとばかりに歌わせる。実際、山側の上の丸の住民から、うるさくてたまらぬとの苦情も寄せられるほど。
そんな、うれし恥ずかしい ON STAGE がいたく皆様の人気の的となりました。
といっても、ほって置いたら誰も舞台に上がってくるお客はまだおりません。そんな純情なお客ばかりの時代。
私か南チャンが司会のマイクをとって、しり込みするお客さんを無理やり舞台に引っ張りあげて、インタビューを交えながら歌わした。歌う曲も偏っていましたね。1シーズンの間にどれ程、みちずれ・兄弟舟・兄弟仁義を聞かされたことか。
ほんとこれがあたりました。2-3年のうちに、明石近辺の大企業・工場、たとえば川崎重工・神戸製鋼。大和はかり。しまいには大久保刑務所の看守様一同がうちそろい社内・課内の納涼ビアパーテイーとしょうして押しかける。川重のボーナス日には、工場の課ごとの団体、30-50人の予約で優に600人は超す客の入り。
会場はまさに社内・課対抗カラオケ大会の様相をおびる始末。・・・ほんとようはやりました。
ここんところ、BGの話が続きます。22年にわたる古い売上一覧表が出てきたり、いざ手術となって、自分の人生のターニングポイントは一体何で、何時ごろのことか確かめておきたい気持ちからであります。
BGも2年目になりますと、まずビール会社サントリーの態度が一変。400席分の椅子・テーブルを新調してくれました。なにしろ、サントリーの生ビールを置いているBGなど探してもない頃。季節商売とは言え、このBGの初年度のビール消費量はよほど魅力だったんでしょう。期間中山ほど割れるジョッキの補充も無償。ほんとお世話になりました。おまけに、4年目くらいにサントリーの担当が変わって入社したての若手がやってきて、出身を聴くと、神戸大学サッカー部主将でしたと胸を張る。これは不思議な御縁だという訳で、ますます無理を押し付けた。
一方、アトラクションを何か面白いのはないかと探すうち、東京は浅草から駆け落ちしてきたカップルの女性が、GOGOの名手だとの売り込みがありました。そういえば、三宮、そごう屋上の隣、三菱信託が入っているビルのBGははでなGOGOが売りで、かなり好評をはくしているらしい。
早速、舞台両端で2人は躍らせる約束で、出演をOK.少々ギャラも張り込んだ。
御本人は、もう熟れ盛りのボインを持て余すようなグラマー美人。そして相方に連れて来たのが、神戸学院の2年生の女学生。この子がまったく対照的で楚々としてGOGOを踊るようには決して見えないんだ。
この二人が組んで、牛乳やロックバンドの演奏に合わせて、舞台で踊り始めると、会場ヤンヤの喝采。これが評判を呼んで、いっそう客が増える。
ある日、殺到するビールの注文(すでにビール注ぎは名人の領域)を捌いていると、会場がなにやらざわめきだしたかと思うと、ウオーというドヨメキに変わった。なにが起こったのかと確かめようとしたとき、バイトの一人が「マスターチチが出ました」と叫んだ。なにのチチやら解らぬまま、舞台に近づくと、女学生のほうが胸をかばうようにして舞台にうずくまっている。みれば、いつもの水着とは違う、ブルーの真新しい水着を着こんでいた。
ベテランGOGOに近づくと、「御免なさい、この子新しい水着のショルダーが抜けて、オッパイが片方丸出しになってたのに気づかず当分踊っていたみたい。」と耳元で囁く。聞けばそれはそれは中ぶりの美しいオッパイだったとか。やはり予想どうりのオッパイだったんだ。もう一度俺にも見せてくれとは言えず、内心残念を噛みしめる。
成る程、ざわめきがドヨメキに変わるほどかなりの時間、気づかずに踊ってしまったんだ。・・お客の喜ぶまいことか。
それが証拠に、翌日市役所の顔見知りの中年親父がいつもより大人数でやってきている。
その一人が近づいてくるなり「マスター今日はチチいつ出るの。」と聞いてきた。・・・馬鹿野郎。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)