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「グレンミラー物語」はもう何度見たことか。しかも一編の映画が観る人のその後の人生を左右したと言っていいほどの影響を与え得る事を証明するケースでもありました。時期は日本封切の昭和28年(1953年)のことと思う。というのも神戸大学教育学部附属明石小学校からエスカレーター式に附属中学に進学したのが、昭和29年のこと。その際、クラブ活動が義務付けられていて、体育・文化に限らずどこかに所属せねばならないとなった時、アッサン(浅田敬三郎)が何を思ったか「ブラバンに入ろうぜ」と声をかけてくれた。二人で古い木造校舎の2階にあった音楽室の隣部屋にあるブラスバンド部部室に出かけた。そのころ明石市内の中学は殆どが器楽合奏ばかりで、なぜか附中だけがブラスバンドでありました。 顧問はクラス担任でもある神谷好先生。その後三年間お世話になるわけだけど、先生が怒った顔を見たことがない、穏やかな語り口の先生でした。その先生が応対して下さり、楽器のことについて説明して下さった。といっても、手持ちの楽器で、余っているのはこれこれ程度の説明だったように覚えています。かなり錆びがでて、ところどころヘッ込んで、見るからに鳴らなさそうな楽器ばかり。どうしようかなと考えているうちに、ひとつの楽器が目に留まった。たしか、最近観た映画で、こんな楽器をジェームススチュワートが吹いていた。それまでの映画三昧で、俳優の知識は玄人はだしであります。いま思えば、小バス・クラリネット・トランペット・トロンボーンぐらいしか並んでいなかったはず。その中でも、よりによって誠に地味なトロンボーンを選ぶなんて、グレンミラー物語を観ていなければ、きっとトランペットを選んでいたに違いない。そのうえスチュワートがミラーの真似をしたものか、首をかなり左に傾げて吹いていたことまで覚えていて、中学三年間は首を傾げたままで通すこととなりました。あれは明石高校音楽部に入部して早々、有永先生に「そこのボーン、えらく首が曲がっているぞ、まっすぐにして吹きなさい」とイエローカードを頂いちゃった。

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さんようクラッシックレコードコンサートは昭和42年11月17日・第228回をもって終了し、第229回(昭和43年2月21日)目をLIVE演奏として、その幕を閉じている。奇しくも11月17日は親父の誕生日だったんだ。その時お招きしたバンドの一つがデキシーランドジャズバンド「伊藤隆文とファニーメン」だったんだ。この話をすると永くなるんだけど、経緯だけ述べると、前年の10月15日私たち伸一・弘子の結婚式に花を添えていただいたバンド「ファニーメン」は、明石高校音楽部の大先輩にして、かっては「日本のアームストロング」と謳われたトランペットの名手・伊藤隆文ことターヤンを中心に、関西学院軽音のOBも交えて集まっていたコンボバンドでありました。そのターヤンは今日現在、肝臓を患って明石市民病院に入院中で、近々手術の予定とか。
まさに40年前、その後のナガ―――イお付き合いの最初がこの時だ。

ターヤンといえば、明石高校を卒業後、関学の軽音、それもデキシーバンドのトランペットとして、伝説の右近雅夫とともに神戸ジャズの草分け的存在と言われ、1956年関学卒業後プロを目指して宝塚歌劇オーケストラ部に合格していたが、友達に誘われて「伊藤隆文とニューオリンズ・シックス」を結成して京阪神のジャズ喫茶まわりを3年間したあと、上京、「チャーリー石黒と東京パンチョス」等のバンドを渡り歩き、キャリアを積んだ。私が弘子ちゃんと一緒に、神戸国際会館の労音公演で拝聴した時は、「薗田憲一とデキシーキングス」の名物PETとして、その独特のというよりも、サッチモにそっくりな歌とともに、おもろいラッパとの印象が今に残っています。
それ以前には、明石高校音楽部で東京でプロのラッパ吹きが3人(森・本木・伊藤)おられると聞かされていました。私が2年の時、全日本吹奏楽コンクールの名古屋大会で優勝した際、たぶん朝日テレビに招かれて演奏を放映した番組のゲストとして招かれていたのが、伊藤さん。「ダニーボーイ」をソロで吹かれた時の、なんとぶっとい音なんだろうと驚かされたご本人。
「ニューオリンズ・セブン」という自分のバンドをひきつれて、主に進駐軍のキャンプ回りの営業。これが受けに受けたそうな。まあピアノのナッカン(故人・中川宗和)の昔話をきいているだけでも、もう無茶苦茶。とてもこのブログでは書けない行状ばかりです。そして沖縄へ行った際、トロンボーンが舞台上でラリッちゃってステージぶち壊しとなり、進駐軍からきついペナルテイーの請求がきた。遊び暮らし・その日暮らしの身ではとても払えたもんではない、とうとう明石の親父さんに泣きついたはいいが、その条件が、明石に帰って酒屋を継ぐなら、金は出してやる。かくして帰明はしたものの、JAZZと縁をきれるわけがない。しかたなしに弟・啓三(TB)、今井正芳(BASE)他を呼び集めて楽しんでいたのがこのファニーメンでした。
         続く、

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img348.jpg応援団吹奏楽部のデビユーはなんとかかんとか飾ることができました。私も3回生の頃はまだ余裕があったわけです。しかし、商大祭も終わり、サッカー秋季リーグも終わり、主将のバトンを引き継いだトタン、体中をあの警戒警報が鳴り渡り、響きだし始めた。脅迫感ではなく、何事かやりぬくぞという緊張の極みが、身体の芯を突き通る。もはや、就職も、卒論も、何も眼中にない、一種狂乱の一年が始まったのです。この一年、支えてくれた同期のマネージャー則純幸(松下電工部長)と長本省三、卒業を一年先に延ばした楠瀬強諸氏を始めとして、大迷惑をかけた経緯は「サッカー命の日々」に詳しく記しております。そんな状況下、放つておいても子は育ちます。明石高校後輩の小林武司が2回生ながら、その手腕を発揮して、演奏の練度を上げてゆく。また新1回生を迎えて所帯もかなりの充実を見ました。けれども、最小編成の25-30名にはどうしても至らない。そのころ勇名を馳せていた関西学院応援団吹奏楽部を目指すものの、その実現はどう考えてみても無謀といえる。そこで我々商大オリジナルな路線を行こうということで協議一決したのが、FULLBANDスタイルへの編成でありました。不思議と、SAX・PET・BONEの連中ばかりで、他のパート吹きは居なかったことも、この編成に仕立てる要因となりました。かくして出来上がったのは応援団附属の吹奏部としては前代未聞のFULLBAND.よくもまあこのやりたい放題を周りが許してくれたことよと今更ながら冷や汗三斗の心地がしますし、いくらサッカーに専念といっても、音楽からは矢張り完全に離れること叶わずという訳で、なにはともあれ、出来てしまったものは仕方が無いということで迎えた1965年商大祭。それまでの間、サッカーのグランドまじかで練習している援団バンドを、スパイクを履いたままの格好で、汗を拭きながら指揮をするなどということも許されながら最終ステージがやってきました。
今その商大祭前夜祭ー音楽の夕べーと題したプログラムを見ています。この年の商大祭メインはサッカー部大OB・大森実氏「日本の現代」と題した特別講演会であったことを発見。これは聞き逃したなあ。日時は11月10日(水」於国際会館大ホールとある。ちょうどリーグ戦まっ最中、第3戦と第4戦の間の週ですで。よく出れたもんだ。日本民謡・グリークラブの次、2播目の出番とある。メンバー紹介に指揮・野津伸一(馬鹿やろう名前を逆さにしてどうする。そういえば応援団の卒業者名簿にも名前が出てなくて、児島団長に文句をつけたことがあったけ。)ALTESAX3・TENORSAX2・BONE4・PET4の完璧なSWING・FULLBAND。曲目は4曲演奏で2曲のみ解説が付いている。LA MACARENAと
TONIGHT。たぶんMACARENAは仲本のPETをヒユチャーしての演奏だったはず。そうだ思い出した。あと2曲のうちで最後に演奏したのがチャップリンの代表作モダンタイムズのテーマ曲「SMILE」だった。弟啓三が関学のFULLBANDにいたので、譜面を貸してくれたんだった。・・・思い出したぞ、そう私はサッカーの練習を終えて、ぎりぎりのタイミングで会場入りをした筈。そのためステージも3曲目からの登場となって、SMILEの美しいメロデイのSOLOをとるやら、歌うやら。今で言う美味しいところ独り占め。気持ち良かったなあ。まさに体育会系MUSCIANの面目を施した一瞬でした。
     
  Smile though your heart is aching
  Smile even though its breaking
 When there are clouds in the sky ,youll get by
 If you smile through your fear and sorrow
 Smile and maybe tomorrow
 Youll see the sun come shining through for you 
 

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ba0b7bd4jpeg    吹奏楽部を最初から設立しようとの計画があったのか、無かったのか、北林に聞いて確かめないと。北林が最初からマンドリンから無理やり引き抜かれて参加していたことを考えると、できれば吹奏楽部とはいかないまでも、勇壮なブラスバンドぐらいは、儀杖に必要と考えていたかも。ところが、趣意書にて浄財を募ったところ、予想以上の反響で、そこそこの資金が集っちゃったんでしょう。早速、バンドの編成をということになった。うろ覚えだけど、3回生は北林1人。クラ・サックスなら高校で吹いていたらしい。2回生は平田拓雄(日清製油・現在司法書士)がトランペット。1回生に小林武司(明石高校音楽部後輩・第一勧銀本部システム部長)がクラ。仲本浩章(故人)がペット。岡田勝(明石商業・松陽高校教員)が下手なトロンボーン。・・トロンボーンには点が辛くなる。でとてもメンバーが足りない。バンドにならない状態。そんななか、児島団長から直々、何とかしてくれと泣くように頼まれた。吹奏楽部は10月6日設立とし、1964商大祭デビューをしなければと無謀な計画だけが先行している。もっぱら練習の合間をみてドレミの音階練習から始めないと、十分な音など出る代物ではない。それでも、小豆島での合宿が終わる頃には、不思議なもので、其々が腕を上げてきた。しかし、演奏上、絶対的にパート・人数不足でどうしようもない。・・一計を案じて、(前に松井隆司君のことを書いた項参照)ちょうど全日本吹奏楽コンクール関西大会出場のため指導していた神戸大学教育学部明石附属中学のブラスバンド全員と、同じくアルバイトで教えに出向いていた高砂のカネカ化学のバンドの全員を強制招集して人数を整えた。商大祭園遊会には中学生が出演し、中学生の中に,田中博教授のお孫さんのお嬢さんがいたりして女生徒はモテモテで大喜び。さすがに国際会館での演奏会には荷が重かろうと、こちらはカネカ化学の連中と、明石高校OB吹奏楽団からのエキストラの招いて堂々たるシンフォニックバンドが即席ながら、出来上がった。いま当時のステージ写真を見るに、我ながらまあ立派なものです。

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今まで書き綴り、書きなぐってきた文を再読すると、まるでサッカーしかやっていないような印象を与えかねない。しかし、実際は勉学に励み、読書に勤しみ、デートも欠かさず、ラッパもずっと吹いておりました。昭和37年の秋ごろか、同期の2回生の中の元気者7人ほどが、元気をもてあましてでもないだろうが、1.我が学園に独特なスクールカラーを打ち出す機会をつくること。1.体育会、文化会のより一層の発展。1.商大生同志間の融和。の3つをスローガンに応援団創団の動きを示した。準備段階として児島武・鯖田淳一・北林弘美・竹内茂・赤木克彦・岡田述史・萩原圭裕が7人のサムライと称して、まず陸声会を立ち上げた。グランドの隅で蛮声を上げている連中は、揃いも揃って、小柄で、恐ろしく足が短かったことを何故か妙によく覚えている。翌昭和38年2月1日を期して、サッカー部顧問であられた田中博教授を顧問に迎え、神戸商j科大学応援団が創団、発足した。当時応援団設立趣意書を各界OBに発したところ、予想以上の反響があり、多大な厚志を頂く結果となった。皆さん母校を思う熱い気持ちの結集であったのでしょう。特に力を入れられたのが、当時東京財界で勇名を馳せておられた高商2回生・野村證券中興の祖と謳われた北裏喜一郎社長であったとか。

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