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第10回と翌年の第10回二年連続して出演し、ヤンヤの喝采を頂いた頃が、我がボサリオ一座の絶頂であったのかな。他のバンドには見られないユニークな編成、クラッシックばりのハーモニックな高い音楽性、そして斬新な編曲・選曲。これらが伊藤隆文の大看板の御蔭で一躍面白いバンドが明石にあるとの評判を頂くこととなった。また伊藤隆文は我々にとってJAZZの神様であった時代でした。
一方このFESTIVALも第10回という節目を迎え、ある意味黄金時代を迎えておりました。それが証拠に第10回の実況録音盤レコードは一挙2枚組となっております。とくに第10回の出演者で目を引くのが、ザ・バンジョーバンドの面々。当時考えられるベストのバンジョー名人上手が3人集まり編成したバンジョーバンドはこの回の目玉企画でもありました。メンバーはBjo 津村昭、大森重志、サミー川島の御三方。サミー川島はかの「ソネ」の新店『バンジョーハウス」を任された腕利きのプロ。大森氏はSUNTORYのデザイン室長で、我々が目にする洋酒のラベルの殆どを手がける有名なデザイナー。バンジョー片手に(両手にか)少々ニヒルな微笑みは女性軍に人気の的。天は何物を彼に与えれば気が済むんだろう。最後の津村氏はバスクリン・漢方薬で御馴染みの津村順天堂の御曹司。バンジョーが高じてとうとうプロも裸足で逃げ出す腕前になっちゃった人。
それはためかどうか知らないけれど、のちには順天堂の経営権を失うはめになりました。道楽も程々に。なにかしら耳が痛いきがする。
このFESTIVALに限っていえば、3年後の第13回にも出演しましたが、神戸中央公園で開かれたこのコンサートの頃は、伊藤隆文が神様でなくて、久米の仙人になっちゃって、Y子さんに夢中。選んだ曲も、Y子さんに歌わせるために、あろうことか天地真理の「水色の恋」だったかをJAZZ風にアレンジして出る始末。当然最低の反響で、一時の評判はガタ落ちとあいなりました。
しかし、第10回の曲目の中のダークアイはルイ・マスターピースとともに、伊藤隆文の絶品アレンジの一つであると今にして断言できるものでありました。・・・オチョチョニア・・・
この9回全日本DIXIELAND JAZZ FESTIVALにいたって実況録音のレコードがだされることとなった。我々は初回の参加にしてレコーデイングという幸運にも恵まれた。そのレコードの解説書を見るとなんと野口久光先生とある。JAZZの大権威であります。その野口先生曰くこのFESTIVALは『遠い国日本に蘇り、人々のこころのなかに生き続けるニューオリンズ・ジャズの精神とたのしみ、それを目の当たりに見せてくれたFESTIVAL』とある。出演メンバーも当時そうそうたる顔ぶれで、それぞれが得意の曲を演奏していたのが解る。ところが録音時間をよくよく見ると、かの老舗バンド・ニューオリンズ・ラスカルズが2曲で9分を占めているのに対し、初めての我がボサリオ一座がルイ・マスターピース一曲で9分ちょうど。ほかのバンドといえばせいぜい一曲4分の扱いだ。
今にして、伊藤隆文のネームバリューがいかに効いていたことか、またその時、演奏終わりで面食らうような拍手喝采を受けた理由が35年後の今にしてよく分かる。ルイの名曲を5曲も並べ、しかも抜群のメドレーアレンジで、今までにないハーモニックなバッキングをつけ、ルイばりのトランペットアドリブとくれば、フアンは涙をながして喜んでいたに違いありません。
そんなことを思い出しながら解説の裏面を見てみると、各バンドのメンバーがそれぞれの佇まいで写った写真がありました。
御大将・伊藤隆文がペットを掲げての姿はまるでサッチモ。なにしろパラヨッテ(酔っ払って)からが本番という困ったラッパで、びっくりするような名演奏は、ほぼヘベレケ状態に立ち至って出現する。そのうえ本人にはその記憶がありません。・・といった状態が35年、いやプロの時代からそうあったらしいから、50余年続いた結果かなり肝臓が傷んで、現在自宅療養中。・・・まことに淋しいが、身体が第一です。
左右に津野兄弟で、なかの3人のうちまん中のベースを抱えている人物は、実は今井正芳とありますが、今井君が江井が島酒造の営業の仕事が外せなくて、サブの北上君に御願しての撮影でした。けれど昨日のそごうの舞台に写っているベースはどう見ても菅沼一典さん。その左右がドラムの田中千秋さん(印刷会社営業マン)に、ピアノの有野憲英さん(雪印乳業神戸工場工務課勤務)。御揃いの燕尾服を着ているのは、ターヤンの妹さんが貸衣装屋を営んでいて、この写真のために貸してくれたもの。それにしても皆若いわ。
実は歌だけで舞台に上がったのは後にも先にもこの時限りだが、ターヤン・ナッカンのプロとニューオリンズ・ラスカルズの名トロンボーン福田氏、NHKのプロデュサー・クラの福家氏と関西TOPの実力者を揃えたアンバサダーと南里文雄師匠のステージで南里文雄作曲の「限りなき愛情」を歌うはめになっちゃった。南里先生と奥さまとの純愛は映画になったぐらいで、その映画のテーマ曲ではなかったかな。とくに南里先生が失明してからの奥さまの献身的お世話は、それこそ限りなき愛情と言える。先生に、失明の原因を恐る恐る尋ねてみると、いともアッサリト、麻雀のやりすぎだったとの返事。不遇を託った際にのめり込んだ麻雀のせいだったんだ。
ステージは私の歌以外は受けに受けました。レッツゴー三匹のお笑いもデキシーに絡んだネタを繰りひろげ、南里師匠の18番の「バラ色の人生」・「聖者の行進」で最高に盛り上がり、式典のアトラクションは無事終了。
もちろん、アフターのボサリオでのジャムセッションのほうがより盛り上がったのはゆうまでもないこと。
このイベントがあったわずか2ヶ月後、かの末広光夫MUSIC・PRODUCERが主催していた第9回全日本デキシーランド・ジャズ・フェスティバルにボサリオ一座として出演が決まった。
ターヤンこと伊藤隆文が明石に帰ってきてやっとオリジナルバンドを育てる気になったことで、連日の猛特訓が始まる。薗田憲一とデキシーキングスの初代トランペットで鳴らしたターヤンが、素人を集めたバンドとは言え、いい加減な演奏では恥をかくことになる。この気持はバンドの皆が共有し、これがために今までにはない、アンサンブルの完成度の高いバンドが誕生することとなった。
編成はONEペットTWOボーンという変則編成。これには訳があって、ターヤンのペットに絡むには相当の腕がいるし、我々にはそれがない。さすればTWOボーンでハーモニーを主にバッキングに徹し、エバーグリーン的なアンサンブルで勝負するしか道は無い。そんな訳で選んだ曲が「ルイ・アームストロング・マスターピース」
①WESTEND BLUES②POTETO HEAD BULUES③BY AND BY④WHEN IT’S SLEEPY
TIME DOWN SOUTHの5曲で構成された、どれもこれもフアンが泣いて喜ぶルイのお得意の演奏の、それも良いとこだけを明石のターヤン・日本のルイ・アームストロングが吹きまくった。
3管が奏でる音の分厚さは特に5曲目のDOWN SOUTHでは、吹いている私自身そのハーモニーに包みこまれる心地よさに浸るほどの名演奏が実現したのです。・・舞台は神戸そごう屋上ビヤガーデン特設舞台上。
もちろん最初は今までのクラブと思いこんでくる酔客と、明石で生演奏のJAZZが聞けるのかと喜んでやってくるお客とが入り混じって大変なこともありました。毎水曜は神戸のアマチュアながら老舗のバンド、ザ・ビッグ・ディッパーズがやってきて大盛り上がり。弟・啓三がYAMAHAの神戸店楽器主任であったので、その線からも多大なバックアップ。正式に看板をMUSIC INN として披露パーティを開いたのが1973年(昭和48年)10月10日。
啓三は関学軽音部を卒業後、兄貴が失敗したYAMAHAに楽々入社してしまった。たぶん一次試験の成績が抜群によかったからだろう。後で聞いてみると、軽音の部長を全とうする傍ら、ほとんどの学科が優だって。頭良いんだ。俺と違って。事実啓三の長男は灘中・灘高と進んでいまは東大医学系研究科機能生物学専攻・細胞分子生理学教室の院生だ。もしかしてノーベル賞も夢じゃないとチョイト身内自慢。
それからが実は苦難の日々が始まった。それまではお店の客の入りだけを心配しておればよかったのに、ボサリオでターヤンを教祖とするデキシーランド・ジャズの修行が待っていた。もちろんお店のライブとしての演奏活動だけにボサット見ているわけにいかず、昔取った杵柄ならぬトロンボーンを吹きだしていたから、このジャズ修行を逃れるわけにはゆかない。商売そっちのけでターヤンが現れる週3日は一杯飲みながら、一からジャズの手ほどき。それが深夜の2時3時。しかし音楽にかけては全くの素人ではないメンバーが集まっての練習はすぐに効果を現した。それでもどこか人前で演奏してみたいと思うようになったのは、私が所属していた明石人丸ライオンズの結成5周年の記念式典に「Lets go Dixie」と名打って、そのころ人気絶頂のレッツゴー三匹(正児・じゅん・長作)をメインに、実は真打ちにかの「南里文雄」先生をお招きする企画を私の独断専行で繰りひろげ、ターヤン、ナッカンを中心とするアンバサダーなるデキシーバンドと共演してもらった舞台のお世話をボサリオのバンド連中でしたのがキッカケでありました。・・・そうだ俺たちも舞台に立ちたいものだ。
このクラブというのは、今時のクラブではなくて、東京ナイトクラブの歌に出てくるような、綺麗なお姉さんを侍らすクラブのこと。てんぷらマルイチを開店した直後に明石に帰っていた私がこの店も担当することになった。
名前もクラブBOSSA・RIOと名付けて、大小痩デブ老若なホステスを取りそろえ賑々しく開店したはいいが、ある意味女性の生き血を啜るようなこの手の商売は全く馴染めない。その上ママのなり手がなくて終いには弘子ちゃんを駆り出してママに据えたは良いが、4男を身ごもってツワリが酷くて出勤停止。ついでにヤクザ屋さんに附けの取り立てにいって逆に恐喝にあう始末。これは弘子ちゃんの親父が県警の警部だったので早速願い出て立件逮捕して貰った。それにしてもこの仕事は我々が手を染めてはいけないとの結論に。
そんな時、てんぷら・クラブにお酒を入れてくれていた伊藤酒店店主・伊藤隆文先輩に、神戸に面白い店が開いたから見に行こうと誘われた。その店が今ときめいている開店早そうの「ソネ」でありました。伊藤さん(以後・ターヤン)のプロ時代のバンドメンバーである中川(以後ナッカン)がお店のど真ん中に据えられたグランドピアノで弾き語り。そのピアノの周りを外人がぐるっと取り巻いて、唄うやら踊り出すやら。それを日本人客が見物している。
そんなピアノの席に座らされて傍らでターヤンは早速トランペットを取りだす。ドラム・ベースと加わってジャムセッションが始まった。曲はSTANDARD中心。ガキの頃映画館でさんざん聞いた覚えのあるナンバーにちがいない。ターヤンのラッパの鳴ること鳴ること。おまけに酒屋からミュージシャンに変身してカコ良い。
ターヤン曰く、明石でもこのスタイルでやれば面白いんだけど。アマチュアのバンドの当てもあるらしい。結局問題はピアノの段取りだけということになった。・・・こうなれば実家にある妹の縦ピアノをとりあげるしかないか。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)