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当日のプログラムにそれぞれのバンドのプロフィールがあります。その演奏曲目もそれぞれの実力に合った、お客様を喜ばせるに足る、良い選曲だと感心させられる。大器晩成会は片岡学氏の指導を得て、この当時売り出し、伸び盛りでありました。明石メイトも啓三と港良一の両輪を得て立派に成長。我がボサリオも今考えると、伊藤隆文の最後の煌めきを見せたステージとなりました。
さて、肝心のお客の入りはと言うと、2階席を中・高生が占め、1400の席がほぼ埋まっておりました。
実況録音テープを聴き直しますと、私のMCの殆どが、中・高生に音楽することの楽しさを訴える内容に終始しております。生徒たちは先生方に引率されて来場したようです。まだIAZZのコンサートに中・高生が行くなんてといったレベルの世の中でしたから。高丘中は9;00に最終のバスがでるとか、ほんと長閑な時代でありました。後にこのコンサートを聴いたばかりに、ジャズトランぺッターになったというクレイジー広瀬が現れたときは、ほんと嬉しいような悲しいような心地がいたしました。
今の感覚で言うとトランペット・ぱらよい(酔っ払い)と言うところを、トランぺット・メルヘンと名付けたのは、あくまでも中・高生に夢を持たせるためでありました。現実はトランペット吹きといえば、出たがりで、酒すきで、ナオン(女性)好きで、おっちょこちょいと相場は決まっていましたが、この4人のうち、ターヤンを除いてはそうではなかったとのことだ。もちろんそろってJAZZには厳しく、同じステージに立ったとしても、互いに競い合う、熾烈な音楽上の戦いを繰り広げる。
『ところでBLUE COATS ですが、日本の4大BIG BAND(BLUE COATS・東京ユニオン・ニューハード・♯and♭)の中でも、もっともオーソドックスなスタイルを堅持し、この当時森寿男さんは最も若いリーダーでありました。1932年生まれの森氏は、なんと東京芸大在学中に、故白木秀雄と共に、この名門楽団のトランペッターとなり、類稀な人間的魅力を発揮して、1970年リーダーに就任。JAZZ演奏については徹底したベーシー、エリントンの中に流れる精神とフィーリングを追求することによって、特色をなしております。大編成によるJAZZを語るとき、このベーシー、エリントン路線をあくまで貫くことは、言うは易く行うは難しい。しかし、これに敢えて挑戦するところが、BLUE COATSたる所以であります。戦後まもなく1946年に六大学出身のOBにより作られたBLUE COATSの伝統を新しい世代に伝えて欲しいものです。今日は、同じく得意とするグレンミラーサウンドもたっぷり聴かせてくれることでしょう。』・・・以上はかの有名JAZZ評論家 いソノ・てルヲ がBLUE COATS に寄せた当日プログラムの解説であります。この一点を見てもかなりの力の入れようが見て取れます。もっと言うとこのバンドの初代ピアノは黛敏郎氏。1999年には結成50周年記念コンサートを開催。森さん自身もリーダーとして30周年を迎えられたとか。あのころ、相当煮詰まッてんだなどとボヤいておられたのに。1995年8月にはアイオワ州クラリンダの本家「グレン・ミラー フェスティバル」に招聘されている。
もちろん本木英夫氏も森氏と共にBANDを引っ張っておられた。
【 曲目 】
B・C BLUES、 コールド・テーターブルース 、 TAKE THE ”A” TRAIN
DUKE ELLINTON MEDLEY-MOMENT NOTICE・IN A MELLOW TONE
シェリトリンド、EVERY DAY、WHO ME?、‘S WONDERFULL
GLENN MILLER CORNER-MOON LIGHT SERENADE、IN THE MOOD
ペンシルバニア 65000、チャタヌガ・チューチュー
コンサートの出演団体及び演目骨子は早々と決定した。なにしろ片岡学氏が音楽ディレクターとあれば、最高の組み立て、方向性(演奏ジャンル)を打ち出してくれるに違いない。採算面は初めから度外視、といっても身の丈に合った範囲内でのことは勿論。PA関係もYAMAHA協力で心配はいらない。我がボサリオ一座も夜な夜なの練習を重ねることに異存はありません。かくして、会場に選んだ明石市民会館の収容力は定員1400名であります。常々市民会館でのいろんな公演を気にしていましたが、1400名満杯に入った公演はそうそうありません。歌謡曲・色物ならともかく、JAZZコンサートで1400はないでというのが大方の見るところ。
しかし、私にはこのコンサート企画時に目標とした明石の地にかくも個性豊かなトランペットが時期を同じくっして4人も(実は小林明氏を入れて5人居られました)輩出したという事実を明石の吹奏楽を嗜む中・高生に知らせるために、出来るだけ多くの中・高生に来て貰わなくてはなりません。
その時のチケット預託表を見てみると、まず共演の大器晩成会・明石メイトジャズオーケストラを手始めに,言い出しべの関谷卓児氏、OBの荻野さん、もちろん明石市民会館・ボサリオ・ブラジルとあらゆるつてを頼ってチケットをばら蒔いた。とくに無茶をしたなとおもうのは明石高校OB125名に5枚ずつ送りつけなんとか捌いて下さいと頼みこんでおります。そして回収した明細をみてみると、頼りにしていた人があまり捌いてくれていなかったり、思いがけない人が無茶苦茶頑張ってくれていたり。それにしても今年の阪神タイガースではないけれど「必死のパッチ」で走り回った訳です。大人1200円(当日1400円)中・高生600円が高かったのか、安かったのかも分からなくなっちゃった。
一斉にばら蒔いたチケットの回収を待たず、6月20日ころからは、市内中・高のブラスバンド巡りを始めている。中学の音楽部教諭は明石高校の後輩連を始め顔みしりばかりで、どうかJAZZを生徒に聴かせてくれと頼み込む。高校は明商・明石西・明南・明石北といって城西・清水は行っていません。
この中・高生がどれだけ来てくれるのか、心配でもあり、かすかな期待も持っておりました。
もちろん、弘子ちゃんも大車輪でプレーガイドと化しておりました。
あれはいったいいつ頃だったんだろうか。チケットを無理やり押しつけている記録が5月26日。それまでに企画立案の期間を考えると4月の初めだったかな。明石高校4回生音楽部OB・フルートの関谷卓児氏からTELが入る。「津野君、東京のBLUE COATSと言うBIG BAND 知ってるよね。明石高校・旧制中学併立1回生のトランペットで森寿男さんと、本木英夫さんの同級生でやっている人気FULLBANDのことだが、7月15日と17日関西で公演が有るんだが、ちょうど16日(水)が空いちゃって、ギャラはアゴ・足無しの裸足で好いんだけど、何か仕事ないかと言ってきてるんだ。津野君のお店では狭すぎるが、何とか面白い企画ないかな。」
そのころ10年も上のOBから声がかかれば至上命令と同じ事。何としてでもやってくれとのお言葉。俺も若かったんだ。なまじJAZZに手を染めていたばかりに、BLUE COATSの何者かは十分承知しているし、関谷氏は伊藤隆文氏と4回卒の同級生でもある。そのうえ森・本木といえば、戦後の東京のJAZZ界で、いち早く明石高校のラッパとして勇名を馳せた伝説的プレーヤー。ご両人の活躍の御蔭で、あとに続いたラッパ吹きが東京のバンドに雇ってもらう際には、ギャラが並の3段は上だったとか。それほど評価が高かった。その森寿男さんがバンドマスターで、本木さんが一番トランペット、おまけにグレンミラーサウンドが売りときては、にべもなく断る言葉が出てこない。
啓三に相談すると、BLUE COATS招聘大賛成是非やろう、日本楽器神戸支店も応援させるとの返事。
啓三も神戸支店を根城にしたBIG BAND「大器晩成会」を立ち上げて腕がウズウズしていたところか。明石メイトも満5年を経過して、かなりの充実をみせている。もちろんBLUE COATSの前座とはいかないが、そこは何とか熱演で許して貰おうという考えだ。もちろんプロとの共演であればこれ程良い刺激はありません。
森・本木氏が昭和23年卒で伊藤さんが27年卒。そして忘れちゃあいけない、日本のマイルス・デビスとの呼び名で有名なJAZZペットの片岡学鯰学舎(高級料亭)主人にお願いして、音楽プロディユサーも兼ねて貰うという豪華なラインナップが纏まった。片岡氏は明石南高校卒で明石中学音楽部がマッカーサーの命令で、新制高校制となり、明石と明石南の両校に引き裂かれた際の一人であります。・・もちろん司会は末廣光夫御大
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)