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末廣光夫氏は電話リクエスト時代から神戸のJAZZシーンをリードしてきた司会者を通り越してMUSIC PRODUCERというべき存在の御仁であります。その昔ボサリオ一座の2回のTV出演の司会、GOOD TIME JAZZ CONCERTの司会も2度お願いした。1980年(昭和55年)2月11日にはラジオ番組ジャズナインに呼んだ貰って、『ジャズと私』というテーマでインタビューを受けたりもした。声をかければ思い出してもらえるだろうが、もう80歳と聞いて二の足を踏んだ。肝心のお目当て右近雅夫の演奏を待つうちに、去年の神戸ジャズストリート賞を受賞した女性トランペットブリア・スコンベルグ(カナダ)の鳴りが心地よい。北欧系の美貌も手伝って今年も人気独り占め。期待した通りのメロデイーラインでアドリブが進む。どこかで聞いたようなメロディーが繋がって、オヤという新鮮味には欠けている。それとトロンボーンのバート・ブーレン(オランダ)。すごいリップワークだ。ほとんどハイトーンでスライドワークの少ないこと。まるでバルブトロンボーンを吹いているのではないかと錯覚する。オランダ人でもドイツ系なんだろう。精密無比なアドリブを繰り出す。もう一人のポンニチトロンボーンとJアンドKと称してのDUOも所々で二人のテクの差を感じる。演奏はデキシーだけでは単調になるとかで、スイングバージョンをいろいろと繰り出してくる。私見を言えば、デキシーに徹したほうが好みなんだけど。
ハッピーデキシーばかりだから飽いちゃうんだ。本来デキシーは葬列を導く音楽隊で、天国に召された身近な人を往きは、惜別の情を込めてマイナーで、帰りは天国に召されたことの喜びをハッピーに演奏したものなんだ。ふと横を見ると、娘より若い、といってもOVER50のチョイトベッピンを連れた77歳のDOCTORの指先がリズムを取っている。かしこまって座っている姿で楽しんでるんだと微笑ましい。
いよいよレジェンド右近の登場だ。彼も昭和5年生まれの77歳。トラッドデキシーそのものの演奏ぶり。まさに伝統芸ですな。もちろん音もよく出ていました。それも今風の軽いもんじゃない、想いの籠った味のある音色。
バトルの際、金髪美人に吹き負ける場面もあったように感じたが、十分伝説を納得させるラッパでした。喝采
ステージングで言えばもっとハイライトさせるべきだっCIMG0448A.jpgた。CIMG0450A.jpg






















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CIMG0455.JPGJAZZクラリネットの名手・北村英治師匠は相変わらず若々しいお顔でフアンに取り囲まれて談笑中。明石の市民会館の公演担当の広瀬君が無類のJAZZ好きで、私がやっていたMUSIC・INN ボサリオの常連の一人。その彼が職権を乱用して、北村英治を招いてボサリオのバンドと共演させる企画を強引にすすめた。ほんと官の力は強いは。北村師匠も二つ返事で来演を快諾。『JAZZ街あかし』と銘打っての公演が1976年11月5日明石市民会館中ホールで開かれた。その時の我々のバンドが「伊藤隆文とボサリオ一座」。御客もそこそこ入って、アフターのボサリオでのジャムセッションも盛り上がり、北村英治のクラを真近で堪能したことを思い出す。
余談になるが、JAZZに理解を示す貴重な存在であった広瀬君は、その後立て続けに、渡辺貞夫・日野皓正とJAZZの巨人の公演を組んだが、JAZZ夜明け前の明石であったんでしょう、さんざんの不入りで、舞台の袖で涙を流さんばかりの広瀬君を慰める言葉もありませんでした。その後彼は早速移動となり、行った先が、土木課。何という人事であったことか。つい最近役所で出会って聞いたところによると、今は天文科学館で楽しくやっているらしい。
ロビーには早々と紳士淑女が参集。しきりとあいさつを交わしているところを見ると、どうやら永年通いなれたイベントの常連ばかりといった雰囲気。その年齢も後期高齢者前後のカップルが多い。女性連は意外と和装が目立ち、思いっきりおしゃれのいで立ち。圧倒的に夫婦での来場者が多いことが分かる。これはやはりJAZZの影響か。モダンボーイ・ガール達は年を取ってもボールルームにはカップルでお出掛だ。
やおらウエルカム演奏のうちに開場となって席におさまる。舞台右そでの13番テーブル。当日予約にしてはまあまあの席だ。
主催者・末広光夫氏の挨拶・司会で前夜祭の開始となった。のっけから末広氏の声がかすれているのに気づく。歳相応の変化なんだろう。それにしても年寄りばかりだ。
 

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CIMG0434.JPG神戸JAZZSTREET2008の前夜祭は今日3日午後7時から新神戸クラウンホテルでの開催だという。弟・啓三も行かないかなと思い、JAZZSTREETどうすると電話を入れた。私の説明が悪かったのか、会場が混んでいてまともに聴けないから行かないと即答。いや前夜祭だと言い出しかねて電話を切った。実は前夜祭なるものの実体を知らない、今回が初体験であります。もっと詳しく言えばよかったな、御免なさい。
いまからでは、前夜祭も切符(DINNER付き)売りきれているのではと思いながら、TEL入れる。案に相違してまだ当日申し込み受け付けますとの返事。それが午後1時30分頃のこと。すぐ弘子ちゃんに出動スクランブルをかける。
この神戸JAZZSTREETは今や神戸の名物となっていて、今年で27回を迎える。1981年からもう27回。
神戸JAZZ界のドン・末廣光夫神戸デキシーランド協会会長が主宰する誠にユニークなJAZZフェスチバル。
たぶん末廣さんは神戸の町に一日ニューオーリンズを再現しようとしているに違いない。2日間にわたって神戸の町にJAZZが溢れかえる。海外のゲストも含めて160人を下らないMUSICIANが集う。
会場のクラウンホテルはかのダイエーの総師・中内功が弟・中内力に対抗して創った新神戸オリエンタルホテルのこと。中内功氏が神戸商科大学OB会の淡水会会長であったことから、何度か同窓会の招集でおじゃましている。近くでは高知県人土陽会公文康名誉会長の適寿リハビリ病院創立20周年パーティーに招かれた。
前夜祭の会場はこの時と同じ10Fの大ホールであります。いったいどんな雰囲気の会なのか知りたくて少々速い目に会場前ロビーに入る。だいたい今まではいつも演奏する側にいて聞くがわの気持ちがサッパリ分からない。・・ロビーを見渡すと、北村英治の見事な白髪の頭が揺れていた。

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3日午前新聞を読んでいると、右近雅夫「凱旋の音色神戸に」という記事が目にとまった。右近雅夫は1954年(昭和29年)12月2日、関西学院の学生バンド、KGハートウオーマーズを率いて一枚のレコードを録音した翌年9月一家をあげてブラジルへ移民した人物が神戸での演奏会に里帰りするとのこと。神戸在住のミュウジシャンで右近雅夫の名前を知らないものはいない。伝説中の人物である。
(以下、神戸JAZZSTREETの末広光夫JAZZエッセイより無断引用)
「右近雅夫?誰のこと?」そういう方もあるでしょうね。「聖者の行進」を日本で最初に演奏したのは、プロのバンドではなく、アマチュアのしかも関西の学生バンドでした。K・Gハートウオーマーズ、そう今のオリジナル・デキシーランド・ハートウオーマーズの前身です。そのリーダーが右近雅夫でした。
その彼を有名にしたエピソードがあります。昭和28年12月19日のこと、この日はジャズの神様と言われたルイ・アームストロングが神戸の聚楽館にやってきて神戸のジャズフアンに本場のジャズを聴かせてくれた、忘れることの出来ない日です。(おやじ・清志さんもいそいそと聚楽館に出かけた。)
昼間の公演が終わって、興奮冷めやらぬ僕のところへ、右近雅夫がレコードを小脇にはさんでやってきました。「新しいレコードが出来たので、プレゼントします。」と言う。彼の言葉を聞いて、傍らにいたジャズ評論家の油井正一さんが即座に言いました。「末廣君、これをルイに聴かせてみようよ。どこかに蓄音器を貸してくれるところはないかな。このレコードを持ってルイを訪ねるんだ。」 運よく近くに知り合いの楽器店があったので、僕は事情を話して手回しのポータブル蓄音器を借り受け、さっそく3人でルイの楽屋を訪ねました。
アームストロングは冬だというのに、上半身裸でくつろいでいましたが、我々を快く楽屋に入れてくれました。
早速、右近雅夫が持参したレコード、ハートウオーマーズの〈Tin Roof Blues〉に針を落としました。
出来上がったばかりですから、僕たちも初めて聴くわけで、アームストロングがどんな表情を見せるのか、右近だけでなく、その場にいる全員が本当に緊張しました。
時間にして3分そこそこの演奏の間、アームストロングはあの大きな目を凝らして真剣に聞き入っていましたが、「もう一度聞かせてくれ。」とのレクエストです。再び、まるで御前演奏といった感じの緊張の3分が過ぎた後、「これはマグシー・スパニアか?」、「ノー、ここにいる青年、右近雅夫の演奏です。」
するとその途端、立ちあがったルイ・アームストロングは、”OH MY BOY”という力強い言葉とともに、右近雅夫を引きよせて大きな体でシッカリ抱き締めました。日本の若者、右近雅夫が、ジャズの神様に祝福された、まさに世紀の瞬間でした。このレコードは早速次の日曜日にラジオ神戸のジャズ番組で、その時の興奮そのままの詳しい解説とともに放送されました。また、このニュースは東京にも伝えられ、神戸に右近雅夫という名手ありと、一躍全国的に知られるようになったのです。・・・その右近雅夫が里帰り演奏を神戸JAZZSTREET前夜祭で披露するという。これを聴き逃すわけにはいかない。

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2444b9d1.JPG3199bdc0.JPG                                  













和38年(1963年)1月10日、神戸国際会館でのプラターズを弘子ちゃんと聴きに行った。思えばこれが弘子ちゃんとの初デートとなる。爾来実に45年のお付き合いが始まった訳だ。
2浪してやっと商大にもぐりこんだ報告に、音楽部顧問・有永正人先生を母校に訪ねて、「臥薪嘗胆の一語」と褒めて貰ったのか、あきれ返った言葉なのかよく分からないまま、現役ブラスバンドの練習をのぞきに行く途中、真黒に日焼けした小柄でほっそりした女学生が、一生懸命FLUTEの練習をしているのを見かけて、わざと「講堂は何処ですか」と声を掛けた。これがキッカケで、この一年、OBの練習、たそがれコンサート、全日本吹奏楽コンクール関西大会・本大会(函館・一般の部で優勝日本一)と行動を共にしながら、EYEコンタクトはするものの、デートとまではいかなかったが、弘子ちゃんも卒業まぎわとなり、思い切って弟啓三が2年生で同じ音楽部でいたことから、PLATTERSのチケットを届けて貰った。チケットは渡したものの、実際会場に現れるまではドキドキもので、国際会館の前で待っていたのが昨日のように思い出される。・・純情だったんだ。ショートカットにツイードのハーフコートの出で立ちでやってきた弘子ちゃんとどんな話をしたのか、よく覚えていないけど、肝心のプラターズを実際聞いてみるに、今まで聞いていたリードテナーがどうも違って聞こえる。アレと思い買い込んでいたプログラムをしげしげ見てみると、TONY WILLIAMSの名前がない。ソニータナーと入れ替わっている。
プラターズが1955-56にかけて大ヒットを飛ばしたのもTONYのリードテナーの魅力のお陰だが、結局TONYと4人コーラスグループの縛りになっちゃって、来日直前にTONYがSOLOで独立しちゃったらしい。・・とこういったことは後で気がついたぐらいのことで、無事家に送り届けるまでは、どうだったかも思い出せない。ただ耳に残っているのはそれこそプラターズのヒット曲「ONLY YOU」であり、そのなかの歌詞が「YOU ARE MY DESTINY」でありました。

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