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もともと彼は雪印乳業・神戸工場(神戸市西区伊川谷潤和)の工務課勤務の技術屋さん。結婚後東京本社に栄転し、その後ロジステイク課長まで勤め上げたが、あの「俺は昨夜も眠ってないんだ」騒動の雪印崩落の際、早期退職により退社。しかし不思議な経緯を辿って小岩井乳業に就職したのが、OVER50.そして無事一昨年定年を迎えて、現在はロジスティック専門のコンサルタントとしてとびまわっている。
東京へいってからは、30余年音沙汰が無かったが、昨年4月、三男の結婚式に駆け付けてくれたのを切っ掛けに、また御付き合いが再開した。なにしろ、この三男がお腹にいるころからの付き合いで、我がてんぷら店のカウンターでの勉強が幸を奏して計量士の資格を獲得、本社転勤の道が開かれたというもの。一時は家族の一員のごとく、どこに行くのにもその姿がありました。ほんと邪魔にならない性格の持ち主といえる。あのころの親身なあ世話が尋常なものでなかったことに少しは気づいて呉れたのか、まったく以前と変わらぬお付き合いにアットいうまに戻りました。
彼と知り合った切っ掛けは思い出すだに、噴き出してしまう。そのころ(昭和48年・1973年)、さんよう横丁の一角、串カツ屋の跡を利用して、カレーコーナーを開けていた。といってもMCCのカレー缶に少々手を加えた程度のもの。こだわりなど何処をさがしても見つからない。それでも通りに面している御蔭か、時たまお客が紛れ込んでくる。その一人がアリチャンでした。まずいカレーは会話でカバーとばかりに、取りとめない会話が始まって、彼が玉津の雪印に勤めていること。実はピアノを習い始めたこと。そして狭い寮の部屋にピアノを買い込んだはいいが、勤務の都合で、昼間弾けなくてこまっていること。そしてやるならJAZZがやりたい。・・いやはや飛んで火に入るとはこのことか。ちょうどMUSIC・INNボサリオを開いたばかりで、お店に自前のピアノがなかった。下手でもなんでもいい、コードを忠実に4ビートで弾けるピアノ弾きがいないものか。との悩みを一挙解決してくれる人物の登場となりました。その後、ピアノを店に持ち込んで、ボサリオ一座のピアノとして、ターヤンから徹底的にビートを教え込まれる。夜も日もなく、出没して、ほんとに雪印に勤めているのか疑ったほど。彼が会社の同僚として連れて来た吉川芳男と妹が結婚する運びとなったり、ボサリオを舞台に、いろんなステージに出演したりと、まさに一杯のカレーがもたらした不思議な御縁となったわけです。
この30余年の無沙汰は彼なりに一生懸命働いていた証左と受け止めて、やはり心底気の合った相棒として、ロジ関連の不動産案件を営業する方向で利害が一致。こうなれば以前にもましたシナジーが期待できることを確信して新幹線・西明石までお見送り。
Stars fell on Alabama(アラバマに星降りて)
Verse Moonlight and magnolias、straight in your halr
(序奏) All the world、a dream come true
Did it really happen, was I really there?
Was I really there with you?
とあって、 We lived our little drama、we kissed in a field of white
And stars fell on Alabama that night
I can‘t forget the glamar, your eyes held a tender light
And stars fell on Alabama last night
と続いたこの歌詞の 「We live a little drama」にKOされちゃった。毛唐もこんなことを考えているんだという驚きと、そうその通りという共感が湧き上がって、わが人生のテーマ曲の一つになったというわけ。
御代が2,000円。かなりイータカなり。
ルイについては、皆様先刻ご承知の通り、不出世のトランペッターであり、誰知らぬものがない、エンターテナーであります。このエンターテナーという要素が大切で、今時達者に吹くプレーヤーは山ほどいるが、聴衆を熱狂させ、沸騰させるほど受けるプレーヤーは皆無といっていいだろう。この受けるということに関しては、ルイの右に出るものは無く、伊藤隆文が日本のルイと賞されたのも、この受ける演奏という一点においてであります。
もともとDIXIELAND JAZZは南北戦争後、南軍軍楽隊の残党が持ち帰ったラッパ・太鼓を葬式の葬送音楽に用いたことから始まった。ルイは1901年ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人街に生まれ、子供のころに、お祭りで浮かれて、ピストルを発砲して、少年院に送られ。その少年院のブラスバンドでコルネットを吹くようになったのが、音楽との最初の出会いと言われている。通称サッチモ(がま口)と呼ばれた唇は、見るからに鉄の唇そのもの。そのハードリップワークが奏でるメロデイーはまるで歌うが如く、自由奔放・変幻自在の動きを見せる。喋る口元からして、タンニングそのもの。その彼が楽譜が読めなかったと聞かされて心底驚いた。余談ですが、1953年の日本公演の際、わが親父は神戸・
聚楽館でその公演を聴いております。
グレンミラー物語は僕のラッパ人生の入口となりました。その後の経験則で分かったことですが、楽器ごとに大体吹き手の性格が不思議ときまっていることに気づく。例えば、トランペット吹きでそこそこならしている奴は決まって、酒のみで、我がままで、女好きときている。ホルンは一見大人しくみえるが、文句たれが多い。一方トロンボーンは地味屋で、常識人が多いように思っています。性格が向いているからその楽器をふくようになったのか、その楽器を吹きだしたから、そんな性格になったのかは、よく分からないが、確かに楽器向きの性格はあるように思います。
「五つの銅貨」を観たのは昭和33年(1958年)のことだろう。例によって、酒場でのセッションもお約束どうりで、アームストロングのトランペットとレッド・二コルスのコルネットの掛け合いは実に圧巻。
リパブリック讃歌を聞いて、この曲はコルネットで吹かないと感じが出ないなどと一人合点したもんです。この「レッド・二コルスと五つの銅貨」バンドには、ジミー・ドーシー、ベ二―・グッドマン。グレン・ミラーがいたから驚き。もちろん二コルス自身の吹き替えだから、実にベストメンバーでのセッションと言える。
とくに印象深かったのが、テーマ曲の「五つの銅貨」に絡めて、レッドの愛娘とルイ・アームストロングの3人が歌った「ラグタイムの子守歌」「GOODNIGHT SLEEP TIGHT」の掛け合いで、同じコード進行でこうも上手く曲が作れたもんだと感心したものです。いつかファミリーで小粋にアカペラでいいから歌えたらと歌詞を覚えこんでいたが、ついに息子たちはロックに走り我が願いは叶えられず終い。
去年の4月、三男乃吾(だいご)の結婚披露宴で歌ったところ、気持が昂ぶってか,胸が詰まって、涙が出て、花嫁の父でないのに、何かがこみ上げてきて、歌になりませんでした。
ちなみに、WISH ON・DREAM ON・DANCING ON・LAUGH ON・そして一番大事なLOVE ONが五つの銅貨。
それと、この映画に惹かれる理由として、グレンを中心に登場する他のプレーヤーが当時の超BIGなNAMEの大物ばかりで、その連中が、実際にセッシヨンを繰り広げるから堪らない。たいがいが、その当時・禁酒法の時代、コーヒーカップで密造酒を飲ませるという非合法クラブでのセッションに現れるのが、ルイ・アームストロング、ジーン・クルーパー、ベン・ポラック、フランセス・ラングフオード等、錚々たる連中が腕を競う。グレンのトロンボーン演奏はジョー・ユークルの吹き替えだったらしいが、あとは「モノホン」。そんな眩しいような場面が繰広げられていた。これが、どうやら頭に刷り込まれていったらしい。20年も後に、DIXIELAND・JAZZに足(手ではありません)を染める際、かなりの助けになったと思い返しています。それにしても、主演女優・ジューンアリスンは僕の好みでなかったな。それとTRUNPETのハリー・ジェームスも顔を出していたように覚えているが、もしかしてベニー・グッドマン物語あるいは五つの銅貨の方だったかな。・・・だれか教えてくだされ。
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永遠の自営業者で好奇心の塊。
自他ともに許す体育会系ミュージシャン(SoccerとTronbone)