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 何しろ個人的に気になるのは、中城家を後にして、「龍馬ハ小島ヘ、中島ハ津野ヘ」Iの下りであります。
まず、小島というのは、龍馬を慕っていたと言われる川島家の田鶴が嫁いでいる家です。
田鶴は、二人扶持、切米八石の御歩行小島亀次郎の息子玄吉に嫁いでいた。亀次郎の妻千蘇は川島猪三郎の妹でしたから、玄吉と田鶴は従兄妹同志の夫婦で、二人はともに嘉永二年生まれ(1849)生まれの同い年。亀次郎の妹直は城下浦戸町の医師今井孝純に嫁いで純正を生んだが、改名して長岡謙吉となる。
「藩論」「船中八策」の起草者と云われる海援隊文司だ。そして龍馬の継母「北代氏之女ー伊與」の叔母は今井家に嫁いでいた。すなわち謙吉の祖母である。なんと濃厚な龍馬との結びつきであることか。龍馬を支えた濃厚な人間関係の原点が垣間見える。
一方、中村作太郎(信行)が向かった先の津野がどういう家で、中島とどういう関係が有ったのか、かなり調べたが今の段階では知りえていない。まことに残念だ。
後、海援隊で共に活動した陸奥の妹を妻にする中島は、明治維新後、信行と改称して新政府に出仕。外国官権判事兵庫県知事を務め、欧州留学を展開すると自由党副総裁や立憲政党の総理を務めた。
明治23年の第一回衆議院議員選挙に当選して初代衆議院議長を務め、貴族院勅選議員となっている。
その中島が尋ねた先が津野とあることが無性に嬉しい。というのも、関が原合戦の際の津野親忠自刃以来土佐の歴史に津野の名前が登場することは殆どなかった。
同じ家系の中平の名前は、たびたび歴史の節々に聞こえてくるのに。
いま、想像できるのは、中島作太郎の父猪之助が梼原から中島家の二女の婿として養子に入って居り、この地縁から津野に繋がっているのではないかと思う。決死の土佐潜入の際、あえて立ち寄った先は、縁者知人のうちでも心許せる先でなければならなかったはずだ。

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 22歳の若妻早苗の目に映った龍馬達の肖像は興味深い。彼女の記憶は四十年の歳月を隔てているのに鮮明である。早苗は懐妊中で、翌年(慶応四年)二月、男児を出産した。これがこの筆録を遺した直正である。

父上、サキ入リ、坂本、中島ガ未ダ湯ハ湧イテイルカト云イシニ、皆入浴セシ後ナリシガ再ビ沸カセリ。
坂本ハ土藩論ヲ奮起セシメントテ帰国セシナリ。(当時、時勢切迫ノ時機ヲ気遣ヒ)
祖父ニ叔父ノブッサキ羽織ヲ着セタリ。
宴会ノ席ニテ御徒行松原長次、頻リニシャベリ居リタリ。一同茶ノ間ニテ食事、小沢ハ自ラ井戸ヲクム。
中島ハ津野ヘ、坂本ハ小島ヘ寄リ、船へ帰ルトテ宅ヲ出タリ。
小沢ノ宿ハ紺屋広次方ナリ。浜田祖父(医師、早苗ノ父)診察ス。
二,三日間、母ハ湯ノ加減等ヲナセリ。坂本氏ヨリ鏡ヲモライシト云フ。
坂本ハ入浴後、裏ノ部屋ニ休憩、襖ノ張付ケ見居リタリ。
母火鉢ヲモチ行シニ「誠ニ不図御世話ニナリマス」ト云ヘリ。

中江兆民は少年時代、長崎に留学していた時、龍馬から純然たる土佐弁で「中江の二イさん、煙草を買ふて来てオーセ」と頼まれたことを離しているが、中城早苗ほどに龍馬の風貌と挙措を鮮やかに語っている人はいないだろう。彼女の目に映った龍馬の風貌はどことなく寂しい。
(田中一郎 坂本龍馬ー隠された肖像ー より)


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 「龍馬来宅」
『坂本龍馬 才谷梅太郎。母二十二ノ時、直正出生ノ前年来宅。(母妊娠5ヶ月ノ時)坂本ハ権平ノ弟二シテ郷士御用人本丁ニ住ス。才谷ハ色黒満面ヨミアザ(注=方言ソバカス、またアザ)アリ。総髪ニテ羽二重紋付羽織袴(白キ様ナル縞ノ小倉袴)、梨地大小。髪ウスク柔和ノ姿ナリ。一弦琴ヲ玩べり。・・・
氏神(仁井田神社)神事ノ日ニ来宅(旧9月23日)。旧浴室ニテ入浴。何レモ言語少ナシ。
当時、坂本ハ小銃ヲ芸州藩ノ船ニ積込、佐々木ニ面会ノ為ニ土佐ヘ来レり。本船ハ袂石ノトコロニ着。父上、其ノ朝招ニ応ジテ行カレシガ、能瀬作太郎(平田為七ノ甥、後楠左衛門)ト共ニ一行ヲ案内シテ、藪ノ方ヨリ宅ニ導キシナリ。』

震天丸は浦戸港外に一旦投錨した後入港し、「あこめ渡合」(直守)、「袂石ノトコロ」(直正)に碇泊した。この二つは同じ場所である。龍馬は甲板に出て5年ぶりに見る浦戸、種崎の風景を目を細めて眺めていたことであろう。・・
龍馬の一行は裏の竹藪の方から、亀太郎に案内されて家に入って来た。種崎の内海側は桑野神社一帯に大竹藪があって寂しい所であった。人目を避けてわざとその方から導いて来たのであろうか。その日は氏神の仁井田神社の秋祭りで表の通りは人の往来が多かったのだろう。

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 困りぬいている様子は皆さんにも判ってもらえたのか、今日は元高知新聞大阪支社の北川雄作記者から、友人の校長さんに学校ぐるみで龍馬レターに取り組みを頼んでみるきにとのTELを頂いた。まことに有難い。
早速くれぐれもよろしくとお願い書を認めて速達で今出してきました。
ほかにも、昨日は神戸新聞社会部の河尻記者から、神戸の龍馬ゆかりの地を教えてとのメールがあり、今回の龍馬甲子園を含めて、我が会が7年に渡って龍馬IN神戸をテーマに行ってきたことを報告し、なお今回の龍馬伝に神戸も乗り遅れることの無いよう、くれぐれもお願いした。
NHK神戸の福田記者への押しつけメールの返事ままだ来ない。
高知新聞大阪支社の現記者西村君からは、たびたび資料をくれと言っていたのに、高知で龍馬レターを広報されて、こじゃんと立場がないとの苦情もありました。
確か彼に頼むぜよと声を掛けたのが去年6月ころか。
その後も大阪県人会総会ではビラも渡しました。
やはり、周波数が合わないと話がうまく進まないんだ。今からでも遅くは無いと言ってみたが、どうも返事に力が無かった。

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 中城助蔵が「車輪船沖遠ク来而碇ヲ下ス。安芸船之由。」と『年々随筆』に記したが、よもやその船に龍馬が乗船しており、おまけにその夕刻種崎に上陸し、他ならぬ自分の家に忍んで来るとは思いもよらなかったにちがいない。
その詳しい状況は中城直正の『随聞随録』の『龍馬来宅』に記されている。
この覚書は罫紙三十三枚に書かれたもので、表紙に「明治四十年十二月初旬」とあり、安政大地震と津波の状況をはじめ、幕末の詳細な事物の聞き書、調査が記録されている。筆者の直正は助蔵(直守)の長男亀太郎(直楯)の長男で慶応四年生まれで所第高知県立図書館長を勤めた歴史家だ。
龍馬来宅は直正が父直楯と母早苗から聞き取った話を控えたものだが、特に龍馬達の衣服や言動などは早苗の優れた記憶力を再現したもので、女性でなくては観察できない趣があり、龍馬風貌をこれほど鮮やかに描いた文章は他にないように思われる。

(山田一郎 坂本龍馬ー隠された肖像ーより)

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