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 サンケイ新聞半紙の手紙募集広告の反響は今のところゼロ。
神戸新聞の大月記者に再度の取り上げを頼みこんだり、県商OB会に何か龍馬さんのことを喋れと言われれば喜んで出向き、その目的は手紙を寄稿してもらうこと。
なんとか、我が切ない思いを広げたいと足掻いておりましたところ、今日大援軍が駆けつけてくれました。
年が明けて、毎日ポストを覗くのが日課で、年賀状も終わり、未だくる気配のない龍馬レターを待ちわびるこの頃。
こわごわポストに手を延べると、分厚い封筒の感触。やったとばかり手に取ってみますと、やれ嬉、津市立栗真小学校中川三朗校長先生からのお便りでした。
先生には去年11月3日の京都での龍馬フォーラムで面識を頂き、無理やり生徒さんに手紙を寄せて頂くようお願いしておりました。
その願いを叶えて下さり、忙しい学校日程の中、冬休みの課題として、21通の龍馬レターを集めて頂き、言葉を添えて送付して下さった。
まずは手紙を書いてくれた生徒の皆さんに心からありがとうの言葉を贈ります。
担任の先生方にも、無理なお願いを叶えて下さり感謝感謝。言葉もありません。
校長先生、待ちわびておりました。頂いた手紙、大切にいたします。
早速HPにUPしたいところですが、校長先生に連絡了承を得てからにいたします。皆様お楽しみに。
こうなれば、なんとしてもこの龍馬甲子園を成功させねばと一層の努力をいたします。
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 神戸の高齢土佐人を自称するYAMASAKI天狗様から仮説・龍馬は生きていたの寄稿がありました。
龍馬フアンの皆様も納得の検証を一読されたし。

 

一般的には龍馬は19671115日京都近江屋で京都見回組佐々木唯三郎に殺害されたことになっているが、実は、龍馬は死なずにその後、発生した諸々の重大政策・事件に係っていた。龍馬さんから直接、又は関係者から聞き取れてないが、その一部に触れてみよう。

 

1867年 大政奉還  内紛を防ぎ、諸外国の介入をさせずに11月平和裏に政権移譲 新政府構想を建白、参議に推薦されるが、そのような堅苦しい者にはならんぜと断る。

   勝海舟 ジョン万次郎より教唆され自由国家構想アメリカの大統領構想を提出する、が時期尚早となる。他閣僚は龍馬の構想には、頭が回らず着いていけなかった。

   没後150年を経るが、大統領構想は日本では未だ熟さず。

1868年 五ヶ条の御誓文が公布される。ご存知の如く龍馬案が根底にあった。

戊辰戦争は、食い止めることができなかったが、土佐出身の官軍幹部には、日本

人同士の殺生は控えよと厳命していた。

1869年 版籍奉還  諸大名から天皇に領地領民を返還させる統一国家形成構想は既に龍

馬が企てており四藩主もそれを率先し実行した。

    龍馬は亀山社中を世界の貿易会社に発展させたいと願い貿易業を見事に活かし、1886年武器購入・調達により薩長同盟を図った。一方、土佐藩を利用した岩崎弥太郎が1869年、九十九商会(後の三菱商会)を設立し海運業を行い、龍馬と日本の海運業の基礎を作り上げた。

1871年 廃藩置県 藩とかちっぽけなことは言うなよ。

1873年 徴兵制の布告 征韓論おこる

龍馬は富国強兵論者であった。貿易で国に富を、富を活用し国力拡充 海外進出。

1877年 西南戦争を批判  西郷と大久保の対立を非難 なぜ権力闘争をするがかや

1881年 板垣退助が龍馬に師事し、高知に立志社・自由党を結成 自由は土佐の山間より

1894年 日清戦争勃発  朝鮮半島をめぐり近代国家を目指す日本と清国との全面戦争

1904年 朝鮮と満州をめぐる日露戦争

    海軍の祖として、世界の海を自由に航海し海域を把握しており、秋山真之と共同作戦を練り、バルチック艦隊の撃沈案を計画。昭憲皇太后の夢の中に白袴姿でなく海軍服姿の龍馬が登場したと言われる。

幕末から明治と言う統一国家を形成すべき時期を75歳まで生きた龍馬。33歳以降は直接表に出ることはなく、常に日本の名参謀として近代国家建設に知力と人脈、情報網を駆使しその生命を全うされ、ふるさと、高知より天に召された龍馬さん。

ふるさと、土佐の偉大な先輩を誇りに思います。

高知出身の龍馬さんを誇りに思う高齢者より。仮説 龍馬さんは生きていた

 

 

 

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 オランダ商人ハットマンからライフル銃1300挺を買った慶応3年9月14日、安芸船震天丸を傭船して18日長崎を出航、20日下関に寄港、伊藤俊輔と面談。その日のうちに土佐へ向かった。震天丸にはライフル1000挺が積み込んであった。300挺は伊達小次郎(陸奥宗光)らに分与し、大坂へ直行させた。
山内容堂は、龍馬と後藤象二郎の献策を受けて、大政奉還を決断していたが、薩長の動向を見ると、一方で武力討幕の準備も怠ってはならなかった。
乾(板垣)退助らによって兵制改革と軍備充実が進められていても、土佐藩は近代的装備を欠いていた。
龍馬はそういう情勢を見極めて独力でライフル銃1000挺を調達し、高知へ運び込んできたのである。
(山田一郎著 坂本龍馬ー隠された肖像 より)

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 さても、龍馬さんの話ばかりで御免なさい。今日10日はサンケイ押しつけ半面広告記載日。
魚住駅の売店に走って3部買い求める。
確かにありました。新聞半面下段ながらなかなかの迫力だ。なんとか反響が有ってくれればいいんだが。
夕方、6時30分からは「ひとまる倶楽部」の新年会で、日曜日で真っ暗な桜町・お恵に参上した。
ここのママさんはお慶(大村、女傑)と名前を変えてほしいぐらいの豪快ママさんで、今日のメニューはふぐ鍋と来た。盛り付けた大皿をみると輝くような白子が山盛りだ。・・・今日は確実に尿酸値が上がること間違いない。
せっせと、てっさに箸を使っているところに、B回線で電話が掛かる。龍馬甲子園専用回線だ。
お話は、高知新聞・社会部、富尾記者。高知市上町の龍馬が育った町記念館で龍馬甲子園2010の広報ビラを見た、ついては高知で記事にしたいので、色々聞きたいが時間は有りますかとのことだ。
渡りに船、とばかりにお話を続けた。
当会の趣旨、内容はそれぞれHP参照として、今長崎が盛り上がっていますよとの情報を頂く。
そういえば、先般には長崎ホテル清風の女将さんから龍馬の好物はなんでしょうとのメールも頂いておりました。
長崎での広報窓口お世話下さいとお願いしたのはもちろん、明日はさっそく、ホテル清風にビラを宅急便で送らねばなりません。

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 龍馬研究の民間団体と言えば高知上町、龍馬が育った町にある龍馬研究会(永国淳哉会長)であります。
年間4回刊行される季刊誌龍馬研究もNO176を数え、現在では龍馬さんの事跡は研究し尽くし、今や海援隊のメンバーのことごとまで検証されている誠に真摯かつ意欲的な団体です。
先般は事務局長様が急逝されるという不幸に見舞われながらも、龍馬フアン全国筆頭としての研究研鑽は他の追随を許しません。
去年のよさこい祭を観に行った際、連絡所とされている、上町の喫茶「さいたにや」さんに参上し、今回の龍馬レターの企画書をことづけてまいりました。
そして今日、1月の季刊発送まじかとみて、強引にポスターを会員数「500-600名)を上回る部数を送付。季刊誌郵送に便乗して案内をして下さいとお願いした。
ココまだくればなりふり構ってはいられません。また龍馬研究会の執筆陣の先生方には寄稿をお願いすることも忘れず追伸いたしております。
きっと良い返事が返ってくることを願っております。



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