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前文・インフルエンザ渦中で書いたように総領孫の通う上飯田小の運動会へ行くのは今回諦めていたところ長男からメールが来て、孫2人も来てくれと言ってるよとの言葉に思わず行きますと返事のメールを打っていました。親馬鹿チャンリンから孫馬鹿チャンリンへと変身。いそいそと弘子ちゃんも旅の準備にとりかかる。
私の方の仕事事情を言えば、」この時期遊びにいっている場合ではないんで、皆さんに申し訳なく思いながら、
行かなかった悔しさを引きずるよりは、イッソ切りを付けて後本業邁進とする方がいいような気もする。
ところで今回は例の1000円割引弾丸ツアーは封印。というのも名神が大改修工事で豊中ー春日間夜間通行止めとなっているし、往復に費やす時間がもったいない。
広げたジパング倶楽部の会員証、今季はまだいちども使っていなかった。
22日早めに横浜へ行き開港博Y150を見学。23日上飯田小運動会。24日浦安のホテルで一泊。25日長男一家とデイズニーランドで遊ぶという怪しからん計画だ。・・・どちらさまもこんな勝手をしてすいません。

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インフルエンザ余波と書こうとおもったが、あえて渦中とした。
この23日は長男の長男が楽しみにしている運動会。かねてより、弟の入園式に行けなかったこともあり、運動会にはぜひ行くと約束していたんだ。
日曜日、今話題の「天使と悪魔」を大久保のシネコンレートショウで見ている間に、長男からメールが入っていた。運動会どうするとあった。
連日のインフル報道、それもこの2日で神戸発生源で明石も一人発症ときた。そんなニュースが頭の中に入っていたんだろう、そのことを聞いてきたのかと早合点して、おもわずインフル流行のためこの時期運動会へ行くのは見送ると返事をしてしまった。
ところが、長男からの返事は、孫兄弟2人とも楽しみにしていたのに残念だけど仕方がないとのこと。
それなら万難を排してでも行くのにと、インフルが気にならないのなら行きたいけどと返事をしたが、帰ってきた返事が、「そういわれるとインフルも気になるなあ。」
そのうち、弘子ちゃんが予定していた婦人サロン、元国会議員の後援会などが続々中止との連絡が入りだした。
かくしてお互いの思いやりのずれから結果今回の運動会行きは中止と諦めた。
この決定は思いのほか応えましたね。いまやションボリしています。
孫ちゃんにどうして約束を破ることを謝ろうか。
恨めしいのはたかが風邪ひきをここまで誇大に報道するテレビですよ。

NHKのクローズアップ現代を見ているとやはり、インフル特集で、神戸市内の医師会の重鎮が集められて神戸市から、あふれる患者への対応協力を求める集会の映像に、我が神戸高知県人土陽会名誉会長・公文適寿病院医院長のお姿が映し出されておりました。・・・御苦労さま。

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旅に出た時は必ず地元新聞に目を通すことにしているが、宮崎日日にしろ熊本新聞にしろ、地方紙の大半に神戸新聞と同じ「親鸞」が連載されている。
五木寛之渾身の大著となろうこの親鸞。実に毎回新しい発見、新しい知識を読者に提供してくれる。
最近ではお釈迦様は一行の文章も書かれなかったことを教えられた。「その生前の教えは、当分の間はやさしい詩のかたちで、口承され、人々に伝えられた。これを偈と言う。やがて、それらの偈を文字にしてまとめる動きが始まる。これが経典の成立だ。そして時代とともに数万巻の仏典、経論が生み出された。誰もが憶えてうたえる教えの詩が、こうして学問となった」とか。
今は綽空と名乗る若き日の親鸞証人が、法然上人のもとで修行にはげみだした頃の、法然上人の教えと自分の理解の乖離に悩む日々を生き生きと活写されている。
この国に正式に仏の教えが伝えられたのは、百済の王家から大和の朝廷にもたらされたとされているが、この頃は仏事は当然国事であり、政、外交の大きな公務であったはず。
それがようやく法然上人の頃、仏の道を釈尊の正道に戻す動きをみせるようになった。
まさにその現場を五木寛之は我々に伝えようともがいているように思える。
どうか皆さん、この親鸞を必読されんことを。

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住職に話を聞いた。この寺は聖徳太子の命により高麗僧の恵便が開山。のち行基が中興した寺で播磨六山の一つで、姫路市内では最古の寺だそうです。はじめは法相宗だったが834年(承和元年)天台宗となり皇族、貴族、武士の信仰を集めた。平安時代に諸堂が整備され、山上には36坊もある大寺でしたが、1573年(天正元年)別所長治に攻められ全山焼失。1585年(天正13年)に秀吉によって再興されました。
圓教寺が逆に1578年(天正6年)秀吉が乱入して本陣とし、帰途仏像その他多数の寺宝を持ち去ったのとほま逆の扱いとなっている。
その寺と虚無僧の関係を聞きますと、別所長治焼き打ちの際、増位山から逃れた随厳寺の宗徒たちは、黒田職隆の指示を受けて白髭明神を奉じて佐土村(現・別所町)に移り、秀吉によって再建されたのち、増位山に戻ったが、その間僧兵たちは虚無僧となって潜んでいたことから、虚無僧発生の寺とされているそうな。
本格的な再興は江戸時代になって行われ、姫路城主・榊原忠次が菩提寺として再建整備に努めた。
参道ドライブウエーを下る途中にある、見晴らし台に設えられた石のオブジェ(写真)の中空を覗くと、姫路城がスッポリ入って見える。お城の後背として重要な位置にある自然の要害であれば、城主もこれを守り本尊とたよったことは間違いない。
もっと大切にされねばならない寺であるに違いない。
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神戸新聞の小さな記事が目に着いた。増位山からはるか眼下に姫路城が小さくかすんで見えている写真。
随巌寺という名刹参道からの風景とか。
書寫山圓教寺なら西国二十七番札所でもあり、近くはトム・クルーズのラストサムライのロケ地としても有名だ。それに比べて、記事にある随巌寺は松島の瑞巌寺と取り違えそうで、如何にもネーミングから損をしている感じ。されど、一見マイナーに感じるこういう向きが私の好奇心を掻き立てるに十分だ。
明石高校同窓会理事会出席するとかの弘子ちゃんの会議終わりを待ち合わせ、今日一時過ぎから出かけてみた。
312号線の近くながら、今迄訪れたことのない白国・野田あたり、姫路競馬場の北と言えば分りやすい。
白国からのドライブウエイが整備されているが、これがなかなかの難コース。ヘヤピンカーブと信じられない勾配の坂の連続だ。ただし行き交う車ほとんど無い状態。それゆえか近くの自動車教習所の仮免許運転のコースになっているらしく、教習車を何台も見かけた。急坂での停止・発進の教習には打ってつけだ。
ところで登り切った坂の先には、駐車場が完備。少し山道を歩くと、随巌寺の奥の院横に出た。
姫路城主榊原忠次の広壮な墓所がひときわ目を引く。
本堂(金堂)をお参りするため上ると、中から尺八の演奏が聞こえてきた。お寺で尺八とは何事とあたりを見回すと増位山虚無僧保存会・虚無僧供養献奏大会の張り紙。えもいわれぬ音色に魅かれて堂内を除くと、住職らしきお方が中で聞きなさいと手招きして下さる。
時間的には朝10時から始まった献奏会のラスト3人の演奏を聴くこととなった。
薩志・福永随秀、阿字観・谷林白亳、松厳軒鈴慕・伊藤随和の3演奏です。
堂内、御本尊御開帳前で20余人の虚無僧が集い、一人が入魂の演奏を献じている。
いわゆる派手な尺八の演奏ではなく、まるでお経を念ずるかのような尺八の響きが静寂の境地に誘う。
なんでこの寺で虚無僧なんだ。ぶっつけでお参りではサッパリ分らない。
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